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ゆ
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夜の闇市場は、不気味なほど静かだった。
ほんの数日前まで、マフィオソが「黒歴史ノート」を取り返そうと血眼になって暴れ回っていた廃工場。
今ではその場所は、別の意味で世界の命運を握る舞台へと変わっていた。
コンクリートの床には無数のケーブル。
違法サーバーが何十台も唸り声を上げ、闇市場からかき集められたリミテッドアイテムが青白く点滅している。
その中心で。
「……あと三分。」
iTrappedが静かに呟いた。
黄色い髪を揺らしながら、青いシャツの袖をまくり、端末へ高速でコードを打ち込んでいく。
カタカタカタカタ……
指先は一切迷わない。
頭上の氷の王冠は、完成を目前にして今までで一番強く輝いていた。
白い冷気が床を這い、ケーブルに霜を張らせる。
「暗号が解除されれば、この闇市場のシステムは内部から暴走する。」
「その爆発エネルギーで……Banlandsの封印を破壊できる。」
ほんの少しだけ。
その冷たい声に熱が混じった。
「……Ellernate。」
「Caleb244。」
「ようやく迎えに行ける。」
その瞳は、もう目の前を見ていない。
遥か遠く。
隔離領域の暗闇だけを見つめていた。
そのすぐ後ろ。
チャンスはソファへ深く腰掛け、退屈そうに銀貨を弄んでいる。
黒いスーツ。
サングラス。
いつも通りの姿。
「さて。」
親指で銀貨を弾く。
キィン――……
高い音が静寂へ吸い込まれる。
ぱしっ。
左手の甲に落ちた銀貨。
チャンスは手で隠さず、そのまま眺めた。
「……また表か。」
もう一度。
キィン――……
表。
もう一度。
表。
「……ふーん。」
四回。
五回。
六回。
全部、表。
「……なぁ。」
彼は天井を見上げたまま笑う。
「ペテン師。」
「なんだい。」
「今日の女神様、機嫌悪い。」
iTrappedは画面から目を離さない。
「勝率100%なら願ったりじゃないか。」
「違う。」
チャンスは銀貨を指で弾いた。
「確率ってのは偏り始めたら終わりなんだ。」
「全部うまくいく日ってのは。」
「大体、その直後に地獄が来る。」
「……迷信だね。」
「ギャンブラーは迷信で飯食ってる。」
ニヤリ。
「ほら。」
チャンスが耳を澄ませた。
「もう来てる。」
ドォォォォン!!!
廃工場全体が揺れた。
鉄扉が内側へ吹き飛ぶ。
コンクリート片が宙を舞う。
煙の向こうから現れたのは――
黒い帽子。
黒いコート。
マフィオソの部下たちだった。
「見つけたぞォ!!」
「ノート泥棒ォ!!」
「ドンの魂を返せェ!!」
「まだその話なの!?」
チャンスが思わずツッコむ。
「もう燃やしたほうが本人のためだろ!」
「燃やすなァァァ!!」
「読むなァァァ!!」
「コピーもするなァァァ!!」
「してねぇよ!」
しかし。
それだけでは終わらなかった。
ドドドドド……
さらに重い足音。
煙を押し分けるように現れたのは、黒い戦術装備に身を包んだ集団。
最新式ライフル。
防弾シールド。
完全武装。
その腕章には――
チャンスの実家の紋章。
「若様を確保。」
「抵抗者は排除。」
「え。」
チャンスが固まる。
「親父!?」
「このタイミング!?」
「空気読めよ!!」
兵士は無表情だった。
「坊ちゃま。」
「ご帰宅の時間です。」
「帰るかよ!!」
一方。
iTrappedの指が止まる。
「……どういうことだ。」
画面を見る。
敵戦力。
侵入速度。
残り時間。
あと二分。
「位置情報は完全に偽装したはず……」
王冠がパキッと鳴る。
冷気が乱れる。
計算式が崩れる。
「どうして……」
「どうして両方同時に……」
チャンスは笑った。
「だから言ったろ?」
銀貨を握り潰す。
「今日は最悪の日だって。」
次の瞬間。
左右同時にフリントロックを抜く。
バァン!!
バァン!!
防弾シールドへ火花が散る。
「ペテン師!」
叫ぶ。
「入力を止めるな!!」
「でも――」
「止めたら全部終わる!!」
弾丸が飛ぶ。
火花が散る。
チャンスは笑っていた。
「俺は今日!」
一人で前へ飛び出す。
「全財産どころか!」
さらに撃つ。
「命までオールインしてんだよ!!」
兵士たちが一斉射撃。
マフィオソの部下も突撃。
銃声。
怒号。
爆発。
すべてを一人で受け止めながら、チャンスは狂ったように笑う。
「最高だ!」
「倍率上がってきたァ!!」
「もっと来い!!」
その背中を見つめたまま。
iTrappedの手は止まっていた。
画面には。
残り1分48秒。
(ダメだ。)
(あの人数を一人で止められるわけがない。)
(あと一分もしないうちに押し潰される。)
端末を見る。
チャンスを見る。
端末。
チャンス。
端末。
チャンス。
(僕が動けば。)
(Banlandsは救えない。)
(でも。)
黒いスーツが銃火の中へ消えていく。
その背中を見た瞬間。
iTrappedの胸の奥で、今まで知らなかった感情が、静かに音を立ててひび割れ始めた。
完璧だった盤面は。
硝煙の匂いと銃声の中で。
誰にも予想できない結末へ向かって、ゆっくりと崩れ始めていた。