テラーノベル
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もう捨ててしまおう、振り切ってしまおう、そう決断した俺の中に、まだ微かに恋の火種が燻っていることを、鉛色の空だけが気付いて、俺の代わりに泣いてくれていた。
もうすぐ雪が降る季節が来る。
「ねぇ、阿部ちゃんって付き合ってる人とかいるの?」
一縷の希望も持たず、カマをかけるように聞いた。
「いないよ〜?どうしたの急に」
「いや、ちょっと気になったから」
「…?そっか」
俺にはわかる。
阿部ちゃんは嘘をついている。いや、正確にはそうじゃない。
「阿部ちゃん!今日一緒に帰ろー!」
「うん、いいよ」
「今日寄りたいとこあんだけどさ」
「どこ?」
「あそこ、あのほら、こないだ一回行ったとこ」
「あー!そこね!いいよ!」
「…そのあとさ、、、」
阿部ちゃんは耳打ちされたあと、困ったように頬を染めていた。
「っ……そういうのは楽屋出てから話そうっていつも言ってるでしょ……っ!?」
「にゃはは!ごめんて!」
見せつけるように交わされるそのやり取りに、俺の歯は軋んで、ギリギリと鈍い音が口内に響いた。
阿部ちゃんは何かを隠しているわけじゃなくて、見せないようにしているだけなんだ。
メンバーのため、仕事のため、自分のため、恋人のため、自分の気持ちを過度に見せることはしない。
阿部ちゃんは、愛する人といられることが嬉しくて幸せで仕方なくても、俺たちの前では隠そうとする。反対に佐久間くんは、阿部ちゃんを自分だけが愛せることがこの上なく嬉しいのだろう、どこにいても、何をしてても、一つたりとも包み隠さず阿部ちゃんに気持ちを向ける。真っ直ぐで、愛情深くて、眩しかった。
腹立たしくて、苦しくて、二人の空気はいつも俺をおかしくさせる。
だけど、そんな阿部ちゃんのことを否定することも、指摘することも、佐久間くんを憎むことだって、なに一つできないまま、いつだって全部知らないふりをし続けた。
「阿部ちゃん、お疲れ様、これ飲む?」
振り入れに疲れ切った様子の阿部ちゃんに、飲み物を差し出す。
「わぁ、めめ、 ありがとう!ほんとにめめは優しいね」
疲労で下がる眉のまま、にっこっりと微笑んでくれる。
こんなに綺麗な笑顔で見つめてくれるのに、いつだってその瞳に俺が映ったことは一度もない。
こんなに温かい言葉をいつも俺にくれるのに、その心を俺にくれたことは一度だってない。
俺のこと、特別だと思ってないなら、そんな可愛い顔しないでよ、優しい言葉も聞かせないでよ。
ごめんね、まだ好きなんだ。
諦めきれそうにないんだ。
なんの見込みもないたった一つの俺の希望が、いつまでもいつまでも、叫び続ける。
お願い、俺を見て、と。
ゴールも通過地点もない、終わりの見えない航海に、俺の船は風に煽られて氷山にぶつかって、大きく荒れる波に飲み込まれた。ボロボロになったそれは、暗くて深い海の底に沈んだまま、もう二度と空と出会うことはできないような気がしていた。
阿部ちゃんの色に染まりきってしまったこの心じゃ、もう他の誰のことも愛せそうにないんだ。
こんな状態で誰かに愛して欲しいなんて、そんなのその人に失礼だ。
この心は、阿部ちゃんだけを求めていて、阿部ちゃんが愛してくれることしか望んでいない。
一度染まってしまったものが、綺麗に元に戻るのなら、誰か、どうか戻してほしかった。
阿部ちゃんは、きっと今日も、隠し通して欠けてしまった寂しさを埋めるように、佐久間くんに優しく触れられて、ふたりで溶け合っていくんだろうな。
もうなにも望まないから、なにも欲しいなんて言わないから、どうかお願い。
愛が欲しい。阿部ちゃんの愛だけが欲しい。
もしかしたら、俺がねだったものは、この世で一番贅沢なものなのかもしれない。
阿部ちゃんを嫌いになれるパズルは、もうほとんど完成していて、あと一ピースだけ穴が空いている。もう少しで出来上がるというのに、そのひとかけに手を触れることにひどく怖くなって、なにもできないまま、ずっとこのかけらを見つめていた。
「めめ?なんだか元気ない?大丈夫?最近ずっと忙しそうだから、心配だよ。」
とか、
「これ良かったら食べてみて、すっごく美味しかったの!」
とか、
「なんかあったら、いつでも話聞くからね。無理しないでね。」
とか、阿部ちゃんはいつも俺を気に掛けてくれる。
俺のこと好きにじゃないのになんでだろうと 不思議に思って聞いてみたことがある。
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」と。
『めめは、大切な存在だから』
そう阿部ちゃんは答えた。
痛い。苦しいよ。阿部ちゃん。
阿部ちゃんの宝物は別の場所にあって、少しの傷も付かないように大事にしまっておいてるくせに、俺のこともおんなじように大切に扱おうとしないでよ。
柔らかい棘が、じっくりと肌に刺さり込んで、少しずつ血が滲んでいくようだった。
今日は珍しく、阿部ちゃんと二人、同じ現場で仕事をした。
嬉しくて、一人で舞い上がる。
一緒に帰る、この時間がずっと続けばいいのに。
冷たい風が吹いて、雪が降り始めた。
不意に阿部ちゃんは付けていたマフラーを外して、俺の方を向く。
「めめ、首寒そうだね、マフラー貸してあげる。」
「…ありがとう、阿部ちゃんはいつも優しいね。」
「そんなことないよ、めめが風邪ひいちゃったら大変だから」
「……ありがとう、阿部ちゃんは寒くないの?」
「うん、大丈夫!俺、このあとすぐ、行く所あって、すぐそこだから平気!」
「……そっか。」
阿部ちゃんは、いつも乾いて萎んだ俺の心の華に一滴ずつ水を与えてくれる。
それは優しいはずなのに、俺の中に滴り落ちると劇薬に変わってしまう。
落ちてくるたびに、裂けるような痛みが走り、甘く痺れた身体は麻痺して、だんだんと動けなくなっていく。
阿部ちゃんは誰かと連絡を取りながら 、とても幸せそうに歩いている。
…あぁ、そういうこと。
どうやら、この時間は、 そう長くは続かないみたいだ。
なにも知らないよ。
なんにも気付いてないよ。
…ううん、ほんとは全部知ってるよ。
でも、阿部ちゃんは、その幸せそうな顔の裏に隠れた自分の気持ちを、誰にも知られたくないんでしょ?
なら、叶え続けてあげる。
「阿部ちゃん、すんごい嬉しそう。そんなに楽しみなんだね。雪で滑らないように気をつけてね?」
また、バカなふり。
止むことのない雨を降らせ続けるこの空から、星は跡形もなく消えてしまった。
凍りついた俺の気持ちと連動するように、雨が雪に変わる。阿部ちゃんがさす傘をすり抜けて、その一粒が肩に落ちて溶けていった。結晶は跡も残さずに消える。阿部ちゃんは、そんなことなんて気にも留めずに、ここにいない誰かの面影だけを見つめていた 。
阿部ちゃんが巻いてくれたマフラーについたこの匂いを俺はよく知っている。
ほんのりと香る金木犀の香り。
知ってるよ。このマフラー、佐久間くんから貰ったんでしょ?
わざと匂いをつけてから渡したのか、香りが移るほど近い距離で触れ合ってるのか、そんなことなんだっていい。
どっちであっても、すごくイライラする。
こうやって悲しい事実に目を向けさせられるたびに、俺の中で輝いていた魔法が解けていく。
俺じゃダメだったんだと、思い知らされる。
阿部ちゃん、どうかお願いだから、俺は誰かに、いや違う、佐久間くんに負けたわけじゃないって、俺の目を見て言ってよ。一瞬たりとも逸らしたりなんかしないで、そう言って俺を安心させていてよ。
俺が弱くて、役不足だっただけなんだって、そう思わせて。
いつまでも、その優しさで俺を騙し続けていてよ。
この人生の中で、阿部ちゃんと出会えたことを俺は心の底から嬉しいと思ってるよ。
だけど、俺と阿部ちゃんは「そういう運命」じゃなかった。
それならきっと、もう、来世でも巡り会うことはできないよね。どんなに探したってもう会えない。
いつだったか、楽屋で幸せそうに並び合う2人を見て、思ったんだ。
「あ〜べちゃんっ!!」
「ぅわっ!さくま! …もう、急に飛び付かないでよ〜」
「ごめんごめん!だって、今そうしたかったんだもん」
「しょうがないなぁ、、ほら、おいで?」
「にゃは!あべちゃんあったかい!」
ああやって、俺もあんな風に甘えられたら、こんなに苦しくなることもないのかな。
阿部ちゃんの隣に、俺が堂々と立っていられる未来があったのかな。
今まで俺がしてきたこと、好意の向け方、阿部ちゃんへ伝えてきた言葉、そこに対して、間違えたと後悔することは何一つ無い。
だけど、阿部ちゃんが望んだのは、俺のものなんかじゃなかった。
これまでも、これからも、ずっと、ずっと、俺は佐久間くんに勝てない。
もういっそ、この船が沈んで、沈んで、沈みきってしまえばいい。
浮き上がることなんてできやしないんだから。それでも、俺を置き去りにしたままこの恋は走り続ける。
阿部ちゃんに染まって色づいた身体じゃ、他の誰のことも想えない。
こんな淡い思いと、燃え続ける不確かな希望を持ったままじゃ、他の誰かに俺を想って欲しいなんて、そんなのあまりにも烏滸がましい。もういいんだ。帰りたい。
赤黒く澱んだ嫉妬も、手に入れられなくて悶える葛藤も、伝えられない窒息しそうな焦燥も、狂おしいほどの情動も、そんなもの、なにも知らなかった頃に戻りたいんだ。
誰か、お願いだから、俺をまっさらに戻してよ。
今日も、秘密を抱えきれなくなって足りなくなってしまった愛を満たすように、阿部ちゃんは佐久間くんと溶けていくの?
阿部ちゃんは、佐久間くんに触れられてどんな声をあげるの?
全身に金木犀の香りを纏わせたまま、佐久間くんとどんな夢を見るの?
やめろ。これ以上考えるな。やめてくれ。
そう願ったって、俺の頭の中には悲しいほどに二人の姿だけが映し出されていく。
早く佐久間くんの所に行きたいのだろう、阿部ちゃんは幸せそうに前を向いて、佐久間くんだけを見つめて歩いていく。
本当はその手を掴んで、その目を遮って、その足を絡め取りたい。
佐久間くんから阿部ちゃんを奪い去ってしまいたい。寒空に惑いながら、駆られた衝動に必死で知らん顔をして、笑顔で手を振った。
「阿部ちゃん、またね」
もう、なにもいらないよ。
阿部ちゃんの愛に触れられる日なんて来なくていいから。この気持ちが浮かばれることなんてなくていい。
ただ、阿部ちゃんが幸せそうなら、もうそれでいいんだ。
嬉しそうに、楽しそうに、優しく笑う阿部ちゃんが好きなんだ。
俺の我儘なんかで、一瞬でもその顔が歪んでしまうことなんてしたくない。
暗く深い海の中で、目を開いてゆらゆらと揺れる一つの光があればいい。
阿部ちゃんがくれるものなら、痛みを伴う優しさだって、甘い毒だって、なんだって嬉しいんだよ。
なにも望まない。他に何もいらない。 阿部ちゃんの幸福がそこにあるなら、俺の宝物もそこにあるんだ。大切に守っていてあげたい。それだけで、俺は充分だから。
だけど、もし、一つだけ許されるのなら、どうか…
このままずっと、そばにいさせて。
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あの子コンプレックス/=LOVE様
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