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「君、向いてないから辞めれば?」
目の前の男は、手に持っていたタブレットから視線すら上げずにそう言い放った。
───冬馬 龍雅
この聖マリアンナ大学病院が誇る、天才外科医。
彫刻のように整った横顔と、その美貌に見合わないほど冷酷で鋭い言葉から
院内では『氷の外科医』と恐れられている男だ。
今日から彼の専属事務員として配属された私
海老名結芽は、差し出した挨拶の名刺を握りしめたまま固まった。
「……まだ、挨拶しかしておりませんが」
「挨拶だけで十分だ。おどおどして、手元が狂いそうな顔をしてる。医局事務のミスは、巡り巡って患者の命に関わる。無能を置いておくスペースは、俺の視界にはない」
冷たい。
室温が数度下がったのではないかと思うほど、彼の瞳には感情が宿っていなかった。
彼は私の返事も待たず、長い白衣を翻して診察室へと消えていく。
残されたのは、消毒液の匂いと、私の心に深く突き刺さった屈辱感だけ。
(……なに、あの態度!)
確かに私は、彼のような「選ばれた天才」ではないかもしれない。
けれど、これまで必死にキャリアを積んできた自負はある。
その日から、私と冬馬先生の戦いが始まった。
彼からの要求は、まさに「無理難題」のオンパレードだった。
数分単位で変わるオペスケジュールの調整
膨大な論文資料の整理、果ては海外の学会への出席手続きまで。
「遅い。あと三十分早く用意しろと言ったはずだ」
「このデータ、打ち込みミスがある。やり直せ」
「……コーヒー。ブラックだ。言わなきゃわからないのか?」
息つく暇もないほどの罵倒。
けれど、私は気づいていた。
彼が私に突きつける「完璧」への要求は
彼自身が自分に課している「完璧」の、ほんの一部に過ぎないということに。
◆◇◆◇
ある日の深夜
誰もいなくなった医局で、私は翌日の手術用データの最終確認をしていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、そこには白衣を脱ぎ、シャツの腕を捲り上げた冬馬先生が立っていた。
眼鏡をかけ、モニターを見つめる彼の瞳は、昼間の冷酷さとはまた違う、ひりつくような熱を帯びている。
「……まだいたのか」
「明日の朝一番のオペに、不備があってはいけませんので」
私が答えると、彼はふんと鼻で笑った。
「珍しいな。一週間で逃げ出すと思っていたが」
「逃げません。先生がどれだけ厳しくても、私は私の仕事を全うするつもりですから」
強気で言い返すと、彼は初めて私を真っ直ぐに見つめた。
その瞬間、心臓が跳ねる。
「……ふっ。口だけは達者みたいだな」
彼は私の横を通り過ぎる際、ポン、と私の頭に乗せていたクリップボードを叩いた。
ほんの一瞬の接触。
けれど、彼が通り過ぎた後に残ったのは、いつもの冷たい空気ではなく、わずかな体温の残り香だった。
(……何、今の。ムカつくのに、心臓がうるさい……)
これが、私と『氷の外科医』冬馬先生との、長くて甘いおしおきの始まりだったなんて。
このときの私は、まだ知る由もなかった。