紫陽花は花を咲かせたのだ。
梅雨の日、一人の青年は雨の音で目を覚ました。
窓の外の空と同じように、心の空も曇っている。
憂鬱な日々、変わらない日々
「明日」という存在が、本当に鬱陶しく感じる。
今日、世界が終わってしまえばいいのに。
そんな願いも虚しく、無情にも布団に入れば、おのずと明日はやってくる。
わかっている。けれども、また考えてしまう。
明日が来なければいいのに、と。
青年の名前は、一万希望風(いまき もふ)。
ごく普通の男子高校生だ。
彼はとても綺麗で、成績優秀、運動神経抜群で、人気者だ。
けれども、彼の瞳を見てみればわかるだろう。
温かさの欠片も残っていない。
その美しさが、彼の絶望をさらに深いものにするのだ。
彼は、重たい腰を持ち上げ、履き慣れすぎた革靴を履き、カバンを持ち上げて、家を出た。
自らに打ち付ける水の感覚に、傘を忘れたことを思い出したが、来た道を戻ることはなかった。
いっそのこと、この雨に溶けて消えてしまいたい。そんな思いを抱えていた。
冷たい雨の感覚が心地よい。嫌われ、冷たくされたほうが自分は楽なのだ。
良い環境に、能力に恵まれているよりも、悪い環境で、苦しみながら生きていく人になりたかったと、自分は思っている。
俺は、人生で大きな苦い思いをしたことが一度もない。
それ故、「薄っぺらく感じる自分」が大嫌いで、嫌なのだ。
特別努力をしたことも、苦労をしたこともない。
全て、出来てしまうから。
人生とは、なんてつまらないものなのだろうと思う。
全てがうまくいく世界以上につまらないものはないだろう。
そんなことを考えながらバス停に着き、傘を差さないまま、濡れて立っていた。
雨のこともあってか幸い人はいなく、おかしな目で見られることもなかった。
けれど、今考えれば、こんな状態ではバスに乗ることはできないだろう。なんて馬鹿なんだ。
時刻表を確認してみると、今来るバスに乗らなければ次のバスは30分後で、間に合わないことが分かった。
それでも、流石にこんな状態で乗るわけにはいかないので、仕方なく遅刻を覚悟で家に帰ることにした。
俺が歩き出すと、いきなり雨に打たれなくなり、視界が傘で遮られた。
後ろを振り返ると、自分よりも15cmほど背の低い子が立っていて、こちらに傘を差しだしていた。
「濡れちゃってますけど、、大丈夫ですか?」
無理に上げたトーンで話しかけてくる。
その子の背中は傘からはみ出て、雨に打たれてしまっていた。
「…平気だよ、」
俺はそう答えて、また前を向いた。普通に受け取れば、会話は終わり、という意味だ。
けれども、その子は語りかけてくる。
「…同じ学校ですよね?百乃学園」
「…そうみたいだね、」
「今から帰るんですか?次のバスだと間に合わないですよ?」
「別に、」
「…そうですか、」
鬱陶しい。無理に気を使わないでほしい。構わないでほしい。
…辛いんだ、
「先生に伝えておきましょうか?」
やめて、
「ぁえ、っ、…だ、大丈夫ですか、?」
やめろ、やめてくれッ…
「ご、ごめんなさい、お節介…で、迷惑、でしたよね、」
「俺なんかにこんな事言われても、困るだけ…ですよね、」
声が、震えている。
「ごめんなさい、すぐに行きますから、傘だけはさして…、」
俺は堪えられず、勢いよく後ろを振り向いた。
その子は驚いたのか、目を丸くした。
また、俺にも驚いたことがあった。
その子は、狐のような耳としっぽをはやしていて、オッドアイだったのだ。
別に、そんなことはどうでもいいが、
けれど、確証が持ててしまった。
…この子は、俺と同じなのだ。
世界に、人生に絶望して、前に進みたくなくなっている。
震えた声、自信のない話し方、自虐的な言葉、無理に明るくしている声。そして、いきなり動いたときの、一瞬の恐怖の感情と、目を瞑る行動。
俺とは真逆で、だけど、よく似ていて…。
「…君は、いいんだよ」
「…え、?」
戸惑ったような表情を見せる。ただ、
それも、作っているのはひと目でわかる。
「生きてる意味があるんだよ。きちんと、心が、」
「優しくて、苦しみがわかる、心があるんだよ」
一瞬の驚きのあと、顔が、泣きそうの歪んだ。これは、おそらく本心なのだ。
そして、俯いてしまった。けれども、その子は言葉を続ける。
「…君”は”って、何ですか」
「だめですよ、そんなこと言ったら…」
…さらに、震えた、ただただ優しい声。
この反応をした時点で、ほぼ確定だ。
「虐め?、それとも虐待?」
俺はスマホを取り出した。
それを捉えた瞬間、その子は、
「駄目ですッ、警察は、先生は、ダメですッ…」
必死の表情で訴えてくる。
トラウマがあるのか、脅されているのか、
「…どちらにせよ、何もしないわけにはいかないんだけど、」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいッ、…」
ひたすら、謝り続けている。
こういうときは、構わず警察に言ったほうがいいんだろうけど…
「やめてください、お願いしますッ、お願いします…」
怯えている。
そうわかると、なぜか手が動かなくなった。
…結局、通報したところでこの子の気持ちが楽になって、救われるわけではない…のか。
だったら、俺がやるべきことは違うだろう。
でも、何をすればいいのか、…
わからない。
…わかっていた、俺が、「能力」しかない、「不完全人間」だなんてこと。
俺は、かなり成績は良く、運動もできるほうだろうとは自分でも思っている。
けれど、”それだけ”なのだ。
俺は、理論的にしか動けない。
“人の感情にあった行動”というものをとることができない。
だから、嫌なのだ。
自分のせいで、悲しむ人の顔を見るから、自分は人を傷つけてばかりなのだと自覚してしまうから、自分が、大嫌いになるから、
嫌なのだ。この世界が、自分が。
感情が、心が、あるのなら、
人のことを理解することのできる心があるのならば、
たとえそれ以外が何もなかったとしても、それは、「人間」と言えるだろう。
それが、いちばん大切なことなのだから。
ただ、俺にはいちばん大切なものがなく、余計なものだけがある。
自分が、大嫌いだ…
「ッ、ぁ、ポロポロうぁぁッ、ポロポロ」
押し殺した泣き声を耳にして、顔を上げた。
…わからない、何もできない。
けど、
放っておきたくない。
…うまくいくか、これであっているのか、わからない。
でも、…
俺は、その子の身体を抱きしめた。優しく、けれども強く。
「…なんでも話していいから、全部、ぶちまけちゃいな」
「俺は、あんまり話すことが得意じゃないから、…聞くことしか、できないけど、」
「今は、なんでもいいから、全部、…」
その子の手の力が抜け、傘が空高く舞い上がった。
冷たい雨に打たれ、同時に体温の暖かさを感じる。
名前も知らないその子は、もう声をこらえることはなく、大声をあげてないていた。
「俺、おれ、はッ、」
「もともとは、こんな耳なんて、ッこんな、こんなしっぽなんてっ、なかった、ん、ですよッ」
「こんな、目なんかじゃなくて、こんな髪色じゃッ、なくてっ、」
「でもッ、中1の頃、なんだか変な奴ら、に、つかっ、まって、ッ、」
「人体実験、とかッ言われて、無理矢理、ッ薬を飲まされて、」
「次の日の朝にはッ、こう、なって、て、ッ…」
「みんなッ、みんな、は、」
「きちんと話せば、受け入れてくれるって、信じてたのに、」
「みんな、気持ち悪いって、言ってた」
「みんな、俺を殴って、蹴って、切りつけて、」
「家族も友達も親友もクラスの人たちも先生も赤の他人もッ、」
「俺は、一人になっちゃった」
「みんながいる、一人」
「誰にも認められない、一人」
「みんなから罵られて、馬鹿にされて、気持ち悪がられる、一人」
「…今思えばッ、当たり前、だよっ、ね、」
「誰だって、こんな人をッ、見たら、気持ち、悪いって、イタいって、思、うよ」
「馬鹿、だなぁ、…」
「わかってた、じゃん、」
「結局、みんな、みんな、」
「…」
そうして、今度は俺の方に顔をうずめて静かになってしまった。
ちょうどその時、真隣で、バスが停まり、ドアが開く音がした。
「…のらな、くて、いいん、ですか、?」
つっかえながら、そう聞いてくる。
「行きたくないから、」
「…そう、ですか、」
バスのエンジンの音が聞こえた。
「…俺と、真逆だね、」
「でも、」
「俺に、一番良く似ているよ、」
「なんなんですか、そ、れ、…w」
少しだけ、笑ってくれた。
…本当に、いい子だった。
だって、
「…何か、抱えてるんですか?」
なんて、ね。
「あるよ、」
「俺は、君と代われたらよかったのに、」
「…え、?」
「俺は、真逆」
「嫌われていたほうが、楽って思っちゃう」
「そうなん、ですね、…」
「…いい加減、声のトーン、無駄に上げなくていいよ、」
「…本当にッ、おみとおし、です、ね、…」
「もう、怖い、です、よ、ッ…」
「だから、俺と似てるからなんだってば」
「…本当に、そうみたい、ですね、」
「信じられませんよ…、」
「…俺には、希望なんてないと思っていたのに、」
「久しぶりに、…笑っちゃったじゃ、ないですか、…」
「…よかった、」
少しの沈黙の後、君は言った。
「…今日、今日だけ、でいいので、」
「ずっと、そばにいてくれますか、…?」
遠慮がちに聞いてきた。
…わかってるじゃんか、答えは勿論、
「いいよ、」
「ありがとう、ございます、…」
「名前は、なんていうの?」
「大湖奈音温(おおこな どぬく)です。音に、温かいって書いて、」
「そうなんだ、」
「俺は、一万希望風。望むに風って書く。」
「そうなんですね!よろしくお願いします!」
「ずっと思ってたけど、なんで敬語なの?」
「初対面だし、先輩かなと思ったので…」
「俺、初対面からため口だし、そもそも学年知らないでしょ」
「そういえばそうでしたね、!」
「ちなみに何年なんですか?」
「一応、2年」
「…え?」
「俺も、2年、なんですけど…」
「…身長差、かなりあるね」
「これだから、低身長はいやなんですよぉ…」
「大丈夫大丈夫、w俺が高いだけで平均くらいだから」
「いいですね、高身長は!」
「www、」
そうして、リスのように頬を膨らませた。
…可愛い、なぜか。
「まぁ、というわけで、ため口でいいよ。というか、ため口にして」
「俺が申し訳なくなる」
「じゃあ、わかり…わかった!」
「ありがとう、」
「じゃあ、今だけだけど、…よろしくね、」
「もふくん!」
初めて、笑顔を見せてくれた。
ぱっ、と花が咲いたような、眩しい笑顔。
心臓が一度、大きく波打った。
…本当に、なんで、
なんで、この子はこんなに、俺を引き付けるのだろう。
一緒にいたい。そう思えた人なんて、はじめてだ。
「どうしたの?」
そう首をかしげる君に、顔が熱くなり、今度こそ自覚せずにはいられなかった。
「学校って、どうする?」
「休んじゃおうか、w」
「えぇ、だ、大丈夫、…?」
「大丈夫大丈夫、」
「ずっと一緒にいるんでしょ?」
「…え、?」
ぽかんとしている君をみて、少し笑いがこぼれた。
「ずっと、…?本当に…?」
「うん、」
「君が望む限り、ずっと、」
一瞬、目を大きくした後、
「…ありがとう、」
「ありがとう、本当にッ、…」
「ありが、とう、…」
涙を流しながらも、笑顔を作ろうとする君。
…まだ、癖は抜けないか、
俺も、そうだけど。
「笑わなくていい、」
「その時の自分の気持ちのまま、その時一瞬一瞬を、必死に生きていればいい。」
「もう、いいんだから」
「取り繕わなくて、いいんだから」
俺に抱き着いて、声を上げずに泣く君。
その時、ふと俺は気が付いた。
俺の名前には、君に足らなかった「希望」があって、
君の名前には、俺に足りなかった人の「温」かさがあるってこと。
これは、…偶然なのかな、
それとも必然だったのか。
誰も知っている人はいないけれど。
少し時間がたって、彼も落ち着いたようだ。
俺はそっと声をかけた。
「俺の家、行く?」
「濡れてるから着替えないと風邪ひくよ」
「いいの、?」
「行こ行こ!」
「w、しっぽ、揺れてるよ」
「だって、誰かの家に行くって初めてなんだもん!」
「そうなんだ、w」
「じゃあ、行こうか」
俺らは隣に並んで歩きだした。
数歩歩いたところで、いきなり土砂降りだった雨が弱まりだし、
すぐに空には青色と雲が浮かんだ。
「雨、…やんだね、」
「うん、…」
空を見上げてみると、7色で作られたカーブがあった。
「あっ、虹、!」
「綺麗だね、」
「うん!」
少し足を止めていた俺は、また歩き出した。
後ろでまだ彼は、空を眺めている。
「おいていっちゃうよ、どぬくさん」
「えっ、」
そんなに名前呼びがうれしかったのか、どぬくさんは顔を花が咲いたようにほころばせた。
俺も、笑顔にならずにはいられなかった。
「待ってよぉ!」
「www」
あぁ、きっと、
俺の未来はこの空のようになっていくのかな、なんて
少し、思ってしまった。
紫陽花は、間違いなく花を咲きほこらせたのだ。
コメント
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感動すぎる、、もふくんの気持ちわかるこんな自分幸せに生きてていいのかなってなる、お話って自分の気持ちを伝えられてるからわわちゃん無理しないでね、名前も知らないやつに言われても響かないだろうけど