テラーノベル
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病室の一階、色褪せた長椅子に座っていた黒沢真希さんは、私たちが近づくと弾かれたように顔を上げた。
憔悴しきったその顔は、四十歳という実年齢よりもずっと老け込んで見える。彼女が大切に育ててきた店と、ようやく掴んだ幸せが、一夜にして瓦解してしまったのだ。
「……あの、高橋さんは。彼は、無事なんですか?」
縋るような問いに、私は
「山場は越えたそうです」
と、精一杯の気遣いを込めて答えた。だが、私の隣に立つ男は、そんな私の配慮を嘲笑うかのように、本題へと切り込んだ。
「黒沢さん。少し、お店のセキュリティについて確認させてください」
柊さんの声は、静かだが容赦がない。
「この店の警備システムを解除し、金庫を開けることができたのは、店主であるあなたと、甥の光輝さん。そして、高橋さんの三人だけですね?」
真希さんは一瞬、戸惑ったように目を泳がせた。
「……はい。そうですけど、それが何か……?」
「警備会社への通報が遮断され、暗証番号も一発で通っていた。内部事情を知り尽くした者の犯行、あるいは手引きがあったと考えるのが自然です。あなたは、彼のことをどれほど知っているんです?」
「……何が言いたいんですか。彼は、私のために刺されたんですよ?」
真希さんの声が、怒りで微かに震え始める。しかし柊さんは、まるで世間話でもするかのような軽やかさで、彼女の聖域に土足で踏み込んでいった。
「あの日、店の締め作業を彼は買って出てくれたんです。最近体調が悪くて早めに店を閉めると言っても全部代わりにやってくれて……」
「話は変わりますが、彼との出会いは、どのようなものだったんですか? さぞかし、映画のようにドラマチックだったんでしょうね」
真希さんは、遠い記憶を辿るように視線を落とした。
「……半年前、気分転換に通い始めたカルチャースクールでした。手打ち蕎麦の体験クラス。私は不器用で、粉まみれになって四苦八苦していたんです。そうしたら、隣の席にいた彼が『僕も全然ダメなんですよ』って、困ったように笑いかけてくれて……」
真希さんの声が、少しだけ潤いを帯びる。
「趣味の話で盛り上がって、その日の帰りに軽く食事をしました。彼は、派遣の仕事が切れて将来に不安を抱えていて。でも、自分の不遇を嘆くわけでもなく、私の仕事の話を『すごいですね、尊敬します』って、真剣に聞いてくれた。……これまで一人で必死に店を守ってきた私にとって、彼の言葉は、何よりも救いだったんです。まさに、運命だと思いました」
「蕎麦打ちのクラス……。孤独な独身女性が、自分磨きのために通いそうな絶好の釣り場だね。僕の現役時代は陶芸教室でした」
柊さんは、残酷なほど冷めた声で吐き捨てた。
「黒沢さん。それは運命なんかじゃない。あらかじめ書き上げられた脚本だよ。彼は、あなたがそのスクールに通っていることを知り、偶然を装って隣の席に座った。……弱さを見せてあなたの警戒を解き、称賛を与えてあなたの自尊心を満たす。それは、熟練の結婚詐欺師が使う最も古典的で元詐欺師の僕にはわかる」
「元詐欺師? ……何、を……。というより、彼はそんな人じゃありません!」
真希さんは立ち上がり、柊さんを激しく睨みつけた。
「彼は、私と一緒に店を切り盛りするために、必死に勉強してくれたんです。あの最新の警備システムだって、私が心配性なのを知って、彼が勧めてくれた業者で……」
「その業者の名刺も、今となっては偽造品かもしれないね。……南さん」
柊さんが私に視線を投げた。その瞬間、私のコートのポケットでスマートフォンが激しく振動した。
「……失礼します」
私は二人から少し離れ、小宮さんからの連絡を受けた。通話時間は短かったが、その内容は、柊さんの残酷な言葉に決定的な裏付けを与えるものだった。
私は通話を終え、重い足取りで二人のもとへ戻った。
「……どうした、顔色が悪いよ」
柊さんの問いに、私は真希さんの瞳をまっすぐに見つめながら、声を絞り出した。
「……鑑識から、高橋さんの指紋の照合結果が届きました。彼は過去に複数の偽名を使い、結婚詐欺に関与していた疑いで、マークされていた男と一致しました。過去に逮捕歴もあります……高橋というのは、偽名です」
静まり返った廊下に、私の声だけが虚しく響いた。真希さんは、叫ぶことも、柊さんに食ってかかることもしなかった。ただ、糸が切れた人形のように、ゆっくりと長椅子に腰を下ろした。
「……偽名」
真希さんの口から漏れたのは、乾いた笑いのような、溜息のような音だった。
「あんなに、私の将来のことを真剣に語ってくれたのに。店を新しくして、二人で旅行に行こうって……。あの時の言葉も、全部、嘘だったの?」
彼女の顔に浮かんだのは、裏切られた怒りではなかった。
まるで、深い霧の中から一瞬だけ見えた美しい幻が消え、再び元の冷たく暗い景色に戻ってしまったことを悟ったかのような。そんな、ひどく悲しげで、静かな諦めだった。
「……柊さん。もし、彼の目的が結婚詐欺なら、どうして今回のような事件が起きたんですか?」
私が尋ねると、柊さんは病室のある上階を見上げ、目を細めた。
「……詐欺師にとって、命を懸けるほどの演出には必ずそれ以上のリターンがある。彼は、黒沢さんを落とすための仕上げとして、この強盗事件を自ら仕組んだのか。……あるいは――」
柊さんの言葉の先は、廊下を通り抜ける風の音に消された。
真希さんは、膝の上で握りしめた自分の手をじっと見つめている。その指先には、まだ彼が選んでくれたという婚約指輪が、皮肉なほど美しく輝いていた。
私は手帳を閉じ、彼女に掛けるべき言葉を見つけることができなかった。真実が常に人を救うわけではないことを、私はこの元詐欺師の男の隣で、痛いほど思い知らされ始めていた。
#オリジナルキャラクター有り
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