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吐息が白く染まる夜。かすかに震えていた私の手を握ってくれた君の手は、私と同じように小さく震えていた。
「もうすぐだね。」
君の手の震えを少しでも紛らわせてあげられるように、私は君に話しかけた。
「そうだね。ここまで長かったよね。ほんとに。」
君はそう言って私の手を強く握り締める。
1歩…2歩…3歩…
ゆっくりと、確実に。私はペースを崩さないように足を運んでいく。足がまるで木の棒のように重い。でも、ここで私が止まってしまうと、君の覚悟を無駄にしてしまう。
「私ね、ずっと楽しみにしてたんだよ。今日のこと。」
「え?どうしてだい?」
君はいつも何も考えずに話す。適当に相槌をうつ。でも、いつも絶対に無視だけはしなかった。君のそういうところが、私は大好き。
「ひっどい。ずっと見たかった景色を久しぶりに見れるんだよ?また来ようねって言って何年経ったと思ってんのよ…」
あからさまに態度を悪くしてしまった。本当は君とまたあの景色を見られるだけで充分なのに。いつも、自分に素直になれない。
本当はわかっている。君がどれだけ怖がっているのか。私を心配させないために、君が嘘をついてくれたことも、私は最初から気づいていたんだよ。 わかっているからこそ、君の決めた覚悟を無駄にはできない。私のために自分の夢まで投げ捨ててしたったのに、私がここで怖気付くわけにはいかない。
『大丈夫。いつだって君とならどんなことでも乗り越えてこられたから―――。』
そう自分に言い聞かせて奮い立たせる。
「それにしても、本当にいいのかい?よりにもよってここでだなんて…」
「よりにもよって…って何よ。私はここがよかったの。」
また機嫌を悪くしてしまった。本当は怒りたくなんてない。気持ちに素直になれない自分が、大嫌いだ。今日くらいは、最後まで笑っていたい。
「だってね、私が人生でいっちばん好きな場所なんだよ。」
「へぇ〜、そうなんだ。」
また適当な相槌。でも、君らしくてなんだか安心する。私はそっと一息ついて、君に今まで隠していた私の過去を話すと決めた。
「私ね、思い出の場所ってここしか残ってないんだ。」
「え?どういうこと?」
「私の思い出の場所はね、おばあちゃんちと、おばあちゃんとよく行った遊園地だったの。でも、もう随分と前になくなっちゃった。」
「あれ、君ってそんなにおばあちゃんっ子だったっけ?」
君が不思議そうに私の目を見つめる。当然だよね。私の過去の話なんて、君に話したことがない。話したいと思ったことは何度もあった。君なら理解してくれると、信じていた。でも、もし君に嫌われたら、拒絶されたらと思うと、怖くて言い出せなかった。
「今日だけ、私の話聞いてもらってもいい?」
「もちろんだよ。聞かせて。君のはなし。」
私の話に興味を持ってくれたことが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。私が笑うと、いつも君はつられて笑ってくれる。
久しぶりだな。君が笑う姿を見るのは―――。
それから君にいろんなことを話した。
虐待をうけていたこと。いじめられていたこと。里親になってくれたおばあちゃんのこと。おばあちゃんがいなくなってからは、ずっとひとりぽっちだったこと。自分をお金で売るようになったこと。
私は君と出会うまで、人から求められているときだけ愛されていると錯覚するような、単純な人間だった。おばあちゃんが亡くなってからは、愛情が何なのかがわからなくて、自分を見失っていた。虐待やいじめの記憶から辛い病気と戦いながら、私を愛してくれていない人間に尽くす日々。どす黒い底の見えない沼へと、ゆっくりと体が蝕まれていく。どれだけ人から求められても、私はひとりぽっちのままだった。
君と出会うまで、私は本当の愛情を知らないままだった―――。
話し終えると同時に、私はそっと背を向けた。君に話してしまったことが、怖い。嫌われるのが怖い。そして、君の顔を見ることが怖かった。人の顔色を伺いながら生きてきた私は、いつだって表情を見るだけで考えたことがわかってしまう。君が少しでも拒絶している顔を見てしまうと、私はこの一瞬だって生きていられなくなってしまう。
「そうだったんだ。ごめんね。辛いこと思い出させちゃって。」
「ううん、辛くなんかないよ。この思い出がなかったらきっと今の私はいないし、ぜんぶ大切な記憶だから。大事に心の中にしまってあるの。」
寒空の下温もりを分け合うように、君はそっと抱き締めてくれた。
「ごめんね、こんな話。きっと幻滅しちゃったよね。」
私がそう呟くと、君は返事をしてくれなかった。今、どんな顔で私のことを見ているの…?嫌いになっちゃった…?最低な人間だと思った…?安っぽい女だと思った…?怖い。怖くて泪が溢れ出してくる。君の袖を借りて、私は溢れ出す雫をそっと拭った。
「覚えてる?ここで君が私に言ったこと。」
嫌な空気になっちゃったよね。最後くらい、二人の思い出話しでもして、笑っていたかったんだ。
「もちろんだよ。僕の恋人になってください。でしょ?」
「違うよ。その前。ほんとに頼りなかったんだから。」
「あれ?なんだったっけ?忘れちゃったなあ。」
君はあからさまに忘れたふりをする。昔から変わらない。そういう君のところも、大好きだったんだよ。「もう。またそうやってとぼける。そういうところが、君の可愛いところだよね。やっぱり君は出会った時から何も変わらないね。」
それから私たちは、出会った頃を思い返した。私、君があまりにも挙動不振だったから、なんだか可愛いって思ったんだ。でも、ちゃんとデートプランを考えてきてくれてて、不器用だけど誠実な人なんだっていうことが伝わってきた。ラーメンを食べたり、カラオケに行ったり、まるで長年付き添ったカップルのようにありきたりなデートプラン。だけど、今まで過ごしてきた人生の中で、心から楽しいと思えたのはこの日が初めてだった。私はこの日、直感で感じていたんだ。私を救ってくれるとしたら、この人しかいないってことを。
これが、私と君の物語のはじまり。その日から私はひとりぽっちじゃなくなった―――。
僕は出会った時から今まで、君に頼ってばっかりだった。ずっとこの世界から抜け出したいと思っていた。逃げてしまいたかった。今日、私はやっと抜け出せるんだ。君と二人で。
色々と君と話す内に、目的の場所に着いていた。ここは、私たちの物語が始まった場所。
「やっと。着いたね。」
「あの時の流れ星のおかげだね。」
「なんだ、ちゃんと覚えてくれてたんだ。」
「あの後2人で約束したよね、絶対にこの願いを叶えようねって。あれからもう5年も経っちゃったんだね。」
「5年か。あっという間だったね。」
「あの日みたいに、横になって星を眺めようよ。」
「それ。いいね。そうしよう。」
冷たいコンクリートに背を向けて、黒い空に向かって星を仰ぐ。
「懐かしいね。この感じ。」
懐かしい。だけど、思い出してしまうと一度決めた私の覚悟が揺らいでしまう。苦し紛れに、私は話題を変えようとした。
「コンクリート、冷たいね。」
「真冬だもんね、しょうがないよ。」
「人間ってさ、死んだらどうなるのかな。」
「うーん。どうだろ。星になるんじゃないかな。」「星かあ…なんかロマンチックでいいね。」
やっぱり私は君が好き。君の発想、性格、癖も含めて全部好き。突如溢れ出した私の感情は抑えきれず、気付けば君を抱き締めていた。君はそっと頭を撫でてくれる。君の手の温もりが頭を通じて体の芯まで伝わってくる。
「もう、心の準備はできたかい?」
真っ暗な屋上。最初は見えなかった君の顔が今では鮮明に見えてきた。
「ううん。まだ。もう少しこうしていたい。」
悲しいはずなんてないのに、声が震える。怖かったのかな。涙のせいで目が滲む。私は咄嗟に君から顔を隠すように背を曲げた。こんな顔、君に見られたくなかった。
そこから二人とも言葉を失い、ただ星を見上げる時が続く。気付けば、ビルの灯りは輝きを失い、空の星だけが私たちを照らしていた。
「本当に、これでよかったのかな。」
私は君に問いかけると同時に、自分自身に問い正しているような感覚に陥っていた。
「もう、充分だよ。君は本当によくやった。やり切ったよ。」
それは、今私が一番欲しかった言葉だった。涙が溢れる。最後の日にまで、泣いてばっかしだな。でも、悲しくはないよ。君が確かに隣にいる。それだけで安心できる。
「ありがとう。」
ゆっくりと耳へ向かって垂れていく涙。そっと指先で拭った後、立ち上がった。
「お待たせ。もう、準備できたよ。」
私が伸ばした手を掴んで、君も起き上がる。
「君と出会えたおかげで、僕は強くなれたんだ。」 それは私も同じだよ。誰よりも強い君がそばにいてくれたから、私は今まで生きてこられたんだ。
「私も君と出会えたおかげで、どれだけ辛くても乗り越えてこられた。」
君の手の震えが止まった。覚悟できたのかな。私はもう、覚悟を決めたよ。
「ねえ。」
「ん?どうした?」
「昔みたいにさ、一緒にせーので感謝を伝えあわない?」
「いいね。それ。懐かしい。」
「あの時は本当にびっくりしたよね!」
「そうだね。まさか2人とも願い事が一緒だなんて」
「ああいう時って普通男の人はエッチなこと考えるんじゃないの?」
「ばか、そんなわけないだろ。」
「あー。この隣にいる超絶美人で可愛い女の子とヤリてー!とかさ!」
「それは、思う。ていうかそれは、願い事じゃなくて常に思ってる。」
「ばか!なにそれ!さすがは、私と出会うまでDTだっただけあるね。」
「それは余計だろ!ったくもう…」
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。明日からはこんな時間がずっと続くのかな。毎日笑い合って、心から幸せだって思える時間が永遠に流れてくんだろうな。私は、いつの間にか君がついた嘘を信じるようになっていた。
「じゃあ…」
「うん…」
『『せーの』』
君と出会ってからの五年間が、一瞬にして頭を駆け巡る。君とデートをした日のこと。君と暮らし始めた日のこと。君と生きると決めた日のこと。君を殺しかけた日のこと。君を忘れてしまった日のこと。君が、支え続けてくれた日々のこと。この5年間は、私が今まで過ごしてきた人生の中で、一番濃い時間だった。最高に最幸の時間だった。君のおかげで、今まで楽しく生きてこられたんだ。本当に。
『『今まで、ありがとう。』』
全力で笑いながら君のことを見つめる。君は今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えながら、全力でひきつった笑顔を見せてくれていた。
「プッ…変な顔。」
「え?なんだよそれ」
「だって、わんちゃんみたいな顔してるんだもん」
「わんちゃんって…。ちなみに何犬?」
「うーん、オールド・イングリッシュ・シープドッグ?」
「いや、なんだよその長い名前。普通そこは柴犬!とかトイプードル!とかかわいい名前の犬を言うところだろ」
「オールド・イングリッシュ・シープドッグもかわいいよ?」
「あ…かわいいの?んー。じゃあまあいいけども。」
君の手を握りながら、ゆっくりと足を前に運ぶ。
1歩…2歩…3歩…
ゆっくり。ゆっくりと二人三脚で歩いていく。もうすぐ、ふたりぽっちの世界にいける。こんな世界から抜け出せる。そう考えている間に、気がつけば端に立っていた。
「もう一回、せーので一緒に言わない?」
「またせーの?次は何を言うんだい?」
「だって私、絶対最後の最後で勇気が出ないからさ?せーの!って言ったら、1人じゃないんだ。大丈夫。って思えるじゃん?」
「そうだね。それなら前向きな言葉の方がよさそうだね。」
「前向きな言葉!いいねえ!それにしよう!」
「うーん。それじゃあね、”いこう”ってのはどう?」
「いこう?何なのそれって前向きな言葉なの?」
「なんだか、前に進むって感じがしないかい?かっこつけた言葉言うのも僕らの柄じゃないしさ。そのくらいシンプルな方がいいんだよ。きっと。」
「そっかあ。そうだよね。それにしよう。」
「もう、準備はいい?」
「もちろんだよ。いつでも、大丈夫。」
『『せーの』』
暗闇の中に2人の声が響き渡る。静寂が2人を包み込む。私はぎゅっと君の手を握りしめ、再び口を開いた。
『『いこう』』
君の口から聞く最後の言葉は、前向きだけどどこか切なさを感じた。何も怖くないよ。ここからまた私たち2人だけの時間が動き始めるんだから。二人だけの世界で、毎日笑い合って暮らすんだ。だから、何も心配いらないよ。
私は最後まで笑顔でいようと決めた。君が怖がっているのを和らげたかった。でも、私も本当は怖かったんだ。この世界で最後に見られたのが、君の顔で本当によかった。
君と身を投げ出してから、どれだけ長い時間が経ったんだろう。あれから私は、落ち続けている。普通だったら、あの高さならものの数秒で地面に辿り着くはず。でも、これは数秒じゃないことくらい私にだってわかる。気付けば目の前に君の姿はなかった。真っ黒い世界でひとりきり。視界の片隅で広がる空の海をただひたすらに見つめ続ける。不思議と、お腹も空かなければ喉も渇かない。薄々とは気づいていた。私はすでに死んでしまっているんだろう。そういえば、自殺を図った人は成仏できずにずっと現世に留まり続けるみたいな話、昔に聞いたことがある。やっぱり、君の言っていたみたいにふたりぽっちの世界に行くことなんて、夢物語だったんだね。私はこのまま永遠に、この屋上から落ち続けるんだ。きっとこれは、私への罰なんだろうな。君を苦しめた罰。自分を苦しめた罰。私が全部悪いことなんて、わかってる。
でもね、
君のいない世界で一人なんて。本当はずっと寂しいよ―――。