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***
バタン。
いつもより荒々しくドアが開き専務が戻ってきた。
「お疲れ様です」
「ああ」
あら、不機嫌。
今日は定例の重役会議。
たまたま社長は欠席だけど、副社長以下取締役と事業部長達も出席しての大きな会議のはず。
いつもなら時間も押してなかなか帰ってこないのに、珍しく戻りが早い。
それに、
「ねえ、コーヒーもらえる?」
「はい」
何かあったんだなって思わせる機嫌の悪さ。
普段はわがままで俺様な所もあるけれど、外面だけは異常に良くて特に仕事において感情を表に出すことの少ない専務がここまでイライラするなんてよほどのこと。
その時、
トントン。
「専務っ」
返事を待つことなく入ってきたのは秘書課長。
こちらも随分と焦っている。
「何だよ」
相手を見ることもなくプイッと窓の外に視線を逃がした専務。
「何だよじゃないだ」
勢いよくそこまで言ってから、課長は私の方を見た。
ん?
ああ、
「あの、私は外します」
コーヒーを入れかけていた手を止め、専務室を出ようとした。
「その必要はない」
「へ?」「え?」
課長と私の声が重なる。
「青井君は俺の秘書だろう。席を外す必要はない。それに、今俺はコーヒーが飲みたいんだ」
「・・・孝太郎」
課長の口から小さな声が漏れた。
***
バタン。
一旦入り口まで戻り、廊下に続くドアを閉めた課長が専務のもとへ歩み寄る。
「一体何を考えている?お前はあんな挑発に乗るような人間ではないはずだろう?」
とても上司に対する言葉とは思えない口をきいた課長。
専務は黙って私の入れたコーヒーに手を伸ばした。
「青井君、徹にもコーヒーを入れてやって」
「はい」
そうだった。
この2人は幼なじみ。
子供の頃から共に育った仲と聞いた。
だから、こんな風に言い合えるんだ。
「で、どうしたんだ?孝太郎らしくもない」
「そうだな」
「何があった?」
「何もない。ただ」
「ただ?」
「イラッとして、ついカッとなった」
「だから、その理由を聞いているんだ」
どっかりとソファーに体を預け、コーヒーを口にする課長。
「そんなもの・・・ない」
「そうか?」
ちょっと意地悪な表情になった課長が、
「青井さん、ちょっと来てくれる?」
部屋の入り口に立っていた私の方を見ると、ポンポンと座っているソファーの隣を叩いた。
「は、はい」
言われるまま課長の隣の席まで行くと、
「座って」
「はい」
少し間を開けて腰を下ろそうとした瞬間、
えっ。
急に腕を引かれて倒れ、私は課長に寄りかかった。
「徹っ」
私が思わず名前で呼んでしまったのと、
「お前っ」
立ち上がった専務が怒鳴るのとが同時だった。
「いい加減にしろ。出て行け」
課長の元から私を引き離し、睨み付けながら言う専務。
一方課長の方は
「これが原因だろ?」
「はあ?」
「お前のウイークポイント」
「・・・」
専務は答えなかった。
「これ以上業務に支障が出るようなら、青井さんの異動も考える」
「そんなことは」
させないと言いかけた専務に、
「残念ながら、彼女の直属の上司は俺だ。それでも不満なら、社長を使って辞令を出すが?」
どうやら課長の方が一枚上手らしい。
「分かった、以後気をつける」
専務の方が引くしかなかった。
「青井さんは後で僕の部屋に来てくれる?」
「はい」
「何の用だよ」
不満そうな専務。
「専務には関係ありません」
部下の顔に戻った課長は、それだけ言うと部屋を出て行った。
***
「失礼します」
専務がアメリカ支社との電話会議をしている隙を縫って、私は課長の部屋にやって来た。
「ああ、座って」
デスクで書類に目を通していた課長がソファーに座るようにと勧めてくれる。
ここは社長秘書室。
広さも作りも私の使っている専務秘書室と変わりはないのに、物が出ていないせいか広く感じる。
そう言えば、この人はきれい好きの潔癖症だった。
勉強の途中で母さんが食事を出しても、『終わってからいただきます』と手を付けなかった。
後で理由を聞くと、『食べ物と勉強道具が一緒に出ているなんて考えられない』と言われ、私の方が驚いた。
「観察は終わった?」
「え?」
「随分興味深そうに眺めていたから」
「すみません」
失礼な態度をとってしまった。
「いいよ。それに、2人の時は敬語は無しだ」
「でも・・・」
「いいから」
「はい。じゃあ」
こうして見ると、徹は10年前と少しも変わっていない。
もちろん見た目は大人になったけれど、どんな時も冷静でどこかつかみ所がなくて、それでいて寂しそう。
「すまなかったな」
いきなり謝られて戸惑った。
「随分強引にここへ連れてきてしまったから」
「それは・・・」
確かに強引だったことは否定しない。
最初は腹も立った。
でも、今は
「孝太郎はわがままなところもあるし、大変だろう?」
「うーん」
どうかなあ。大変とは思わないけれど・・・
「気づいているかもしれないけれど、あいつも随分屈折しているから」
「そうね」
思わず頷いてから、しまったと口を閉ざした。
上司である専務のことを悪く言うなんて、秘書としては失格だわ。
「気にしなくていい、ここはオフレコだ」
「うん」
仕事中は厳しい顔を崩すことのない徹だけれど、今は穏やかな表情。
これが私の知っている徹。
***
「それで、私は何でここへ呼ばれたの?」
緊張も解け遠慮もなくなって、思っていたことを口にした。
「何だと思う?」
逆に聞かれ、今日のことを思い出す。
「私のせいで専務の立場が悪くなったから、説教?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
他に呼び出される覚えはない。
「麗子に謝りたかったし、お礼も言いたかった」
「お礼?」
お礼を言われるようなことはしていないと思う。
「麗子が来てから、孝太郎が人間らしくなった」
「そんな・・・」
「あいつは鈴森商事を継ぐ人間として育てられてきたからね。ずっと自分の感情を隠して強がって生きてきたんだ」
「うん」
それは私も感じている。
はじめは私だって、イヤな奴だなって思っていたんだから。
でも一緒に仕事をするようになって、真面目に手を抜かず一生懸命取り組む専務の姿に見方が変わっていった。
あのビックマウスも、かわいくない態度も、時々暴君なのも、精一杯虚勢を張っているんだと気がついてしまった。
今までずっと孤独だったんだなって思えて、なんだかかわいらしくさえ感じている。
「孝太郎の側にいてくれて本当にありがとう」
徹は立ち上がり、私に向かって頭を下げた。
「徹、どうして」
何でそんなことをするの。
私、泣きそう。
「1度きちんと言いたいと思っていたんだ」
「だからって、わざわざ呼び出さなくても」
お陰で専務は機嫌が悪くなって、ここへ来るのも大変だったのに。
「こうでもしないと、麗子には近づけないだろ。ずっと側で見張ってる奴がいるんだからさ」
とても楽しそうに、徹が笑った。
あはは、確かに。
一見クールな顔をして、かなり粘着体質だものね。
「何かやりにくいことがあれば遠慮なく言うんだぞ。孝太郎に言えなければ俺に言ってくれ。きちんと対処するから」
「うん」
「1人で解決しようとするなよ」
「わかってる」
私にそこまでのスキルはない。
「約束だぞ」
「もー、しつこい」
この人もかなりの心配性みたいね。
***
課長の部屋から戻ると専務はまだ電話会議中で、『どこに行っていたんだ』『何を言ったんだ』と追求されることもなくホッとした。
今日は夕方から財界のパーティーが入っているから、早めに退社して直帰になるだろう。
私はのんびり残務をこなし、定時には帰れそう。
こんな日は家でゆっくりしよう。
専務が外出した後、1人コーヒーを入れ書類を整理しながら今日のことを思い出して笑ってしまった。
フフフ。
だって、あの徹に頭を下げられてお礼を言われた。
『孝太郎の側にいてくれてありがとう』
それは友人としての言葉だろう。
徹から何度もしつこく鈴森商事への就職を勧められた時は、正直迷惑していた。
その少し前に数回専務に会っていたから、きっとそれが原因。
自意識過剰に聞こえるとイヤだけれど、私の外見を見て秘書に誘われたんだとしか思えなかった。
当然私ははっきりと断ったのに、徹は強引で最後には母さんを巻き込んで私が断ることができないようにしてしまった。
入社当日、私は精一杯の反抗のつもりで、地味なスーツを選び、化粧もほとんどせずに出社した。
専務に対しても生意気な態度をとっていたと思う。
あわよくばこのまま首になりたいとさえ思っていたのに・・・
いつの間にか1ヶ月半が過ぎた。
一緒に仕事をしていくうちに専務の誠実さと、仕事に対する真摯な態度に気持ちが変わっていった。
企業で仕事をするのがこんなに楽しいってことも初めて知った。
考えてみれば、大学卒業後一旦は就職したもののすぐに辞めてしまった私は、まともに会社勤めをしたことがない。
仕事の楽しさも、やりがいも知ることなく今日まで来てしまった。
最近になってそのことにを後悔している。
もちろん、悩んで悩んで考え抜いた末の結果だったし、あの時は体の心も限界だった。
しかたがなかったとは思うけれど、逃出してしまったことが悔しい。
***
「お疲れ様」
給湯室で片づけていたところに、先輩秘書の山川真子さんが入ってきた。
「お疲れ様です」
広げていた茶器を寄せると、隅によってスペースを空ける。
「すみません、もうすぐ終わりますので」
山川さんもトレーを持っていたため、声をかけて洗っていた手を速めた。
「いいのよ、私はどうせ暇だから」
え?
その言い方に棘を感じた。
山川さんは、確か私と同い年の27歳。
秘書歴5年のベテランさん。
今は秘書課のチーフとして業務の振り分けも行っている。
私は専務専属に雇われた臨時秘書だから他の人たちより直接の接点は薄いけれど、秘書室としての伝達事項などは山川さんから回ってくる。
今までは仕事のできる先輩秘書としか思っていなかったけれど・・・
「専務の相手は大変でしょ?」
イジワルそうに口角を上げ、私を見る山川さん。
「そんなことは」
ありませんよと言いかけて、言葉が止った。
山川さんの目が、怖い。
それは、間違いなく敵を見る目。
仲間に向ける眼差しではなかった。
***
「あなた、課長とも親しいのよね」
持ってきたトレーは流し台に置き、腕を組んで私の方を向いた山川さん。
「ええ」
学生時代の同級生ですと言いかけて、言えなかった。
言えば言うだけ反感を買いそう。
ここまで好戦的な態度を見せられては、何も言わないに限る。
「誰もかれも美人って言うだけでデレデレしちゃって」
吐き捨てるような言葉。
「はあ?」
思わず口が開いた。
「何よ、事実でしょ。綺麗だから専務はあなたの言うことを何でも聞くし、いつも側に置いてべったりじゃない。その上ちょっと姿が見えないからって私達にとばっちりがきたんじゃたまらないわよ」
「すみません」
あまりの迫力に謝ってしまった。
「大体ね、あなたが来るまでは私達秘書室で専務のサポートをしていたの。それでちゃんと回っていたのよ。なのに、いきなり素人を連れてきて。はあー。結局、専務もただの男だったってことね」
見損なったわと言いたそう。
すごい毒舌。
普段はクールビューティーで通っている彼女とのギャップにびっくりした。
***
「その上課長までデレデレしちゃって。ちゃんと仕事をしろって言うのよ」
「そんな、それは言いすぎです」
さすがにひどいなと思って止めてしまった。
「何、口答えする気?」
口答えも何も、これは暴言。
いくら給湯室でも言っていいことではない。
「私のいたらないところは申し訳ないと思いますが、専務や課長は一生懸命仕事をしていらっしゃいますから」
これ以上言うのはやめましょうと、止めたつもりだった。
しかし、
「そういう余裕なところが頭にくるのよ。何様のつもりなのっ」
キーンと響く声で言うと、
パシャッ。
持っていたコーヒーカップに残った中身を、私の方へ向けて投げた。
えええ。
嘘。
さすがに固まった。
信じられないと思ったし、怖いとも感じた。
でもそれ以上に伝わってきたのは山川さんの怒りの気持ち。
飲み残されたコーヒーで汚れてしまった私のスーツよりも、無意識のうちに彼女をここまで傷つけていたんだと知ったことがショックだった。
「あの、私・・・」
我に返り、呆然と私を見る山川さん。
きっと感情にまかせて思わず出てしまった手で、カップにコーヒーが残っているとも思わなかったのだろう。
その証拠に、山川さんの手は震えている。
きっと今、彼女は後悔しているんだ。それが分かった。
だから、
「失礼します」
私は逃げるようにその場を後にした。
***
ハアハアハア。
走って専務秘書室まで戻ってきた。
幸い誰に会うこともなく、誰にも見られなかった。
しかし、
「はあぁー」
大きな溜息。
これ、どうしよう。
たまたま今日はベージュのスーツを着ていた。
せめて紺か茶か、もう少し濃いめの色を着ていたら目立たなかったかもしれないけれど・・・
上着の胸元から全体にかけて茶色いシミが広がっている。
これはどう頑張っても誤魔化しようがない。
せめてもの救いは、専務がここにいないこと。
もしいたら大騒ぎになったことだろう。
考えただけで恐ろしい。
「よし、ウジウジしていてもしかたがない」
私は今できることをしようと、スーツの上着を脱いだ。
下に着ていたのは薄手のタンクトップ。
とてもこの格好で外へ出ることはできないけれど、今の時間は誰も入ってくる心配もないはず。
だから、遠慮はいらない。
とりあえずできることをやってみようと、私は濡らしたタオルで即席の染み抜きを試みることにした。
***
「はあー、やっぱりダメね」
いくら頑張ってもコーヒーのシミは消えない。
もちろん多少は薄くなった。
努力が全く無駄だったわけではない。
でも・・・
このまま街中を歩き、電車に乗って帰るのは勇気がいる。
せめて今が冬だったら、コートで隠せたのに。
もうすぐ7月。
どう考えても、無理。
その上夜7時でも外は明るいんだから、もー最悪。
こうなったらたまっていた雑用と、普段できない掃除と、机の整理もして外が暗くなるのを待とう。
暗くなればカバンを抱えてなんとか帰れると思うから。
午後7時半過ぎ。
窓の外はようやく薄暗くなってきた。
2時間近く掃除や片付けをしたせいで部屋の中はすっきり片づいたけれど、私は汗をかき、化粧も崩れてしまった。
フフフ。
さすがにこの顔は誰にも見せられないわね。
自虐的に笑った後、私は汚れた上着に袖を通した。
うーん、やっぱり目立つなあ。
これで電車はキツいかも。
しかたない、痛い臨時出費だけれど大通りからタクシーに乗ろう。
そうすればあまり人に会わなくてすむ。
一応財布の中身を確認し、カバンで上着のシミを隠すようにして私は部屋を出ようと歩き出した。
その時、
パタン。
予告もなく開けられたドア。
「え?」
「あっ」
声が重なった。
そこにいたのは専務。
私は固まった。
「何してるの?」
先に聞いてきたのは専務だった。
「えっと・・・それは、」
なかなかうまい言葉が出てこない。
「今日は仕事も残っていなかったし、定時で上がれるはずだっただろ?」
「ああ、ええ」
確かにそうでした。
「何してるの?」
もう一度同じことを聞かれてしまった。
なんとか良い言い訳を考えなくてはと思いながら、頭が回らない。
どうしよう、どうしよう。
***
「座って」
なかなか返事をしない私に、専務がソファーを指さす。
いや、でも、
できることなら私は帰りたい。
それでも動かないでいる私に、
ピッ。
もう一度ソファーを指さす専務。
「はい」
こうなればおとなしく座るしかない。
この人は勘の鋭い人だから、きっと私の行動が怪しいって気づいたんだ。
「何でカバンを抱えている?」
「えっと、それは・・・」
ツカツカと、専務が私の元へ歩み寄る。
マズイ。
カバンを抱え直そうとした瞬間、
「あっ」
専務の手の方が早かった。
隠すものがなくなりあらわになったスーツのシミ。
恥ずかしくて、情けなくて、私はただうつむくしかなかった。
「どうしたんだ?」
専務の声が、少し怒りを含む物に変わった。
「・・・」
私は答えなかった。いや、答えられなかった。
「言わないってことは何かあったってことだな」
「いいえ、それは違」
「嘘をつくんじゃない」
鋭い口調で、言葉を遮られた。
マズイ、専務が怒っている。
「何があったか言えよ」
「・・・」
「徹に調べさせようか?」
「・・・やめて」
自分でも泣きそうな顔をしているのがわかる。
でも、言えない。
「何で、1人で抱え込もうとする?」
「・・・」
「俺は、そんなに頼りないか?」
「・・・」
頼りなくなんてない。
どちらかというと私の方が、誰かに頼るってことに慣れないだけ。
いつの間にか、私はギュッと唇を噛みしめていた。