テラーノベル
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お義母さまは、運動会から戻ったその足で、私を茶室へ呼んだ。
日傘を畳み、着替えもせずに。
灰色の色無地の膝を、点前畳の脇に折った。
「明日は、中置にするわ」
十月の、名残の月の置き合わせだった。
五月から使ってきた風炉を、道具畳の真ん中へ寄せ、水指を左に据える。一年で、この月だけの形。
「風炉は、これを」
お義母さまが、水屋の奥から出させたのは、鉄の風炉だった。
縁が、ところどころ欠けていた。
欠けたまま、錆びたまま、黒く光っていた。
「名残の月にはね、欠けたものを出すのよ」
お義母さまは、欠けた縁を、指でなぞった。
「風炉の季節の終わりを、惜しむために。……傷んだものほど、大事にするの」
私は、黙って風炉を受け取った。
鉄の重みが、手袋の手のひらに沈んだ。
水屋の棚の奥の、欠けた白い茶碗。
この人は、あれも、惜しんでいたのだろうか。
「点前は、私がするわ。あなたは半東」
「かしこまりました、大奥様」
「炭は、あなたが入れなさい。明日の朝、九時に」
お義母さまは、立ち上がった。
「宗一郎の時代から、残り炭は捨てない家よ。……覚えているでしょうけれど」
覚えている。
最初の冬、炭を捨てて、一晩、水屋に座らされた。
「教わったことは、忘れません」
凛の声で、そう言った。
お義母さまの足袋が、茶道口の前で一瞬だけ止まって、また動いた。
*
風炉の灰を、整えた。
灰匙で、二文字の山を描く。
手が覚えていた。三年間、毎朝、この人の灰を整えてきた手だ。
灰の白さを見ているうちに、ある夜のことを思い出した。
三年前の夏。
お義父さまの葬儀から、五日ほどたった晩だった。
夜中に水を飲みに起きると、和館の茶室に、灯りがついていた。
障子の隙間から、お義母さまの背中が見えた。
風炉の前に座って、何かを一枚ずつ、火にくべていた。
青い封筒だった。
紐でくくった束から、一枚抜いては、火に落とす。
紙の燃える匂いが、廊下まで流れてきた。
翌朝、風炉の灰は、灰色に汚れていた。
お義母さまは、私に言った。灰を、全部入れ替えておきなさい、と。
あの青い封筒が何だったのか、私は聞かなかった。
ただ、宛名の字が、女の人の、細い字だったことだけを覚えている。
追い詰められたとき、お義母さまの手は、火に伸びる。
この家を売るくらいなら、私が燃やすわ。
あの言葉は、比喩ではなかったのかもしれない。
*
夕食の片づけをしていると、麗奈が厨房の入口に寄りかかった。
「明日、何着ようかな」
止められたカードの代わりに、蒼真から現金をもらったのだと、昼間、誰かに電話で話していた。
「ねえ、凛さん。明日、あんたがお茶をこぼして恥をかくところ、楽しみにしてるから」
「お茶は、こぼしません」
「どうだか。お義兄さんの肩ばっかり持ってる家政婦なんて、叔母さまたちの前で、いい笑いものよ」
麗奈は、付け爪で戸口の柱を、かり、と引っかいて、出ていった。
この家の誰より明日を楽しみにしているのは、きっと、この人だ。
何も知らずに。
*
陽翔を寝かしつけたのは、八時半だった。
運動会の疲れで、布団に入るなり、まぶたが下がってきた。
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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それでも、私のエプロンの裾を、指でつまんで離さなかった。
「あした、おうち、なくならない?」
眠そうな声だった。
なくならないよ、と言いたかった。
凛の口では、約束できない。約束を破ったら、この子は二度目に、ママに嘘をつかれることになる。
私は、陽翔の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
陽翔は、目を閉じたまま、私の耳を叩き返した。
指が、途中で布団に落ちた。
寝息を聞きながら、私は、この子の部屋の窓を見た。
あの図面の上では、消えていた窓だった。
*
九時を過ぎて、ムギの散歩から戻ると、離れの卓袱台に、紙が一枚広げられていた。
明日の茶室の、席の図だった。
榊さんの字で、名前が並んでいた。
正客に、叔父さま。お義父さまの兄で、御影の本家の人。
次客に、多恵子叔母さま。
三客に、顧問の倉橋先生。お義父さまの代から、四十年この家の法律ごとを見てきた人。
それから、蒼真。麗奈。末席に、榊さん。
点前座に、お義母さま。
茶道口に、半東の私。
「蒼真は、売るか、自分の取り分を金で買い取れと言う。叔父さんたちの前で」
榊さんは、図の上を指でなぞった。
「俺は、父の病室での言葉を話す。叔父さんにも、話してもらう。倉橋先生には、三年前の書斎の金庫が空だったことを、もう一度、皆の前で」
「それでも、大奥様が認めなかったら」
「警察に、捜索を頼むと言う」
榊さんは、私を見た。
「この家の、全部の部屋を、と。……茶室も、例外なく」
それは、お義母さまの喉元に、刃を当てることだった。
「隠し場所がばれると思えば、あの人は、自分で動く。誰かに見つかる前に、自分の手で始末をつけようとする」
「始末」
「出すか。……燃やすかだ」
榊さんは、少し声の調子を変えた。
「叔母から、電話があった。水曜の夜、義母は叔父の前で、手をついたそうだ。この家だけは売らせないでくれ、と」
「大奥様が、手を」
「叔母は、四十年で初めて見たと言っていた。……あの人は、家を守りたい。蒼真の味方でも、俺の味方でもない」
家を守るために、三年間、遺言を隠してきた人。
家を売られるくらいなら、燃やすと言った人。
同じ一つの手が、その両方をする。
三年前の夏、青い封筒を一枚ずつ火に落としていた、あの白い指が。
私は、席の図の、点前座の印を見た。
その真ん中に、中置の風炉がある。
「大奥様は、火を使います」
三年前の夏の、青い封筒の話をした。
榊さんは、黙って聞いていた。
「燃えたら、どうなりますか」
「遺言を燃やした相続人も、資格を失う。義母がこの家の半分を失うことには、変わりない」
榊さんの指が、図の上で止まった。
「だが、父が書いたことは、消える。家を陽翔に、と書いた字も。……あなたの撮った写真は、封筒の表しか写していない」
陽翔の部屋のない、開発の図面。
あの四角い建物が、目の裏に浮かんだ。
「なら、燃やさせません」
自分の声が、思ったより低かった。
「火のそばには、私がいます。お茶を出せと言われたのは、私ですから」
榊さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、席の図の、末席の自分の名前を、指で二つ横へずらした。
茶道口の、私の隣へ。
「末席は、どこに座っても末席だ。……あなたの隣に座る」
「榊さん」
「それから、一つだけ、決めておく」
榊さんは、私の手袋の手を見た。
その下の、首のスカーフも。
「もし、明日、あなたが火に手を伸ばしたら。……俺が、先に止める」
「でも」
「あなたは、もう一度、燃えたものの中に手を入れようとする人だ。一年前も、そうした」
言い返す言葉が、なかった。
燃える運転席の窓に、腕を差し入れたのは、私だった。
*
離れを出るとき、雲の切れ間に、月が出ていた。
榊さんは、縁側まで出てきた。
ムギが、私の足元に絡みついて、なかなか離れなかった。
「凛さん」
呼ばれて、振り向いた。
榊さんは、縁側の柱に片手をついていた。
月の光が、銀縁の眼鏡に、細く光っていた。
「明日が終わったら」
一度、言葉が切れた。
「あなたに、言いたいことがある」
庭の金木犀が、夜の中で匂っていた。
私は、榊さんの顔を見なかった。
見たら、答えてしまう気がした。答えていい名前を、私はまだ持っていない。
しゃがんで、ムギの首輪に手を伸ばした。
リードの留め金を、外して、また留めた。
結び目を、ほどいて、また結んだ。
聞こえなかったふりをして、ムギのリードを結び直した。
指先が、震えていた。
コメント
1件
第58話「前夜」、読ませていただきました。 「傷んだものほど、大事にするの」というお義母さまの言葉、すごく心に残りました。欠けた風炉を指でなぞる姿に、この家への執着と哀愁がにじんでいて、ただの敵役じゃない複雑さを感じます。 陽翔くんとの寝る前のシーンが特に切なかったです。「おうち、なくならない?」と聞く子に「なくならないよ」と言いたくても言えない凛さんの立場が、じんわり伝わってきました。耳をぽんぽん叩くやりとり、優しくて泣けます。 そして榊さんの「明日が終わったら、あなたに言いたいことがある」。聞こえないふりをしてリードを結び直す凛さんの震える指、その情景が映像のように浮かびました。続きが本当に気になります。明日の茶会、どうか悲しい火にならないでほしい…😢