コメント
0件
進むと、下と上に階段がある。下の方へ進む。ドアをくぐると、部屋の中に樽が並んでいた。ワインセラーね。
何だか変な臭いがしてる。酸っぱいような、腐っているような……。樽の中のワイン、腐っているのかしら?でもこれ、ワインの臭い?ワインが腐ってこんな臭いするかしら?樽の中身、気になるな……。試しに樽のコックをひねってみた。
「!!」
赤い液体が流れ出して、びちゃびちゃと床を濡らした。中に入っているの……血……!?それも腐った……!慌ててコックを閉じた。
ち、違うわ!だって血は固まるはずだもの。だから違う……血なんかじゃない。これは赤ワイン。きっとほんのちょっと古いだけのもの。樽や木箱など物は多いのに、役立ちそうなものは見当たらない。
まっすぐ廊下を進む。ここは……人工の池?ちょっとしたプールにも見える。でもこんなところで泳ぎを楽しむ人がいるとは思えないから、やっぱり池なんだろう。池は澄んだ水をたたえている。底がくっきり見える。大きな池。幅、十メートルくらいはありそう。
中央には二つの壁が二メートルほどの間隔を開けて、平行に並んでいる。透かしになっているその壁は水中から生えていて、池を二分化していた。透かしの壁の向こうに、反対側の岸が見える。ここだけは妙に綺麗だ。汚れた場所にある唯一の清浄な場所……。綺麗すぎてなんだか怖い。
池の四隅には白い石で作られた台座があって、剣が奉られている。その剣に近づいてギョッとした。台座の上、剣は布で覆われた何かに直接刺してある。布には、ドス黒いシミが広がっていた。何か、小動物を……?
「…………」
この剣の長さじゃ、杖にするには足りないわね。
階段が二つに分かれているところまで戻り、上の階段を上る。
部屋に入ると、私は顔を顰めた。変な匂い。甘ったるい重い匂いが鼻につく。見れば、部屋の隅には大きな香炉があって煙をくゆらせている。この匂いね……。あまり好きな匂いじゃないな。なんだか酔いそう。
部屋の中央には大きな檻があった。人が入れるほどのそれは、巨大な鳥籠に見える。これならダチョウだって入りそうだ。でも、今は空っぽ。その檻を囲むように床に何かの図形が描かれ、それに合わせて、三つの杖が台座に立ててあった。
杖は木製で、てっぺんには動物の角があしらわれている。魔法使いのおばあさんが持っていそうな大きな杖だ。これ、いいかも……。ちょっと頭のイガイガが邪魔だが、杖の替わりになるんじゃないかしら。まさに杖だもの!
私は台座から杖を引き抜こうとした。
「あれ……」
びくともしない。完全に台座と一体化している。この杖は実用的な物じゃなくて、装飾的なものなのだろう。困ったな。ちょうどいいものを見つけたと思ったんだけど……。
杖の刺さっている台座はしっかり床に固定され、杖もガッチリ固められている。抜くのは無理そう。切らないと……。杖は木だから……ノコギリでもあればいいね。そんな物あるかな?
試しに奥のドアを潜り階段を上ったら、ドアがあった。しかし鍵がかかっている。中に入れそうにない。
階段を二つ下がって酒樽の間に来た。濃い血の臭いが蔓延している。ここには何もない。
奥に進むと、白い石で作られた人工の池が広がる。水は澄んでいた。池の隅には、剣が奉られている。そうだ。この剣杖の代わりは無理でも、ノコギリ代わりにはなるかもしれない。大きな鳥籠のあった杖を切り取るのに使えそう。こんなの触るなんて、気味悪いわね……。
「…………」
覚悟を決めて、剣に手をかけた。布に染み込んだ血は、完全に乾いている。それが何なのか分からないものの、その命を奪われたのはもう随分前。布の下の「何か」が持ち上がらないよう、注意して剣を引き抜く。カスッという軽い感触と共に、剣は抜けた。
剣は年代ものらしく、刀身には血がこびりついている。が、その刃は鋭さを保っていた。これなら、きっと杖を切れるわ。
階段を二つ上って、二階の雛鳥の間だ。
これで切れるといいな。私は地下の池から持ってきた剣で、杖を台座から切り離すことにした。最初はノコギリのように引いてみたのに、ちっとも切れない。仕方ないので、ナタのように幾度も刃を杖に打ちつけた。がつっ。がつっ。硬い……。がつっ。がつっ。
それにしても、この部屋はなんて甘ったるい匂いなの。目が回る。がつっ。がつっ。叩いて。叩いて。叩いて。叩いて……。がつっ。がつっ。
やがてーー肩で息をしながら剣を置いた。切れた……。切れたというより、折れたという方が近い。なんにせよ、これでリズのところに戻れる。切り離した杖は本来より少し短くなってしまったけれど、元々長かったから問題ない。
「!」
立ち上がった時急に眩暈がして、思わず杖で体を支えた。なんだろう。貧血?眠いような、気持ち悪いような……。部屋のお香の匂いに酔ったのかも。本当にこの匂いは……たまらないわ。早くリズのところへ戻ろう。
階段を降りて、杖を抱えたまま人柱の間に戻ってきた。
「リズ、お待たせ……!あれ、リズ?」
さっきの場所にリズの姿がない。慌てて辺りを見渡すと、部屋の隅で背中を丸めて蹲る人影を見た。ホッとして、その背中に駆け寄る。
「遅くなってごめんね。杖、持ってきたよ」
蹲ったまま答えない。心配になって、その背中に手を伸ばした。
「大丈夫?足、痛いの……? !!」
リズじゃない……リズじゃない!!
赤く濡れた目が、私を見上げていた。私と同じ顔で。悲鳴は喉に張り付いて出ない。全身が凍りつき、伸ばした手も引っ込められない。その氷が解けたのは、蛇の舌が手をねぶった時だ。
「キャアアアッ!!」
「レナアアア!!」
狂ったように部屋を飛び出した。牢獄道まで戻る。
「レナアァああ!!」
ドアを閉める間もなく、お化けが躍りかかってきた。いやっ、どうしよう!!持っている杖で殴りつける。
「いやっ!」
「グァッ!!」
杖はお化けのこめかみを直撃し、折れてしまった。お化けは頭を抱えて蹲る。
「!」
一瞬湧いた罪悪感を飲み込んだ。可哀想だなんて言ってられないわ。今のうちに逃げなきゃ!
ドアの掛け金を外して東の扉を潜り、断罪の間まで走る。どうしよう、どうし……!焦って部屋を見渡した。どこか隠れるところは……!
私はドアの横、ちょうつがいがついている方に張り付く。このドアは内側に開く。ここならドアが開いた瞬間、影に隠れて死角になるはず。ガチャッとノブが回る。
「うァアア!!」
ドアを蹴り飛ばす勢いで、お化けが駆け込んできた。今だ!素早く影から走り出して、開け放たれたドアへ駆け込んだ。背後を逃げていくのに気づいたお化けが振り向いて、唸り声をあげた。早く、早く逃げなきゃ!
回路の入り口へ駆け込むと、私を追ってお化けも躍り込んできた。
「あっ」
後ろから飛びついて体当たりされ、つんのめって転ぶ。アア、アア、とお化けが嬉しそうな声を上げた。右のふくらはぎに、ぬるっとした舌が絡みつく。
「!!」
悍ましい感触にパニックになって、メチャクチャに足を動かした。その拍子に、お化けの顔に足がぶつかる。短く潰れた声をあげて、足を拘束する舌が緩んだ。必死に起き上がると、中庭へ飛び出す。視界が白くなり、視力が奪われた。眩しい!!夜が明けてたんだ!
「ヒイイイイッ!!」
背後でお化けの声が聞こえる。何?どうしたの?振り返ろうとしたが、それはできない。痛い!顔面に皮膚がピリピリと裂ける痛みが走った。身体中が痛くて、寒くて、痛い……!突然体を襲った痛みに、悲鳴を上げる。何、これ!
私は、自分で自分の体を抱きしめて倒れた。痛い、痛い、痛い!!息ができな……!!誰かたす……。
『レナ……』
声が聞こえる。
『レナ……』
やめて、呼ばないで……。私を呼ばないで!
『レナ……』
「いやーー!!」
「レナ!」
「!」
私の肩を掴んだのは、お母さんだった。
「お母さん……」
「大丈夫?ひどくうなされて……」
明るい……私の部屋……。朝……。
「今朝の気分はどう?熱は?」
彼女の手が私の額に当てられる。
「やっぱり今日も熱があるわね」
熱……?ああ、お母さんの手は冷たくて気持ちいい。ぼうっとした頭が冴える。その瞬間、昨夜の出来事がフラッシュバックして蘇った。
「お母さん!!」
額に当てられた手を両手で掴む。
「お母さん、大変なの!!リズが……リズが!!まだあそこにいるの!リズ、怪我してるのに……助けに行かなくちゃ!!」
彼女は目を丸くする。
「なんの話?あそこって……」
「うちの地下から行けるところ!」
「まあ、うちには地下なんてないでしょ?」
「あるの!夜になると私を呼ぶのよ!あそこには長い舌のお化けがいて!!」
お母さんは笑って頬を撫でた。
「夢を見たのね」
ああ、アーウィンと同じ反応!違う、そうじゃないの。うまく説明できない自分がもどかしい。
「夢じゃないわ!!ねえお母さん、助けて。リズが死んじゃう!!」
彼女はおかしそうに笑う。
「信じて!嘘じゃ!!」
「レナったら。お母さん、朝にリズと会ったわよ」
お母さんは、マグカップに薬湯を注ぎながら言った。
「う、そ……」
「お友達と泊まりがけでハイキングに行くんですって」
薬湯を入れたカップをサイドボードに置く。慣れ親しんだ、苦い匂いが漂ってきた。
「嘘よ……マシューが行方不明なのに!!」
「あら、マシューも一緒だって言ってたわよ。行方不明だなんて。きっとリズに揶揄われたのよ」
……揶揄った?あの電話は誕生日のちょっとしたいたずら?夜のことは全部夢……?
「そ……そんなはず、ない……アーウィンだって知ってる……」
「そうなの?そんなことちっとも言ってなかったわ……」
「…………」
急に自信が消え失せた。夢だと言われれば、夢だった気がする。裏付ける証拠はどこにもない。また私の夢?私はずっとベッドの中にいた?あの場所の空気の臭いも温度も、はっきり思い出せるのに。最後のことがよく思い出せない。どうして私はここに?やっぱり夢なの?
「分かりました」
宥めるように笑いながら、私にマグカップを渡した。
「アーウィンが帰ってきたら、ちゃんと聞いておくわね」
「……アーウィン、いないの?」
最近、アーウィンはよく外出する。今までは姿が見えなくても、呼べばいつでもきてくれたのに。
「ええ、ちょっとお使いを頼んだの。すぐに戻ってくるわよ。さあ、お薬を飲んで」
マグカップの中の茶色い液体を見つめる。
私は市販の薬にアレルギーがあるのだという。普通の薬を飲むと、眩暈がしたりひどい時には吐いてしまう。そのため、薬草を煎じたものを飲んでいた。すごく苦くて変な味だが、東洋の国ではよく飲まれているんだってアーウィンが言ってた。
「お母さん、また今夜帰れないけど……平気ね?アーウィンがいるものね?」
「また?」
「……ごめんね」
「ううん……いいの。前に言ってた大事なお仕事なんでしょう……」
本当は行かないでほしい。今夜は側にいて欲しい。でも、そんなワガママは言えない。うちには父さんがいない。お母さんは一人で頑張っている。
「私は大丈夫……あんまり無理しないでね……」
お母さん、最近顔色が悪い。こっそり辛そうにしているところも見たことがある。きっとあんまり体調が良くないのに、どんどん仕事が忙しくなっているように見える。ますます、ワガママなんて言えない。彼女は私を抱きしめてくれた。
「このお仕事が上手くいったら、もっと一緒にいられるようになるから」
「じゃ、成功させなきゃね」
「もちろんよ、あなたのためにね……さあ、お薬を飲んで眠って。今日は熱が高いわ」
「眠りたくない……」
布団に潜りながらぐずった。あれが悪夢だとしたら、また捕まってしまう。
「大丈夫よ。眠って仕舞えば、気分が楽になるわ。悪いことなんて、みんな忘れてしまうから」
「うん……」
私はそうであることを願った。本当にそうであるよう、心から願う……。