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血が滲みそうな位ギュッと、彼女は唇を噛み締めていた。
じっと下を向き、顔を上げようとはしない。
「何があったのか話してくれ」
俺は精一杯声を和らげて尋ねたつもりだが、それでも彼女は答えてはくれない。
「コーヒーの、染みだよな?」
かなり頑張って拭いた後のようだが、胸元から大きなシミがスーツについている。
「誰に何をされた?」
「・・・」
やっぱり、黙り。
はあー。こうなったら何も話さないだろう。
それこそが彼女が誰かに何かをされた何よりもの証拠だ。
俺は、彼女の泣きそうな顔を初めて見た。
いつも凜として、強くてかっこいい女性だと思っていたのに、今は少し幼くさえ感じる。
「誰が何をしたって聞くのは諦めるから、何があったのかだけ教えてくれ」
それを聞かないことには、俺は今夜眠れそうにない。
「こぼれたコーヒーが、かかったんです」
投げやりな答え。
「随分高いところからコーヒーがこぼれたんだな」
嫌みのように返してしまった。
きっと、誰かにコーヒーをかけられたんだ。
それも社内にいる身近な人間だろう。
俺としては、今すぐにでも犯人を突き止めたい。
しかし、
「お願いですから、これ以上追求しないでください」
うつむいていた顔を上げた彼女は、はっきりとした口調で言った。
「それで、君はいいの?」
こんなことをされて黙っているなんて、おかしいだろう。
「いいんです。いつものことですから」
「え?」
「私がいるから事件が起きるんです」
「それは、君がしたことなの?」
「いいえ。でも、私がいなければ起きなかった」
うっすらと目をうるませ、彼女は俺を睨む。
どうした?
なぜ、怒っているんだ?
俺が何か、
「私が専務の秘書にならなければ、ここに来なければ、こんな思いをすることはなかったのに」
溢れそうになる涙を必死にこらえ、彼女は俺を睨み続ける。
生まれて初めて、俺は自分の感情が抑えられなかった。
***
キャッ。
小さな悲鳴を上げた彼女を、俺は抱きしめた。
「離して」
俺の腕の中で抵抗してみせる細い体。
それでも、俺は力を緩める気はない。
彼女の抱える、苦しみも、悲しみも、すべて俺がもらってやる。そんな気持ちで包み込んだ。
「どうして私は、いつもこうなのかしら」
やっと抵抗の手を止めおとなしくなった彼女が、ポツリと囁いた。
「私、この年まで誰とも付き合ったことがないんです。それどころか、まともなデートさえしたことがなくて・・・笑いますよね」
「まあ、意外ではあるな」
きっと綺麗すぎて、高嶺の花にでも見えたんだろう。
「興味本位で誘ってくる人はいたんですよ。でもいざとなると、振られるんです。振られるって言うより、怖じ気づくんでしょうか」
「怖じ気づく?」
意味がわからず聞き返した。
「そう、私には色んな噂がありますから。超お金持ちの本命彼氏がいるとか、どこかの社長と不倫をしているとか、何人もの男の人と同時に付き合っているとか、悪い噂はつきません。私って魔性の女なんだそうです」
フフフ。
と、笑ってみせる彼女。
「もういい」
俺はもう一度、抱きしめていた腕に力を込めた。
「無理して笑わなくてもいい。悲しいときには、泣けばいいんだよ」
これ以上頑張る必要はない。
ウッ、ウウゥ。
俺の腕の中で彼女の肩が震えだした。
背中をトントンと叩き、俺は彼女を抱き続けた。
***
そんなに長い時間ではなかったのだと思う。
俺も彼女も動くことができずにいた。
俺だって、恋愛経験がないわけではない。
付き合った彼女も、愛し合った女もいた。
でも、こんなに衝動的に抱きしめたことはなかったように思う。
何がそうさせるのかは、俺にもわからない。
ただ、今は彼女を抱きしめていたいと本能的に感じた。
グルグルグル。
え、ええ?
温もりに包まれながらくっついていた体を離して、顔を見合わせる。
「今、おなかが鳴った?」
「・・・」
みるみるうちに真っ赤になっていく彼女の顔。
「おなか空いてる、よな」
もう8時だし。
「何か食べに行こうか?」
「いいえ」
やっぱり素直に『はい』とは言わない。
彼女にしてみれば、見られたくない姿を見られてしまったって意識があるんだろう。
さっきからずっと下を向いている。
「そんなに嫌?」
「そういう訳では・・・」
「じゃぁ」
「でも・・・」
彼女がチラッと服を見た。
あー、そうか。
この服ではどこにも行けない。
ふと、俺はいいこと思いついた。
こんな時に漬け込むようで申し訳ないが、俺だって今日は気分が良いわけじゃない。
副社長とは真っ向から対立してしまったし、仕事においても大きなリスクを背負わされてしまった。
俺だって気分が滅入っていた。
だからこそ、パーティーを抜け出して自宅に帰る気にもならず一旦会社に戻ってきてしまったんだ。
このままもう少し仕事をしようかとも考えたが、彼女を見ていて気が変わった。
「いいから行こう」
「でも・・・」
困った顔の彼女の手を引き、俺は歩き出した。
「あの・・・ 1人で帰れます」
「本当に大丈夫ですから・・・」
「専務・・・」
言い続ける彼女を無視して車に乗せた。
***
「ここは?」
無理矢理連れてこられた彼女が、ブティックの前で足を止めた。
「その服じゃどこへも行けないだろう?」
「私は帰りたいんです。どこへも行く気はありません」
はっきり言い切る声は、いつもの彼女だ。
「いいから」
「でも・・・」
「今日は俺も少し疲れたんだ。だから、付き合って欲しい」
いいだろう?と、顔を近づける。
きっと、彼女は何も言えない。
今日副社長と俺がぶつかったのは、自分のせいだと思っているんだから。
「行くぞ」
黙ってしまった彼女の腕をつかみ、俺は店の戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
出てきた女性は、不思議そうに俺を見ている。
ここは母さん行きつけのブティック。
資産家のオーナーが半分道楽でやっているような店で、客はほとんどが常連客。
連絡さえすれば、開店時間も閉店時間もこっちの都合に合わせてくれる便利な店だ。
俺にとっては、子供の頃から何度も連れてこられたなじみの店。
さすがにここ数年はご無沙汰だったが、顔くらいは覚えてくれていたらしい。
「今日は何を?」
「あー」
チラッと彼女を見る。
「こちらのお嬢さんの、お洋服ですね」
「ええ。今から食事に行くので」
「はい」
心得ましたとばかりニッコリ笑われてしまった。
オーナーは母さんの昔からの友人。
俺だってできれば別の店にとも考えたが、女性の服はわからなくて結局ここへ来た。
きっと客商売だからペラペラ喋るような事はないだろう。
「さあ、どうぞ」
困り顔の彼女を連れて、オーナーは奧へと消えていった。
***
待っている時間は、意外に長く感じる。
そんなに多くの人が出入りする店では無いから、数人の店員とただ待つのは正直苦手だ。
女性と上手に会話を楽しめるタイプでもないし、きっと気難しそうな男に見えていることだろう。
「お待たせしました」
そう言われて振り返った先にいたのは、ワンピース姿の彼女。
「きれいにできましたでしょ?」
オーナーの楽しそうな声。
俺は言葉が出なかった。
いつも地味なスーツを着てほぼすっぴんでもキレイだと思っていたのに、これは反則だ。
目のやり場に困る。
「どうですか?」
無言の俺に、彼女が聞いてきた。
「うん、いいよ」
とっても素敵だ。
飾り気の少ないシンプルなオレンジ色のワンピースが、よく似合っている。
髪もハーフアップにして少し巻き、化粧もしたらしい。
「なんだか恥ずかしいのですが」
「いやよく似合ってる」
君のために作った服に見える。
「とっても素敵ですよ」
オーナーもニコニコしている。
「良かったら1枚写真を」
言いかけた店員を、オーナーが目で制した。
確かに言いたくなる気持ちもわかる。
そこら辺のモデルよりも何倍も綺麗だ。
ただ綺麗なだけでなく、気品がある。
すごいなぁ。
「お支払いを」
カバンから財布を取り出そうとする彼女。
オーナーが俺を見ている。
「いいよ」
俺は、そっと彼女の手をつかんだ。
無理矢理連れてきた以上、払わせるわけにはいかない。
「いえ、でも」
「いいから。こんなところで恥をかかせるんじゃない」
耳元に顔を寄せささやいてみた。
「専務、やめてください」
恥ずかしそうに、顔を赤くする彼女。
それがまた色っぽい。
マズいな。
今日の俺はどうもおかしい。
「行くぞ」
少し強引に腕を引き、俺たちは店を出て大通りを歩き出した。
***
都会の大通り。
夜の8時はまだ宵の口で、街は人で溢れている。
こんな時間に出歩くのは久しぶりだ。
「夜は、風が冷たいですね」
さっきまで不満そうにしていた彼女が、声をかけてきた。
「ああ、そうだな」
もしかして、薄いワンピースだけの彼女は寒いのだろうか。
店を出て、ブラブラと街を歩きながら予約していたレストランに向かった。
もちろんレストランにも駐車場はあるが、車はブティックに置いてきた。
少し飲みたい気分でもあったし、酒の入った彼女を見てみたい気もある。
それに、せっかく綺麗になった彼女を連れ歩いてみたかった。
しかし、現実はそううまくばかりはいかない。
チラッ。
チラチラッ。
さっきから行き交う人が、俺たちを振り返っていく。
初めのうちは、『なぜだろう?』くらいにしか思わなかった。
『何か変かなあ』と自分を見返してもみたが、違ったらしい。
視線は俺ではなく、彼女に向いている。
こんなに人がいても、確かに彼女は目立っていた。
これだけの美人がいれば、俺だって視線くらいは送るだろう。
その気持ちもわからなくはない。
でも、実際その好奇の目にさらされる本人にしたらたまったものじゃないはずだ。
「ちょっと」
すれ違いざま、女性の声が耳に入った。
見ると、若い男女がデート中の様子。
男性の手に女性が腕を回している。
しかし、男性の目は横にいる女性ではなく俺の横を歩く彼女に向けられていた。
「ごめんごめん」
慌てて謝る彼氏。
「もうっ」
プッとふくれてみせる女性。
この一連の痴話げんかは、彼女に見とれてしまった男性が原因のようだ。
一瞬にしてその状況を理解して俺としたは、笑いたいような、優越感に浸りたいような、複雑な気分だ。
***
「どうかしましたか?」
俺の歩が少し遅くなったのを感じて、彼女が首をかしげる。
「いや、どうもしない」
どうもしないんだが・・・
「見て、すっごい美人」
「本当ね、うらやましい」
今度は若い女性同士の会話が聞こえてきた。
今まで、周囲の声がこんなに気になることなんてなかった。
しかし、今日に限ってはとてもよく耳に届く。
「私はどこかその辺の居酒屋でもいいのですが・・・」
彼女もやはり、周りの目が気になるらしい。
「いいよ、せっかくだから美味しいものを食べよう。その角を曲がれば店だから、もう少しだ」
「はい」
彼女はいつもこんな視線にさらされてきたんだな。
そして彼女の隣に立つってことは、こんなにも人に見られるんだな。
そう思うと、つい自分の姿を見返してしまう自分がいる。
俺だって、見た目が悪いわけではない。
身長も180センチ越。
週に2度はジムに通い体も鍛えている。
身につける物だって、人一倍気を使っているつもりだ。
パッと見、金持ちセレブに見えることだろう。
でも、彼女の外見は規格外だ。
行き交う人が振り返ってしまうほど目を引いている。
「すみません」
なぜか彼女が謝ってきた。
頭の良い彼女のことだから、俺の気持ちに気づいたんだろう。
「君のせいじゃない」
どちらかというと、俺の問題かもしれない。
俺は劣等感に嘖まれていた。
***
「いらっしゃいませ」
着いたのは時々訪れるフレンチのレストラン。
仕事でもプライベートでもよく利用する店だけあって、電話をすれば個室を用意してくれる。
ここなら周りの目を気にすることもなく彼女と食事ができるはずだ。
「こちらのお席でよろしかったでしょうか?」
珍しく女性連れの俺に、支配人が気を使ってくれる。
「ええ、ありがとうございます」
ここは家族とも来る店だから、今まで付き合った彼女を連れてきたことはなかった。
しかし、人目を気にせず落ち着くところと考えるとここが一番。
彼女とここに来ることに迷いはなかった。
「苦手なものはある?」
今さらと思いながら、メニューを片手に彼女の好みを聞いてみた。
「苦手なのは・・・強引な上司」
「え?」
持っていたメニューを落としそうになった。
フフフ。
「冗談です」
だよな。
でも、多少は本音も含まれているのかもしれない。
結構強引にここまで連れてきた自覚はあるし。
「そんな顔しないで下さい。今のは笑うところです」
「ああ、そうか」
俺は一体なんて返事をしているんだ。
彼女の前へ出ると、どうもペースを乱されてしまう。
「好き嫌いはありませんから、専務にお任せします」
にっこりと笑う彼女。
こいつは無自覚でこんな顔をしているんだろうか?
それとも計算か?
もし計算でやっているんなら恐ろしい女だと思うが、そうじゃないことを俺は知っている。
「ワイン、飲めるよな?」
「ええ」
結局、オススメのコースとワインを注文することにした。
***
「あの・・・」
「ん?」
コースも終盤にかかり、食事をしていた彼女が何か言いたそうに俺を見た。
「すみませんでした」
フォークとナイフを置いて頭を下げる。
「何、どうした?」
「私のせいで副社長ともめたんですよね?」
「違う違う。元々専務とは相性が悪かったんだ」
君のせいじゃないと、言葉を強めた。
実際、今日もめなくても近いうちにぶつかっていたことだろう。
ずっと険悪な状態が続いていたから。
「でも・・・」
「本当に君が気にすることじゃない。それより、君は大丈夫?」
「え?」
「スーツのシミ。誰かに何かされたんだろう?」
「いえ、それは・・・」
人の服にコーヒーをかけようなんてよっぽどの恨みだ。
彼女が社内でそれだけの恨みを買っていたとは思えないが・・・
「俺のせいなのか?」
確か、彼女がそんなことを言っていた気がする。
「違います。専務のせいではありません。私が悪いんです」
必死に手を振ってみせる彼女。
でも、それは嘘だ。
***
「なあ、そんなに何でも抱え込んでいたら、疲れないか?」
しばらく彼女の反応を見ていた俺は、説教口調で聞いてしまった。
きっと、自分が悪くないことまで自分の責任と思って、彼女は飲み込もうとしている。
今までもきっとそうやって生きてきたんだろう。
しかし、それではダメだ。いつか彼女がつぶれてしまう。
「分かったようなことを言わないでください」
「え?」
思いの外強い言葉が返ってきて驚いた。
「専務に私の気持ちなんてわかりません。ですから、放っておいてください」
どうやらまた、俺は彼女を怒らせたらしい。
でもな、
「放ってはおけないんだ」
じゃなければ、こんな所まで連れてきたりはしない。
「お節介」
「知ってる。でも、誰にでもって訳じゃない」
君限定だ。とは言えなかった。
彼女も微妙な顔をしている。
「もう少し、飲みたいですね」
話をはぐらかすように、彼女が会話の矛先を変えてきた。
「えっ、ああ、そうだな」
俺も同じ気持ちだ。
「良かったらうちに来ますか?」
「はああ?」
随分大きな声をあげてしまった。
「だって、どこに行っても人はいますよ」
「それはそうだけれど」
「私のマンション、そんなに遠くありませんし。専務のお家は?」
「俺は実家」
「へえー」
こいつは今、この歳で実家住まいなのって思ったな。
まあ確かに、母さんの過干渉は否定しないが、なぜかムカつく。
「いいよ、行こう」
「はい」
何のためらいもなく返事をする彼女。
こいつは夜遅くに男を自宅に誘う意味が本当に分かっているんだろうか?
まあいい。俺ももう少し飲みたい気分だ。