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(私のペース、か)
『ゆず』
ふと、頭の中に声がよみがえる。
懐かしくて、切なくて、そしてごく稀に小さな闇を落とす。
記憶の中だけの優しい声。
『ゆず、大丈夫。ゆずはこれからどこにだって行ける。何にだってなれる。本当だよ』
小さな頃を思い返すと、繋がるよう、時折思い出す、ボヤけた記憶。
柚が小学校に入ったばかりの頃だ。喘息が悪化して一年ほど祖母宅で母親と共に暮らしていたことがある。
その頃は、病院と祖母宅との行き来ばかりの記憶で他がなかなかに鮮明ではない。
そんな中、公園で出会った”滑り台のお兄ちゃん”のことを、とても大好きだったことだけは、強く覚えていた。
だからと言って、交わした言葉を、声をずっと覚えていたわけではないのに。
(初恋の思い出、だなんて)
なぜ、今更ぽつりぽつりと思い出すのか。
不安はあれど会社を辞めたから?
時間的には余裕のある日々だからだろうか。
(それとも……)
それとも遠い昔を思い出すほどに、今の日々から逃げ出したいのだろうか。
どっちだろうか。わからない。
なんて、拭き掃除を終えて、食洗機から熱いカップを取り出しながら考え込んでいた時だ。
カラン、と、店の扉が開く音。
すみません、もう閉店しています、そう伝えるべく走り寄ると見たことのある顔が目に入った。
「…………ん?」
誰だったろう? つい最近も見たことある顔だ。
思わず顎に手をやりマジマジと見つめていると航平の声が響いた。
「優陽か! なんだおまえ、最近全く顔だしやしねぇで」
(ゆうひ、優陽? ゆう、ひ……)
「あ、ああ……っっ!?」
失礼にも、指を差しそうになって咄嗟に何とか我慢した。
だって、平凡すぎる、いやそれ以下かもしれないと自覚のある己が、本当なら目の前で拝むことなどあり得ない人物。
「も、森優陽…………さん? え、本物? 嘘でしょ」
わなわなと声が震える。
なんでこんなところに、とは、この店の主である航平の手前声にはしない。
「あれ? 女の子の店員さんなんていつの間に雇ってたの、航平」
その人物は、こちらをチラリと見て、透き通る絹糸のようにサラサラとしたアッシュベージュの髪を揺らし、眩しすぎる笑顔を柚へと向けてくるではないか。
ライトアップされているわけではないというのに、同じ空間にいる自分とは存在感がまるで違う。
美しいというのか、なんというのか。
そんな単語が男性相手に出てきてしまうほどには、オーラがある。