テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
撫子さんの家は、青梅にあった。
本人から教えられた住所を頼りに、バスや電車を乗り継いで数時間。
其処にあったのは、築百年前後と思われる、木造の立派な屋敷。漆塗りの表札には、 「大和田」の文字。
そして門の前には、着物を纏った妙齢の女性。この人が撫子さんだろう。
「こんにちは、始めまして。イム・ヨンスです」
俺が挨拶をすると、撫子さんも深々と頭を下げた。
「初めまして、ヨンス君。本田菊の叔母の、大和田撫子よ。この度は遥々来てくれて、どうも有り難う…………」
撫子さんは、親族ということもあってか、菊に似ていた。柔和で淑やかなところや、 端正かつ可愛らしい顔が。
「早速案内するわ、ついてらっしゃい」
撫子さんはそう言って、俺を屋敷の中へ招き入れた。
*
「寒かったでしょう、お茶をお淹れするわ」
「…………有り難う御座います」
まだ真新しい畳の香る大広間に、俺はいた。撫子さんの淹れてくれたお茶を頂きながら、眺めるのは────部屋の隅に佇む仏壇。
そこには、学生服にかっちりと身を包んだ菊の遺影と、白い骨壺が置かれていた。そして奥に見える開かれた過去帳には、「本田 菊 享年十八」の他に、「大和田 尊 享年四十二」とある。恐らく家主だった人だろう。
「撫子さんは…………他に家族がいるんですか」
「主人がいたけど、子宝に恵まれなくてね…………主人は8年前に亡くなって、この家にいるのは、私一人だけよ」
「…………そうなんですか」
撫子さんは、どうやら未亡人のようだ。
「そうだ撫子さん、俺…………今日、菊にお供えしたいものがあって…………」
「あら、そうなの?」
「はい、ただ…………匂いが強めなので、供えるにしても、正直どうなんだろうと悩んでまして…………でも、菊が欲しがっていたものだから…………」
「別に構わないわよ。甥のために、どうか供えてやっておくんなさいな」
「…………有り難う御座います」
*
俺は撫子さんに礼を述べると、鞄の中から、密閉された小ぶりなアルマイトの容器を取り出した。
俺は仏壇の前に座り、線香を立てて、お鈴を鳴らした。そして菊の写真と骨の前で、静かに手を合わせた。
それから先ほどのアルマイトの容器を手にし、そっと蓋を開けた。
「…………菊」
中から現れたのは、オンマが作った白菜のキムチ。
柔らかくもみずみずしい葉に、所々鮮やかな紅の乗ったそれは、独特でありながらも、 食欲を唆る旨そうな匂いを放った。
「やっと持ってこれたんだぜ。お前、食べたがってたよな」
うっすらと微笑む遺影の菊に、静かに語りかける。そして、仏壇の壇上に、キムチの入った容器を置いた。
もし、菊に食べさせることが出来ていたならば────彼は一体、どんな反応をしただろう。
「美味しいです」と、喜んでくれただろうか。
とびきりの笑顔を、俺に見せてくれただろうか。
しかし、彼の言葉を聞くことも、彼の笑顔を見ることも、最早叶わない。
彼は逝ってしまった。俺の手の届かぬ彼方へと、去ってしまった。
今俺の目の前にあるのは、彼の虚像と、彼を構成していたもの、それらのみ。
「っ菊…………ミアネ、菊…………お前が生きている間に、お前の願い…………叶えてやれなくて、ミアネ…………っっ」
キムチを食べている、お前が見たかった。
「美味しいです」という、言葉が聞きたかった。
そして、何よりも────愛しい愛しいお前を、笑顔にさせたかった。
咽ぶ俺のすぐ後ろでは、撫子さんが啜り泣いていた。形は違えど、後悔を背負う者として────この先、悲しみをも背負い続けるのだろう。
それでも、俺は…………ずっとずっと菊のことが、好きだ。
*
────夕方。撫子さんの邸宅を後にした俺は、土産を片手に、帰路に就いていた。
あのキムチは、撫子さんの口に入ることになった。幸いなことに、彼女もあの味を気に入ってくれた。そしてお礼にと、胡瓜と茄子のぬか漬けを貰い、今に至る。
『菊の納骨が終わったら、貴方に手紙で知らせるわ。またいつでも、逢いに来てあげて下さいな』と…………撫子さんは、そう言っていた。
俺は徐ろに、紅く染まりゆく空を仰いだ。
もう目にすることはないであろうB29の代わりに、天を彩っていたのは────己の住処へと帰る、カラスの群れだった。
fin.