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「さっき話したことはほんとのことよ、作り話なんかじゃないの。
あの日、俊くんが恵子に会いに行ったのは、浮気してた時に撮られてた
ビデオからの画像? っていうのかなぁ、会わなければそれをあんたに
見せるって脅されて、それで会いに行ってたのよ。
だから、あの日はほんとにロビーで話してただけでホテルの部屋になんて
入ってなかったのよ。ほんとに恵子もすごいことするもんよね。
だから、濡れ衣であんたに刺されたってわけ。
どうせ刺すなら恵子にすればよかったわよね。あははは」
「どうして今頃になって、そんな大事な話を……」
桃は絶句するしかなかった。
康江からしてみれば、仕方のないことだったのだ。
話してなかったのには、特にこれという理由はなかったが、桃が精神的に
参っていたこと、俊との間に起きたあの日のことや俊とのことについて
桃から記憶が戻ったという話が出てなかったこと、そして娘の桃の
俊の裏切りに対する頑なまでの姿勢を見ていて、話したところで
馬耳東風だろうなどと判断していた為でもあった。
話をしてもよかったのだが、これまで話す機会もなく敢えて話さずとも
いいのかもしれないという思いもあった。
康江の中でこの件に関して、すべてが曖昧な境界線上にあった。
康江の欠点ともいえる、相手の気持ちを多くは慮れないところにあったのではないかとも思えなくはないが……。
無意識のうちに、娘が勘違いから起こしたであろう傷害事件で、
苦しむことを予見していたからかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
母親から今更に聞かされた俊の真実に桃は戸惑いを隠せなかった。
あははっ、ほんとに今更だわ。
それに3年前に真実を知らされていたとして何かが変わった?
混乱するばかりで精神的に不安定になっただけの話じゃないだろうか。
到底俊との生活を始められたとも思えず、また今頃になって何故
真実を話したのかと、母親を責めるのもなんだかなぁ~と思うのだった。
これまで当時の事件や俊のことは考えないように暮らしてきた。
だが、別の真実があったと分かり、ひとつだけ俊に言いたいことができた。
どうして、恵子に脅されていると私に話してくれなかったのかと、
言いたかった、詰りたかった。
あははっ、だけど今更よね。
私が俊を刺したという事実は消えない。
ほんとっ、ほんとっ、私ったら馬鹿だ。
お母さんの言う通りよ。
恵子を一刺しして再起不能にしてやればよかったのよ。
あの悪党め!
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◇復縁は難しい
俊は実家でその後、一か月ほど養生した後、自宅へと帰り
ひとりの生活を続けていた。
桃の精神的状況から離婚やむなしと考えていたが、桃の実家である
滝谷家からは催促の連絡が来なかった。
それでそれをいいことに、自ら積極的に離婚を進めることはしなかったのだ。
ただ離婚の話を持ち出されることはなかったが、有難いことに桃の母親である康江から
月に一度か二度、奈々子を会わせるため自分が家まで連れていきましょうか、という
打診があった。
俊は例え娘に会わせてもらえずとも、婚費は妻と娘のために送り続けるつもりでいたが、
やはりその申し出はうれしいものだった。
その時から俊は月に二度ほど奈々子に会えるようになり、娘の成長振りを
見ることが生きる張り合いになっている。
近頃では奈々子が泊まって翌日のお迎えで帰ることもある。
そして最近では、送迎に来た時の姑の康江の口ぶりから、娘の桃と俺との
復縁を願っているであろうことが話の節々から感じられる。
だがそれ以上の具体的な話が彼女の口から出ないということは、いわずもがなのことなのだろう。
相変わらず、桃の心を開くことはむずかしいということだ。
◇ ◇ ◇ ◇
そのような状況の中、更に月日は流れ……。
俊と桃が離れて暮らすきっかけともなったあの事件から4年目を迎えようと
していたそんなある日のこと。
桃は、風邪薬と痛め止めの薬を一時間とずらさず、うっかり服用してしまった。
痛め止めはここ一週間、脚の付け根に痛みを感じていたからだった。
立ち仕事なのでそのせいなのだと考えていた。
一度に飲んだ形になった薬の服用が良くなかったのか、はたまたストレスなどのせいなのか、
翌日起きると再度の記憶障害を発症してしまい、とんでもないことになった。
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起きてまず思ったのが、結婚して家を出ていたはずの自分がどうして
実家で寝ていたかということだった。
そして、産んだばかりのはずの娘がいない。
代わりに側で寝ているのは幼児の女の子だった。
驚いてすぐに桃は母親を探した。
「お母さん、私はどうしてこの家にいるの? 奈々子は? 俊は?」
「桃ぉ~、どうしちゃったのよぉ~。あなたー、ちょっとあなた~」
両親から説明を受けた桃は、どうやら自分が記憶障害を起こし、
一定期間の記憶をなくしているのだと知った。
それにしても娘の突然の成長振りには驚かずにはいられない桃だった。
ただ、どうして奈々子と自分だけが実家で寝ていたのか?
おそらくふたりで遊びに来ていたのだろう。
しかし、働いていただなんて、職場のことも職場の同僚のことも
思い出せず……母親から連絡を入れてもらいひとまず休職することにした。
「桃、ほんとによかったわ。
私やお父さんのことをちゃんと覚えていてくれて」
「うん。取り敢えず私奈々子連れて家に帰るわ。
俊が心配するといけないし」
「「ちょっと、待って……」」
思わず桃の両親がハモった。
「俊くんが迎えに来ることになってるから、慌てなくていいのよ」
「そうなの?」
「あなた……」
康江が2才年下の夫の邦夫の顔を見上げた。
「ちょうど、いいじゃないか」
「えっ、何がです?」
「桃と俊くんの元サヤのことだよ」
「あ~ぁ、まぁね。
だけど一時の健忘症ですぐに記憶が戻れば桃が激怒すると思いますよ」
「だが、ある意味この好機を逃すと未来永劫、桃はシングルライフを
送ることになるかもしれない。後のことは後のことだ。なるようになれだよ。
すっかり俊くんとのいざこざの期間中のことが記憶から抜け落ちている
ようだし、こういうのを渡りに船っていうものさ。
神様がチャンスをくださったのだから、棒に振るなんてもったいないってことさ」
「邦夫さん、この年になってこんなこと言うのもなんだけど……ス・テ・キ」
「えーっ! 今頃ですかっ、康江さんっ。私は元々素敵ですがな」
「「ふふっ、はははっ」」
還暦間近になって愛娘が孫を連れて出戻って以来、彼女たちの不安定な行く末を
思わない日はなかった滝谷夫妻。
ふたりで心を一つにし、俊との話し合いを成功させるべく奮闘するのであった。