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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
1,613
ゆうき
73
朝九時、欠けた鉄の風炉に、炭を入れた。
下火を三つ。その上に、胴炭と、丸毬打と、割毬打。
火箸の先で、一つずつ、灰の山のあいだに据えていく。
炭が、ゆっくりと赤くなった。
釜を掛けると、しばらくして、湯が鳴りはじめた。
しゅん、しゅん、と細く。松の梢を渡る風の音に似ているから、松風と呼ぶのだと、この人に教わった。
床の間には、開門落葉多。
その軸の裏で、黒い鉄の扉が、今朝も閉じていた。
*
昼過ぎ、蒼真が厨房に下りてきた。
紺のスーツに、ネクタイを締めていた。
発表会の日から、一番まともな顔色だった。今日で全部を取り戻せると、信じている顔だった。
「凛さん」
蒼真は、配膳台の上の菓子器を、指先で直した。
「今日は、お茶を出したら、すぐに下がってくれ。……余計なことは、言わないでほしい」
「お茶をお出しするだけでございます、旦那様」
凛の声で、そう答えた。
ええ。私は、何も言わない。
今日、本当のことを口にするのは、あなたのお母様の手だ。
蒼真は、私の顔をしばらく見て、それから、えくぼを作って笑った。
「頼むよ。この家のためなんだ」
*
午後一時、茶室に七人が揃った。
正客に、叔父さま。
お義父さまより三つ上で、白い眉の下の目元だけが、お義父さまによく似ていた。杖を、膝の脇に置いた。
次客に、多恵子叔母さま。
三客に、顧問の倉橋先生。痩せた体に、黒い革の鞄を抱えていた。
それから、紺のスーツの蒼真。
新しい若草色のワンピースの麗奈。
末席に、濃紺のスリーピースの榊さん。
茶道口の、私のすぐ隣だった。
四畳半に、膝と膝が触れるほどだった。
「狭っ」
麗奈が、小さくつぶやいた。
「御影の大事は、昔から、この茶室で決めてきたの」
お義母さまは、麗奈のほうを見もせずに言った。
「宗一郎の時代から。……あの人が、そう決めたのよ」
点前座に、お義母さまが座った。
藍鼠の色無地に、銀鼠の帯。帯の上で、藤色の帯揚げが、かすかにふくらんでいた。
「お話の前に、一服差し上げます」
お義母さまの声は、いつもと同じだった。
背筋も、いつもと同じに、異様にまっすぐだった。
茶筅の音が、狭い茶室に満ちた。
私は、点てられた茶碗を一つずつ、客の前へ運んだ。
足の運びは、畳の目に沿って。茶碗は、少しだけ内側に寄せて置く。
この人の癖だった。
この人に、三年かけて叩きこまれた癖だった。
多恵子叔母さまが、茶碗を手に取ったまま、私を見た。
「……貴和子さん。この人、置き方まで、あなたにそっくりね」
お義母さまは、答えなかった。
*
三服目が下げられると、蒼真が口を開いた。
「単刀直入に言います。この家を、売りたい」
鞄から、紙を出した。
開発の会社の、見積もりだった。
「坂の上の六百坪で、九億。会社の負債を返して、残りを、母さんと兄さんと僕で分ける。……叔父さん、このままだと、御影の名前のついた会社が潰れるんです」
叔父さまは、見積もりに目を落とさなかった。
「宗一郎が建て直した家だ」
「父さんは、もういないんだ」
蒼真の声が、跳ねた。
「兄さん一人が判を押さないせいで、全部が止まってる。法律上、この家は母さんが半分、僕と兄さんが四分の一ずつで――」
「法律の話をするなら」
榊さんが、静かに言った。
「父の遺言の話から、始めるべきだ」
茶室の空気が、止まった。
「父の遺言は、この家にある」
お義母さまの手が、茶杓の上で止まった。
「何を言っているの」
お義母さまは、榊さんを見なかった。
風炉の釜を見ていた。
「あの人は、何も残さなかったわ」
「宗一郎さん、うちの人に遺言を書いたって言ってたわよ」
多恵子叔母さまが、扇子を口元に当てた。
「ねえ、あなた」
叔父さまが、ゆっくりとうなずいた。
「兄貴は、確かに言った。亡くなるふた月ほど前に、この茶室で。……家は陽翔に残す、と書いた、とな」
叔父さまは、杖の頭に、両手を重ねた。
「私は、てっきり倉橋さんが預かっているものだと思っていた。葬儀のあと、何も出てこないと聞いて、兄貴は書きかけで死んだのかと。……貴和子さん、あんたにも、そう言われた」
蒼真が、叔父さまを見た。
それから、お義母さまを見た。
「三年前の葬儀の翌日、宗一郎さんの書斎の金庫を、私が開けました」
倉橋先生が、鞄を膝に抱え直した。
「空でございました。番号をご存じだったのは、宗一郎さんと、奥様だけです」
「……母さん?」
蒼真の声が、細くなった。
お義母さまは、何も答えなかった。
「なら、警察に捜索を頼みます」
榊さんの声は、少しも上がらなかった。
「遺言書の隠匿は、相続人の資格に関わる。この家の、全部の部屋を、調べてもらう」
一拍おいた。
「茶室も、例外なく」
*
しゅん、と釜が鳴った。
お義母さまが、顔を上げずに言った。
「佐伯さん」
「はい、大奥様」
「炭が、弱いわ。足しなさい」
心臓が、一度、大きく跳ねた。
「……かしこまりました、大奥様」
お義母さま。
あなたは今、私の手で、火の蓋を開けさせようとしている。
炭は、弱くなかった。
九時に入れた炭は、まだ十分に赤かった。
私は、炭斗を引き寄せた。
釜の鐶に指をかけ、重い釜を、両手で風炉から上げた。
釜敷きの上に、下ろす。
むき出しになった風炉の中で、炭が、赤く息をしていた。
羽箒で、風炉の縁を掃く。
炭を、一つ取る。
膝の横で、お義母さまが動いた。
目が、私の頭の上を越えて、床の間へ向いていた。
開門落葉多。
お義母さまが、立ち上がった。
*
誰も、止めなかった。
止められなかった。
お義母さまは、床の間の前に膝をつき、両手で軸を外した。
板の端を押した。
板が、横へ滑った。
叔父さまが、息を呑む音がした。
「貴和子さん、それ――」
多恵子叔母さまの声が、途中で消えた。
かち。かち。かち。かち。
鉄の扉が開いた。
お義母さまの白い手が、中から、厚い封筒を引き出した。
遺言書、の太い字が、茶室の全員の目に入った。
「母さん、それ――」
蒼真が、腰を浮かせた。
お義母さまは、振り向いた。
封筒を胸に抱いて。三年間、毎晩、そうしてきたように。
その目が、私を見た。
開いたままの、風炉を見た。
「こんなもの!」
お義母さまの腕が、振り下ろされた。
封筒が、私の頭の横をかすめて、風炉の中へ落ちた。
赤い炭の上で、白い紙の端が、一瞬で黒く反り返った。
炎が、ぼっと立った。
熱が、顔に当たった。
一年前の、雨の坂の熱だった。
焼けるガラスの匂い。窓の向こうの、私のコートの袖。押し戻してきた、凛さんの手。
私の左手が、勝手に伸びた。
手袋のまま。
一年前、燃える運転席の窓に差し入れた、同じ手が。
肩を、強く押された。
体が、横へ倒れた。
畳に肘をついたとき、目の前を、濃紺の袖が横切った。
榊さんの左手が、風炉の中に入っていた。
素手だった。
赤い炭の上に差し入れた手の甲を、炎がなめていた。
その手が、炎の中から、封筒をつかみ出した。
畳の上に叩きつけ、燃えている端を、そのまま左手で握りこんだ。
じゅっ、と音がした。
焦げる匂いがした。
紙の匂いと、それとは違う、もっと嫌な匂い。
榊さんは、手を離さなかった。
炎が、消えるまで。
煙が、細い一筋になるまで。
「玲司さん!」
叫んでいた。
自分の声だった。
低く、かすれた、凛の声で。凛が一度も口にしたことのない名前を。
茶室が、静まり返った。
多恵子叔母さまの扇子が、畳に落ちた。
麗奈が、口を半分開けたまま、私を見ていた。
お義母さまは、床の間の前に立ったまま、動かなかった。
焦げた封筒を握った玲司さんの手から、煙が上がっていた。
そして蒼真が、私を見ていた。
コメント
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第59話、一気に持っていかれました……! 茶室の空気、炭の火、一つ一つの所作に緊張が満ちていて、息を止めるように読みました。特に、お義母さまが遺言書を風炉に落とす瞬間の衝撃と、それに反射的に手を伸ばす凛さんの手——あれは一年前の記憶と地続きなんですよね。そして榊さんが素手で掴み出す。名前を呼んだ凛さんの声が、胸に刺さりました。設定の細部がここで一つに繋がる感じ、本当に好きです。続きが気になって仕方ないです…!