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暗闇の中、リンク沿いに光の輪が浮かび上がる会場は、気温一桁にもかかわらず大勢の人々の熱気に満ちている。激闘を終えて緊張が解けた選手たちが、みな思い思いのエキシビションを披露するからだ。
演技時間やエレメンツが厳しく定められている試合と異なり、エキシビションのプログラムに制限はほとんどない。音楽も衣装も内容も自由。規制により本番ではできない技を披露したり、あえて難しい技に挑戦したりする者もいる。中には、好きな漫画やアニメのキャラクターに扮したり、試合では決して表に出さない表情を見せたりして、自身も楽しみながら、足を運んだ観客の目も大いに楽しませるのだ。
このオリンピックで見事銀メダルを獲得した鴗鳥もその一人だ。念願のオリンピック出場に加えて、めでたく表彰台に乗った彼だが、そのエキシビションは非常にお茶目でかわいいと評判で、フィギュアスケートに詳しくない人ですら耳にしたことがあるほどだ。今回のプログラムも例にもれず、奇抜でユーモアの溢れるものだった。
キャップと星形のサングラスに、Blue Birdと印字されたエプロンを身に着けて登場した彼は、その広い背に大きな籠を背負っていた。それも、左右に広がる大翼が飾られ、おもちゃのアヒルが山ほど詰められた籠。軍手のような厚い手袋で覆われた指先にも数匹のアヒルが握り込まれている。普段の誠実で真面目な彼しか知らない者が見れば目を疑うような光景が現実に起きている。振付師にプロデュースしてもらった演技を披露する途中、衣装が重すぎて転倒してしまうところも愛らしい、と現地民とネット民は揃って天を仰ぎ涙を流した。
エキシビションでありながら、フィニッシュポーズをスタンディングオベーションで迎えられた鴗鳥は、リンクの端々に落ちていたアヒルを観客席に放り投げ、会場をさらに賑わせる。間違いなく会場にいる全員を笑顔にした彼は、最後に華麗に一礼し、氷の上を去った。
「慎一郎さん、お疲れ様です!」
「司くん。ありがとうございます」
タオルを持って駆け寄ってきた後輩に、鴗鳥は頬を緩めた。コーチやスタッフの手を借りて籠を下すと、司に礼を言ってタオルを受け取る。
「さすが慎一郎さん!今回も素晴らしかったです!衣装はもちろん、ステップも振付も最高でした。普段とのギャップ萌えで、また新規ファンが増えちゃいますね!ちなみにあのアヒル、今回も売切れ続出だそうですよ」
「はは、その一部を私が買い占めてしまっているせいですかね。妻も息子も気に入っているので、今日使った中からいくつか持ち帰ろうと思います」
フィギュアスケートに限らないが、厳格なルールが敷かれる競技で、かつ誇り高い選手が命を燃やして戦う姿に触れることで、必然的に界隈は民度の高いファンが多くなる。たとえ1万円を超える価格の席であっても、選手たちの勇姿を現地で見届けようと、砂粒のような確率を見事に勝ち取った猛者が集まる。
そのため、鴗鳥が投げ入れるアヒルに観客は目を輝かせ、しかし奪い合うことも衝突することもなく至って平和に、その手を伸ばすのだ。言うまでもないが、エキシビションの度に譲渡されていくアヒルたちは、その希少価値や界隈の異常ともいえる熱のおかげで、これまで一つも転売サイトに載ったことはない。
「慎一郎さんがエキシビで一緒に滑ったアヒル…!俺もゲットしたかった…!」
「気に入ったなら、司くんにも差し上げますよ」
「お気遣いありがとうございます!でもいいんです!慎一郎さんが手ずから投げてくれたアヒル、それも現役最後のものを自分で掴み取りたかっただけなので!」
「そ、そうですか…。この辺りは機材も人も多く危険だったので、残念です」
「そんな、慎一郎さんは何も悪くありませんよ!」
「ありがとうございます。そうですね…では、引退後のアイスショーで、司くんにも届くように投げますね」
「え、うわ、ありがとうございます!絶対見に行きます!抽選に勝てるよう頑張ります!」
「? 司くんには日頃からお世話になっていますし、ちゃんと関係者席をご用意しますよ」
「え、俺が関係者席に座っていいんですか?」
「もちろんですよ?」
関係者とは、と宇宙を背負った司に、ことりと首を傾げる鴗鳥。本大会の金メダリストと銀メダリストの微笑ましいやり取りに、周囲のスタッフやカメラマンは相好を崩した。
「ところで、司くんの出番までまだ時間はありますが、もうアップを終えたんですか」
司の体に視線を落とした鴗鳥が尋ねる。これから数人の選手が滑走した後、男子シングル一位の司が大トリを飾る。本日のエキシビションのために誂えられた衣装は、普段の彼が身につけるものとは大きく印象が異なる。鍛え上げられた瘦身を、鈍く光る深紅の布が包み込んでいる。スパンコールがちりばめられた生地はふわりと空気を孕み、柳腰には繊細なレースが一周巡っている。胸元と肩回りを大胆に開いた意匠は、一見すると女性のドレスを彷彿とさせる。
「はい。慎一郎さんのプロは絶対にリンクサイドで見たかったので、先に純さんと最終確認をしてきました」
「それで、純くんはどちらに?」
「確か、関係者席の後方に…。あぁ、今は壁際にいますね」
氷上に照明を絞られた暗い会場の中から、司は迷いなく師を探し出す。関係者以外立入禁止と書かれた張り紙とロープで区切られた一角、その最奥に位置する壁に背を預ける夜鷹を見つけ、目尻を下げた。
「珍しいですね…。試合でもエキシビションでも、彼はいつもリンクサイドにいるのに」
「…今回は、少しでいいから純さんと離れる時間がほしいと、俺から頼んだんです」
信じがたい言葉が耳に届き、鴗鳥は思わず司に振り向いた。成長期にぐんぐん背が伸びて、今では自分と同じ高さに肩を並べる彼は、どこか頼りない笑みを浮かべている。
わずかな点数差で競い合う試合と違って、自由な演技を披露できるエキシビションでは、コーチが選手に立ち会わないこともある。他の教え子をサポートするため、コーチが選手に深く干渉せず試合以外を一任しているため、急用ができたため、と事情は様々だ。
しかし、司の求めに応じて試合前は必ずそばにいてくれる夜鷹に対して、このエキシビションでは自ら距離を取ったという。見ると、いつも太陽のように輝く榛色の瞳に、押し隠した寂しさが滲んでいる。鴗鳥の無言の問いを感じ取ったのか、司はへらりと苦笑いした。
「シーズン中ですけど、今回だけエキシビのプロを変えまして。役を演じるうえで、どうしても必要だったんです」
「リハで少し見させてもらって、とても驚きましたが…。よろしいんですか」
いったい何がいいのか、なんて言葉にせずとも伝わるだろう。全幅の信頼を寄せる師が近くにいない現状は、おそらく彼が選手となってから初めての事態だ。いくら役作りのためとはいえ、演技や心身に支障が出やしないか、と鴗鳥は半ば不安になる。
「……本音を言えば、少し寂しいです。でも、たとえ俺が俺を信じられなくても、純さんは俺を信じて、見てくれています。だから、大丈夫です」
場内に次の選手の登場を告げるアナウンスが響き、司はリンクに目を向ける。固く冷たい氷の上に、一筋の光が落とされる。あと少しで、自分はあの光の中に身を投じるのだ。
彼の目に映っていたい。
その思いは、衝撃の出会いを果たしたあの日から絶えず燻り、司の原動力となって突き動かしてくれる。ただ、今日の演技では役に合わせて、それに手を加えて利用する。
胸に手を当てて深呼吸を一つすると、会場を埋める声援に紛れて呟きを落とした。
「俺を、見ていてください」
「ねぇ、ツカサ!突然だけど、オリンピックで滑るエキシビ変えてもいい?」
話は数か月前まで遡る。ようやく残暑の足跡が消え去った秋口。深夜のリンクを貸し切って練習していた司は、レオニードの言葉にあんぐりと口を開けた。
SP・FS・EXエキシビションの構成は、選手の司、コーチの夜鷹、そして振付師のレオニードの三人で、シーズンオフの夏の間に決めている。ジャンプやスピンといった技術面や、物語の表現力や音楽との融和性といった芸術面を加味して、司の持ち得るカードを並べてよりよい戦略を組み立てていく。
選手は試合に勝つべくSPやFSの練習に多くの時間を充てるが、大きな大会では上位入賞者にエキシビションへの出場が求められる。その栄誉と誇りある出演に向けて、エキシビションもある程度の練習を重ねるのだ。演技に行き詰まった時の気分転換になるうえ、アイスショーの出演にも繋がり、現在や引退後の生活の一助となる側面がある。また、エキシビションはジャッジも見に来るため、普段と全く異なるプログラムを滑って観客やジャッジの反応を確かめたり、ジャッジに”自分はこんなこともできるのだ”とアピールしたりする場でもある。逆に、エキシビションだろうとジャッジの前で気が抜けないと零す選手もいたそうだが。
大抵は一シーズンに一つ作るのが定石だが、頻繁に上位に名を連ねる有力選手の中には複数作る者もいるそうだ。
なお、夜鷹はエキシビションが好きではないため、現役時代はルールに抵触しない範囲で、試合と全く同じプログラムを滑っていた。それ故、司がエキシビションの練習や披露をする度に複雑な気持ちで眺めている。
SPとFSの振付を確認し、リンクの壁際で水分補給していた司は、レオニードから嬉々として放たれた言葉に固まった。数秒の停止の後、はっとして意識を取り戻すと、リンクの方へぎこちなく首を回す。予想に違わず、視線の先には、振付師の楽しげな発言に足を止めて顔をしかめる師がいた。離れた位置でもひしひしと感じる圧に司は冷や汗を流しつつ、ひとまずレオニードに向き直る。
「えっと…今から変えるんですか?じきに大会ラッシュだし、リスク高すぎると思いますけど」
「大丈夫!ツカサは覚えるの早いし、筋もいいから、すぐに体に馴染むよ」
「えぇ…。そもそも、なぜオリンピックで変えるんです?」
「四年に一度の大舞台で、晴れて金メダルを獲った君が、それまで滑っていたプロと全然違うものを滑ったらワクワクするだろう!世界中に配信されて、ネットにも映像が残る。世界に君を印象付けるのにもってこいだ」
「は、はぁ…」
司は頬を引きつらせるしかない。今の段階で金メダルはもう確定事項なんだ。まあ、誰にも譲る気はないけれど。
出場する全ての大会で金メダルを手にすること。聞けば誰もが無謀だと答える目標だが、司は本格的にスケートを習い始めた三年前から、師の言いつけどおり死守している。それは、次に開催されるオリンピックに最速最短で出場するための手段であると同時に、夜鷹が司の才能をもってすれば成し遂げられると見込んだ故の指示でもある。
初めて一人きりでリンクで滑った時、夜鷹は司のオリンピック出場を当然のように口にしたし、立ち会った鴗鳥は戦うのが楽しみだと本心を述べた。素人の自分が見せた拙い演技に、彼らがいったい何を見出したのかはわからない。しかし、憧れの人に見守られながら、焦がれてやまない氷の上に立てるという幸福を死に物狂いで守り続けた結果、司の棚には金色のメダルしか並んでいない。
「プロの変更はリスクだけじゃないさ。普段は手を出さない世界に触れて演技力や表現力をさらに磨けるし、ジャッジや観客に君の別の顔を見せるチャンスだ。チャレンジする価値は十分あるよ」
「それはわかりますが、俺にできるかどうか…」
苦笑いのまま、ちらりと師を窺う。夜鷹は眉を寄せたまま無言でこちらを見ていたが、やがてふいと顔を逸らして滑り出した。
「本番に影響出さないでね」
「もちろん!ツカサなら余裕だよ」
元々エキシビションに興味がない夜鷹だが、シーズン中のプロ変更というリスクの高い選択に、あえて許可を出した。言葉足らずでそっけない師が垣間見せた、唯一の教え子へ向ける無言の信頼に、レオニードは込み上げる笑みを隠すため口元を手で覆う。
これだから彼らとの仕事はやめられない。
「な、なんだか流れでやることになりましたけど、どんなプロにするんです?」
「ツカサのプロは重厚なテーマや陰のあるストーリーが多いから、思い切って恋の物語にしようかな」
「はっ?こ、恋ですか!?」
驚きのあまり素っ頓狂な声を出す司に、レオニードは肩を揺らす。三年前に夜鷹を通じて出会った頃から、彼は色恋から程遠い日々を過ごしている。身も心もスケートに捧げる彼は、氷と、夜鷹純でできている。強欲にも、その両方を誰にも奪われないよう守る方法は、用意された氷の上で才能を証明し続けることだった。だから司は、スケートに関わる多くの人やものと出会いながら、スケートに関わりないことには見向きもしない。
貴重な思春期を惜しみなく費やして眼前の至福にありつく司だが、レオニードの問いかけに対して、まろみのとれた頬を鮮やかに染めた。年相応な反応にレオニードは笑みを深める。
ほら、また一つ、君の新しい顔を知れた。
「初恋はいつ?ガールフレンドは?」
「か、彼女はいません。初恋は小さい頃ですけど、今思えば、好きとかそういう気持ちは随分淡いもので…。14歳でスケートに出会ってからは、全く」
不躾な質問にも律儀に答える司は、照れくさそうに俯いていたが、ふと顔を上げて視線を投げた。その先を辿れば、当然のように夜鷹がいる。二人の会話が届かない距離で、息をするように伸び伸びと滑る様に、どうしたって惹きつけられてしまうのだろう。
「ワオ。ツカサは一途なんだね!あまりに熱烈で、僕まで火傷しちゃいそうだ」
「え、あっ、もちろん恋愛感情じゃないですよ!憧れとか尊敬とか、一生かけても返し切れない恩があるので、感謝も」
慌てて両手を振って否定する司に、ますます面白くなってきた、とレオニードは含み笑いをする。
この恋の味も知らぬ慎ましい蕾が、一夜限りの大輪の花を咲かせたなら。想像するだけでぞくぞくする。清廉潔白な青年が蜜のように溢れさせる色香で、見る者はみな彼の虜になり、その徒花を我が物にせんと欲するだろう。
ほくそ笑む魔術師は、懐からスマートフォンを取り出した。三年前からレオニードと組み、鴗鳥家に食事やお泊りに度々招かれる司は、今では通訳アプリがなくとも意思疎通ができるほど英会話が上達した。難しい単語を耳にしたら自身で調べ、時には身振り手振りでやり取りするので、練習に大した支障はない。
だが、これから紡ぐのは魔法の呪文。対象に正しく魔法をかけるには、齟齬なく伝えなければならない。純朴な青年には馴染みのない言葉も含まれるので、通訳の助けが必要になる。不思議そうな顔の司に声をかけ、いまだリンクで華麗に舞う夜鷹に目を向けるよう促す。
「ツカサ。ジュンを見ていて」
こくりと頷く司に、レオニードはパチリと指を鳴らす。普段はめったに使わない、魔法をかける合図だ。
彼は地頭がいいため、飲み込みが早く、集中力も高い。何より、その身に秘める恐ろしいほどの執念から、短時間で目覚ましい成果を出せる。多くの場合は、凝った工夫などなくとも、夜鷹の実演やレオニードの指示を受け、自力で完成度を高めていく。
たまに、彼が難解な役を捉えきれず躓いた時、少しばかり手助けしてやるだけだ。その際、深く集中して役を憑依させるための合図として、魔術師は指を鳴らす。
「――君は街一番の高級娼婦。君の色香に惑わされて、たくさんの男が群がってくる。金持ち、貴族、優男。金も地位も名誉も得た彼らは、みんな君に首ったけだ。けれど、どんな男が来たって、君の思いのまま。彼らはわかっていながら、君の手のひらの上で転がる悦に浸っているのさ」
榛色の瞳に少しずつ影が差す。強い意志を秘めた光は鳴りを潜め、風に撫でられた水面のようにゆらゆらと揺れる。魔術師の唱える呪文を素直に聞いて、彼は彼ではない者になり始めている。いい調子だ。
「ある日、君は街で男に出会う。セクシーで、ミステリアスで、どこか闇を纏う男だ。初めて見る、よそからこの街に訪れたであろう彼に、君の瞳はくぎ付けになる」
レオニードの誘導に影響され、司の呼吸が徐々に浅くなっていく。目の前に餌を置かれた獣のように、瞬く間に理性が本能に侵食されているのだろう。
あと一歩踏み出せば、その深淵を覗き込める。
さらに深く役へ潜らせてやろう。いっそ、彼の深層に眠る、得体の知れない何かを揺り起こしてしまうくらい。
「さあ、よく見て。――彼がほしいだろう?」
「…ぁ…!ッは、はぁッ…!ほ、ほしい、です…!」
司はたまらず胸を押さえる。息が苦しくなるほどの強い情念が奥底から湧き出てくる。それでも決して視線は外さない。滲む視界に苛立ちつつ、もっと近くで見たい、近くにいたいと叫ぶ足を留めるので精一杯だ。
悠々と滑っていた夜鷹が司の異変を察知したのか、急に方向転換してこちらに向かってきた。氷の欠片を散らして立ち止まると、涙を溜めて苦しげに喘ぐ青年に眉をひそめ、背後の男を睨みつける。
だが、夜鷹の鋭い眼光に慣れているレオニードは、肩をすくめてほくそ笑むだけ。傍らの青年に向ける瞳は、上出来だ、と言わんばかりに細められている。
「ほら、彼が迎えに来てくれたよ。手を伸ばせばすぐだ」
「…ぅ、あぁ…」
悪魔の囁きに導かれて、司はゆらりと腕を上げる。彼の意識は深く沈み、役を写し取った仮初の意思が、浅瀬を不安定に揺蕩う。夜鷹を映す瞳は仄暗い欲で塗り潰されている。躊躇いながら、しかし本能に突き動かされて、獲物を手に入れんと手を伸ばす。
すると、夜鷹が応じるように手を伸ばした。予想外の動きにレオニードは眉を跳ね上げる。
見ているこちらが焦れったくなるほど、ゆっくりと近づいていく指先。
あと少しで触れて、官能的に絡み合う――ことはなかった。
「ぃたッ!?」
司の手を素通りした指先が、彼の額を強く突いたからだ。悲鳴を上げた司は、押された勢いに負けて天井を仰ぐ。レオニードは驚き、盛大にため息をついた。仰け反ってたたらを踏んだ司は、今度は痛みで涙を滲ませながら額を擦る。
「ちょ、もう…!純さん、ひどくないですか?」
「ぼうっとしてる君が悪い」
「役になり切ってたんです!」
憤慨する教え子と悪びれもしない師に、傍らの魔術時は肩を落とす。
せっかく深く潜らせていたのに、ショックで正気に戻ってしまった。
急いで飛んできた夜鷹は、司ではない何者かを見せつけられ、拗ねて咄嗟に手を上げてしまったのだろう。子どもじみた横暴な振舞いに呆れるしかない。だが、そんな憎み切れないところも、彼の魅力の一つなのだろう。
「ジュンは乱暴だなぁ。心配しなくても、ツカサはちゃんと君のところに還ってくるよ」
司はレオニードの発言の意図を拾えず、きょとりと首を傾げる。一方、きちんと意味を把握した夜鷹は眉間の皺を深めると、踵を返してリンクの中央へ戻っていった。遠ざかる黒い背中に、逃げられちゃった、とレオニードはたまらず吹き出す。一人状況を掴めない司は、夜鷹とレオニードを交互に見比べ、疑問符を浮かべるばかりだった。
垂直に下りた光を浴びて、煌びやかな衣装が乱反射する。リンクの中央に佇む司は深呼吸を繰り返すと、ポーズをとって開演を告げる。弦楽器が奏でるクラシックなメロディに乗って、ゆったりと滑り出した。
楽曲は演劇『One and only』の劇中歌を繋ぎ合わせたメドレーだ。物語の舞台は近代ヨーロッパ。優れた商才を持つ主人公の男が、存分に辣腕を振るい、貴族の端くれという生まれも利用して栄光を築き上げる。金も地位も名誉もほしいままにする彼は、しかし本心を晒せる相手がおらず、心に開いた大きな穴は隙間風が止まない。仕事で訪れた街をぶらつくうちに、一人の美女に目を留める。
彼女は、客が退屈な世間話の中で零していた、街一番と名高い娼婦だった。若い身空で高級娼館の看板を務め、凡人ではおいそれと手を出せない高嶺の花。どれだけ誠実な男であっても容易く陥落させるという噂も聞く。学を修め、芸を磨き、巧みに人の心を掴んで離さない話術と振舞いが、彼女の地位を盤石なものにしているそうだ。
彼女も男に気づいたが、すぐに興味が失せたように優雅に立ち去る。深紅のドレスの裾を風に遊ばせて颯爽と歩く美女に、男は一目で撃ち抜かれ、やがて彼女の心を射止めんと躍起になるという物語だ。
妖艶な光を放つ瞳に、不敵な笑み。男を手玉に取る美女の魂をその身に宿した司は、優雅な足取りで氷上を舞う。
これまで彼は、足を肩幅に開いて長身を支え、ダイナミックな振りや直線の動きを強調した、男性ならではの強みを活かした演技を披露していた。しかし、今夜の彼は打って変わって、体に角度や捻りをもたせることで、華奢で繊細な女性を彷彿とさせる。初めて目にする彼の演技に、観客は息も忘れて見入ってしまう。
街中を歩くうち、男も女も関係なく、一人残らず誰もが彼女に振り向く。笑みは絶やさず、涼やかな瞳で一人一人を見定めていく。あの人はこの前来た客だから、寂しいわ、と粉をかけるのを忘れない。この人はケチで、最近商売が下火になっているようだから、じきに来なくなるわね。向こうの人は、同業の館で小火を起こした問題外だから、相手にしなくていい。
耳障りのいい賞賛も、媚び諂うような世辞も聞き流す。どれだけ愛の言葉を重ねても、彼女には届かない。夜を舞う蝶は、戯れに花に留まり羽を休めると、またすぐに飛び立っていく。
普段の明るく活気に満ちた彼からは想像もつかないほど、蠱惑的で艶やかな表情を浮かべている。成熟する前の青年が有する若さと、無遠慮に放たれる濃厚な色香は非常にアンバランスで、その背徳感にぞくりとする。軽やかな舞でステップを踏み、採点がない演技にもかかわらず、氷上には正確な軌跡が刻まれていく。
得意げに街を闊歩していた美女は、ふいに足を止める。運命の人と出会ってしまったからだ。
一度も見たことがない色男。向こうもこちらを見ている。きれいな身なり。洗練された所作。そして何より、自信に満ちた強気な瞳に、彼女は目を奪われた。けれど、自分は夜の街の頂点といっても過言ではない娼婦。どこの誰かもわからない男に、自ら売りに行くほど安くはない。自身の立場とプライドから、彼女は気のない振りをしてその場を立ち去る。躊躇いがちに伏せた眼差しは寂しそうで、観客はぐっと胸を押さえた。
その出会いは功を奏さず終結したかに思われた。だが、二人の予想に反して、それは互いの縁を深く結びつける。
次の日も、また次の日も、街ですれ違う二人。同じ時間、同じ場所で、狙い定めたような邂逅が続き、いよいよ二人は衝動を無視できなくなる。視線が絡み合った瞬間、ついに男は美女に笑いかけたのだ。
ぴたりと足を止めた司。顔を上げた彼は、焼け付くような熱い視線を彼方へ送る。
どれだけ離れていても、あの人は俺を見守ってくれる。たとえ底なしの暗闇にあっても、夜空の一等星のようにその瞳が輝くから、いつだって見つけられるのだ。
スポットライトを浴びてリンクに立つ自分と、関係者席の壁際に佇む夜鷹。暗く広い会場の中、交わるはずのない視線が、ばちりと火花を起こす。身を焦がす熱に唇を結んで耐えていると、金色の満月がゆるりと欠けて細くなった。
――笑った。彼が私に、笑いかけてくれた!
有頂天になった美女は文字通り舞い上がった。浮足立ち、不安定な氷上を物ともせず自由に駆け回る。恍惚とした表情は、初恋にわななく少女のような可憐さと、欲を知り尽くした娼婦の淫靡さが混じり合い、見る者が紅潮して戸惑うほどに倒錯的だ。欲から程遠い、真面目で清らかな印象の青年が、頬を染めて踊っているのだからなおさらだ。
やがて二人は手を取り合い、夜の街へと消えていく。後に互いの身分や立場が壁となって立ちはだかり、恋を得て愛を知った二人は、自由を求めて街を飛び出す。その旅路が茨の道だとしても、比翼連理の契りを結んだ二人は寄り添い支え合う。
物語の開幕を告げたリンクの中央で、司は彼方に手を伸ばす姿で締め括り、幕を下ろした。
痛いほどの静寂の後、怒号のような歓声と万雷の拍手が轟いた。耳をつんざく黄色い声が、感極まってぐしゃぐしゃに濡れた涙声が、よくやったと褒め称える野太い声が、豪雨となってリンクに降り注ぐ。
役を演じ切った司はすでに素の表情に戻っており、晴れ晴れとした笑みで両腕を広げ、それらを余すことなく受け入れる。
同じく会場に足を運んでいたレオニードは、悪戯が成功した子どものように笑っていた。
現地で見惚れた者も、画面越しに魅入られた者も、こぞって司を誉めそやし、その魅力を存分に語り合う。
一夜限りの満開の花は、新たな明浦路司を世界に刻みつけたのだ。
「傾国の美女、なんて呼ばれたらどうしようね」
冗談交じりの独り言は、歓声にかき消されて誰の耳にも届かない。
しかし、魔術師のそれが予言と化して、トレンドの頂点に居座った言葉に司が泡を吹き卒倒するのは、宴が終わって数時間後のことだった。