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その日の朝は集会で、体育館に集まった全校生徒は体操座りの継続による痛みに耐えながら、意味のない長い退屈の連続に内心イライラしていた。
「えーーでは続いて表彰授与にうつります。」
まだ続けるつもりなのか……!
校長先生の挨拶という名の世間話に、やたらと細かい生活指導……既に疲弊したこちらのことなどお構いなしの様子には一周回って笑いが込み上げてくるほどだ。
登壇の指示に伴って背丈がバラバラの生徒たちがゾロゾロと壇上に上がると、名前を呼ばれた順に一人ずつ絵だのスポーツだのよくわからない成績を評されては列に戻っていく。
〇〇大会優勝、佳作、何位入選、以下同文です……素人目にもすごいとわかるものからパッとしないものまで、その言葉は多岐に渡った。
受賞者が賞状を受け取ると同時に拍手をしながら待つこと数分。
全員がそれを小脇に抱えたところで退場を促されると、集会の進行を握る教師の口からはまたしても続行の旨が無情にも伝えられた。
「えー次は委員会発表に移ります。体育委員会さん、お願いします。」
今度こそ盛大なため息をつきそうになった大野だったが、声に続いてバタバタと忙しく動き始める舞台におや、と目を見開いた。
坦々とした退屈が繰り返されると思った矢先、さっきまでは校長先生が使っていたマイクののった机があっという間に舞台袖へと片づけられると、広くなった舞台の端には代わりに何やら四角く黒い機械のようなものが置かれる。
あれは一体何だろうか。
人の合間から微かに見えるそれに目を細めていた大野だったが、何やら電源をつけて設定を終えたらしく「3:00」と表示された赤いデジタル数字を見るに、それが体育の授業で数回ほど使った大型のタイマーであることに気がついた。
「あー、あー、みなさんおはようございます。 体育委員長の種田です。」
「副委員長の佐藤でーー」
先ほどまでの事務的な進行とは違い、この二人の声はなんというか……抑揚の激しいものだった。
慣れないマイク越しの発表だから緊張しているのもあるのだろう。
二人目の紹介が終わる直前にグワングワンと増幅された音の響きに耐えかねて一時マイクが切られると、それまで無関心だった生徒たちの目線は明らかに彼らの方へと向けられているのがわかった。
「す、すみません。えー、今から体育委員会の発表を始めます。皆さんは5月27日に何があるかを知っていますか?」
27日……?
大野はなんとなく答えに予想がつくものの、まともに考えを巡らせる間も無く「そうです!」と勢いのいい委員長の声に発表は再開された。
「運動会です!一年生の方は初めてだと思いますが、今月の27日の土曜日には運動会があります。」
やっぱりそうだ。
大野はその声に去年初めて参加することとなったこちらの運動会を思い出した。
あの日は確か一日中曇っていたはずだ……。
仕組みとしては単純で、全学年、全クラスが赤組と白組の二つに分かれてーー大野たちは赤組だったーー学年ごとに一つの出し物と得点を争う競技を行う。
出し物は歌に合わせた踊りや組体操などが主流なのだが、学年全体での各競技の成績に応じてもらえるポイントの合計で赤組と白組の勝敗を競うのだ。
正直なところ、去年は四年生だったということもあって参加できる競技の数がまだ少なく、一度自分の学年の出番が終わってしまえば極一部の迫力ある出し物を楽しみにダラダラと閉会式を待つだけの退屈な時間を過ごしたのをよく覚えている。
「例年は高学年以外の競技が一つずつだったため、退屈だったという感じた人も多かったでしょう……。しかし!今年は体育委員会主催で全クラス対抗の大縄大会を行いたいと思います!今からそのルール説明を始めます!!」
それでは皆さん舞台の方をご覧ください……副委員長の声に大野たちが目を向けると、舞台脇からゼッケンをつけた体育委員会の人たちがゾロゾロと出てきては、手際よく三つに分かれて集まるとその場に座った。
「本番は各クラス三種類の跳び方から二種類を選んで跳んでもらいます。測定は一つの跳び方につき一回ずつ合計二回行い、それぞれ三分間に跳べた回数によってポイントがもらえます。二回分のポイントの合計が多いクラスが勝ちですが、跳び方によってポイントの計算方法が違うので注意してください。では、まずは一つ目の跳び方について説明します。」
その声で大野から見て一番左端に座っていたグループが立ち上がると、縄が床をうつ小気味いい音ともに一人ずつ縄に入って跳ぶタイミングに合わせて「1」「2」「3」とカウントが聞こえてくる。
「一つ目の跳び方は『八の字跳び』です。これは三分間に跳べた回数がそのまま得点になります。もし引っかかってしまった場合はその人の直前の回数から数え始めます。」
舞台の方へと手を伸ばしてみせる副委員長に合わせて、連続していたカウントが中断された。
引っかかって見せた誰かは縄を抜けて跳び終わった人の列に加わると、再び回り始めた縄に次の人が入るとともにその数からカウントが再開される。
「二つ目の飛び方は『全員跳び』です。全員跳びはクラス全員が二列に並んで跳び、三分間に跳べた合計の回数を二倍した数字が得点に入ります。こちらも引っかかってしまった場合はその回数からのカウントとなります。」
先程まで跳んでいた左側の人たちに代わり中央に並んだ人たちが立ち上がると、素早く並んでカウントが始められる。
八の字跳びよりも多く跳ぶのは難しそうだが、二倍の得点は魅力的だ。
説明の終わりと同時にこちらも引っかかって再び数え始める様を見せると、舞台上は説明の再会をもって右端に並んだ人たちと交代する。
「三つ目の飛び方は『ダブルタッチ』です。これは二本の縄を交互に回し、入った人は縄の中で三回跳んで次の人に交代します。これも全員で跳べた回数を二倍した数字が得点になりますが、引っかかってしまった場合はその人が跳んだ回数は無効になり、その前に跳んだ人の数字からのカウントになるので注意が必要です。」
一人につき三回跳ぶからその人が何回目で引っかかってもカウントはゼロになるのか……。
つまり引っかかった人が正しく跳べていた場合のカウントが「4」「5」「6」だったとすると、 引っかかったのが「4」「5」「6」のどれであっても得点となるカウントは無条件にその人が跳ぶ直前の「3」まで巻き戻るということだ。
大野自身についてはほとんど心配していなかったが、 まともな得点を得ようと思った場合には全員にそれなりのリズム感と正確性が求められることだろう。
例に漏れず引っかかってカウントを再開する様を見せる彼らだが、しかしこれは上手く跳ぶことができれば他のクラスとは相当の差をつけることができるのではないだろうか。
では実際に三分間跳んでみて得点を計算してみましょう……委員長の声に合わせて三組すべてが立ち上がると、タイマーの開始音とともに一斉に縄が回り始める。
「これで体育委員会からの発表は終わりです。昼休みと放課後は体育委員会が大縄を貸し出しますので、練習したいクラスは休み時間が始まってから10分以内に運動場の体育倉庫の前に来てください!」
跳び方ごとの得点の集計と開示を終えた締めくくりに委員長がそう添えると、発表を終えた体育委員会への拍手が飛び交う。
こうして全体を見比べると、難易度の高さを強調されていたダブルタッチはそれだけに他よりも一段と高い得点を叩き出しているのは明らかだった。
……これは絶対に負けられない。
徐々に静かになる体育館でその決意はより確かなものになるのを感じていた。
「なぁ折原!」
その日のある休み時間、大野は離れた席に座る折原のもとに行くと机に向かって何かを書いていた折原は顔を上げて言った。
「あぁ、どうした?大野」
「今朝の集会のことなんだけどさ……」
「集会……?」
不意に目に入った机の上に置かれた見慣れないプリントの束に「何それ?」と大野が尋ねると「塾の課題」と折原は言った。
去年の今頃は休み時間といえば校庭での外遊びが主流だったはずだが、ここ最近の彼はこうして一人で机に向かっていることがずいぶんと増えた気がする。
根をつめる彼に折を見て遊びに誘う大野だったが「今日はちょっとやりたいことがあって」と断られてはその参加率は次第に低くなるばかりだった。
“悪いな。せっかく誘ってくれたのに”
“気にするなよ。それより、また遊びたくなったらいつでも言えよな!”
話しかければ普通に答えてくれるし、皆と遊ぶのが嫌になったというわけでもないように見えるため少々疑問を残してはいるが、そんなこんなで大野の休み時間の過ごし方は教室でのトレーディングカードバトル大会や、運動場での鬼ごっこが主流になりつつあった。
「へぇー。その問題なんかすごい難しそうだな。」
「まあな……。それより集会がなんだって?」
その声に大野はハッとすると「大縄のやつだよ!」と口を開いた。
「運動会でやるクラス対抗の大縄大会!あれ昼休みとかに練習していいって体育委員が言ってたじゃん?」
「そういえばそんなこと言ってたなぁ。」
「言ってたはずだぜ。それでさ、俺たちのクラスも昼休みとか全員で練習しようと思うんだけど、どう思う?」
「いいなぁ!それ」
パッと表情が明るくなった折原に大野は「だろ!」と続ける。
「せっかくやるんだし、どうせならどんなクラスにも負けないくらいすごい記録を目指したいなって思ってよ!」
「あぁ!まだ休み時間あるし、せっかくだから体育委員に聞いてみるか!」
でも放課後は塾行かないといけないから困るんだよな……と考えこむ折原に「まずは昼休みだけでもいいんじゃないか?」と大野が言うと「それもそうだな」と彼は笑った。
「え、大縄の練習?」
大野と折原の質問に体育委員の佐藤は少し驚いたように聞き返した。
「うん、縄の貸し出しは今日からでもできるけど……」
そうこなくては。
ガッツポーズをする大野をよそに「でもちょっと早すぎない?」と佐藤が尋ねると「こういうのは早ければ早いほど上達も早いんだよ」と折原が答えた。
「うーん。練習については大丈夫だと思うけど、一応どの跳び方を練習するかについて決めた方がいいと思うな。」
「たしかに……。まずは一通り練習してみるって手もあるけど、やっぱり皆の意見も聞いた方がいいよなぁ。」
「じゃあ今日から練習するのは無理かぁ……。あ、相澤先生!」
考え込む三人のそばを通りがかった担任の彼は「ん?」とこちらに気がつくと、これまでの経緯を話す大野たちの話に耳を傾けると少し驚いたように笑った。
「じゃあ今日の総合の時間を使って話し合ってみようか。それにしても今のうちから考えるのはいい心がけだな!」
一際パッと顔を明るくする大野を見た相澤はわずかに目を細めると、鳴り出したチャイムの音でこの会話は終わることとなった。
「……はい。では多数決の結果、跳び方は『決めるのを一度保留にして本番までに改めて決める』、練習は『とりあえず色々な跳び方を練習してみる』に決定します。」
公平を期した学級委員の声に異論が飛び交うことはない。
六時間目の総合の時間にて行われた話し合いは佐藤たち体育委員によるルールの確認から始まり、色々な提案があったものの最終的には週に二回、昼休みにクラス全員で順番に全ての跳び方を練習することとなった。
「4、5、6、よし!今だ……今……よし、7、8ーー!」
ある昼休みの練習にて、そう叫ぶ大野の声は勢いを失った二本の縄を見て瞬く間にトーンダウンしていく。
「うーん、もう少しで跳べそうなのにな……。」
惜しくも引っかかった男子を横目に大野は唇を噛む。
これでもだいぶ良くなってきた方だというのは自分でもわかっていた。
最初は跳ぶ回数以前に縄に入るのだって全然上手くいかなかったのだ。
連続で入れとか絶対に引っかかるなとか、そんな無茶なことを言ってるわけでもない。
跳ぶための順番も、跳ぶタイミングも、練習だってできる限りのことはしている……そのはずなのに、一体なぜ肝心の記録はずっと伸びないのだろう。
「仕方ないよ。君と違って僕たちみんなダブルタッチなんて初めてなんだからさ。」
「悪いけど俺だってお前らと同じだよ。ダブルタッチなんて、ほとんどやったことなんてなかったぜ?」
その言葉で大野は確信した。
上手くできないからって最初から諦めてやる気がないのはお前の方じゃないか。
ごちゃごちゃ言う暇があったらもっと練習したらどうだ……そんな言葉が出かかったものの、ここはグッと堪えて沈黙する。
これ以上険悪になっても仕方がない……ほんの短い時間だって、今は無駄にしている余裕はないのだから。
「そうかよ。けどいくら得点が高いからって、これじゃあダブルタッチを選ぶのは現実的じゃないよ。大人しく八の字跳びと全員跳びを選んでその二つを練習するべきだと思う。」
引っかかった縄から抜け出した男子は抗議するような目で大野を見据えて言った。
こちらが空気を読んで黙っているのをいいことに、不満は形になって次々と飛び交いあたりを一色に支配していく。
既に練習が始まって数週間……自分たちがどの跳び方で本番を迎えるべきか、己の戦い方を決める時は着実に迫っていた。
当初は週二回の昼休みだけだった練習は今やほぼ毎日、日によっては放課後にも集まって練習している……これ以上増やすのは現実的ではないだろう。
できないのは俺のせいか?
上手くいかないのは俺のせいか?
どいつもこいつも人のせいばかりで、偉そうに。
できないなら努力するのは極めて自然なことじゃないか。
むしろ見捨てずにこれだけ親身になっているのを感謝してほしいくらいだーー現に周りを見ればいくらだって、昼も放課後も練習するクラスは学年を問わず目に入るのがその証拠だ。
「八の字跳びの記録なんてこれ以上やってもたかが知れてるだろ……それにやっとここまでできるようになったんだ。大体、もう初めてかどうかなんて、言ってる場合じゃないだろ。」
「ーー!」
「大野」
精一杯感情を押し殺した声に空気が震える。
ピンと張り詰めた沈黙を破ったのは折原だった。
「一度ちゃんと、みんなで考えよう。俺はお前の気持ちもわかるけどよ……頑張ってきたのはみんな同じわけだし。ーーだけど正直、俺はあいつの言い分も一理あると思う。」
「……。」
ギスギスしたまま再開した練習は結局上手くいかなくて、記録は向上することなくその日も解散することになった。
たぶんこれ以上何をしたって、もう優勝を目指すのは無理だろう……そんな大野の予感は確かな形をもって的中することとなる。
後日改めて開かれた話し合いでダブルタッチが大差をつけて敗北すると、以降の練習は八の字跳びと全員跳びに集中する旨が無情にもに体育委員の手によってかかげられた。
「はい!五年生の全てのクラスの得点計算が終了しました。それでは、今から結果を発表します!!」
マイクを持った体育委員の声と共に、付近のクラスから歓声があがる。
ーー大野たち二組は三位だった。
全五クラスということを考えれば決して悪い順位ではないはずだ。
可もなく不可もなく、接戦の結果惜しくも上位陣に敗れたと考えることだってできる。
「三位だって、大野!」
「あぁ……そうだな。」
折原の声との落差に、気を遣っている余裕なんてなかった。
あんな怠けた練習で満足していた俺たちには当然の結果だ……それなのに、そんな結果さえ皆は簡単に満足できるというのか?
一際大きな賞状を受け取る誰かを前に、素直に讃えることなんてできなかった。
上手くやれば今頃あそこにいたのは俺たちの方だったかもしれないのに。
皆が尊敬や感嘆の意を見せる中で、その姿は一際異質に映るばかりである。
甘んじて拍手を送る同胞たちとの溝は深く、大野にはそれはまるで国境を分ける大河のようにさえ感じられた。
「ねぇ、もう少し勉強したらどうなの?ケンちゃん。」
「大丈夫。帰ってきたらちゃんとやるよ、母さん!」
廊下へと繋がる扉の前まで歩いてきたけんいちは心配そうな声の母親にそう言うとドアノブに手をかける。
運動会から約一ヶ月、けんいちはここ数日個人懇談に伴う午前授業を良いことに、帰ってきてから夕方近くまで友達と公園や空き地を渡り歩いては遊ぶ日々を繰り返していた。
「今日もまた遊びに行くの?そろそろちゃんと勉強ーー」
「うちのクラスは頭いいやつが多いからさ、ちょっと点が低くても目立ってみえるんだよ。それに遅刻したり宿題も出さないやつに比べたら、俺なんて全然平気だって。」
「でも先生にも言われたじゃない……前よりも学力が落ちてきてるって。」
今朝もまた例外なく、ランドセルを背負い靴紐を結ぶけんいちの背後で母親はそれでも念を押すように言葉を続ける。
数日前に学校で二人きりで先生と話してから、母さんはずっとこんな調子だった。
「清水にいた時の方がケンちゃん、今よりずっと勉強頑張っていたと思うわ」
「それはそうかもだけど……高学年の勉強はずっと難しいんだよ。それじゃ、行ってきます!」
「ちょっと、ケンちゃん!」
呼び止める母さんを振り切ってけんいちが扉を開くと、夏の日差しとセミが鳴く音が瞬間的に玄関に入ってきて……また届かなくなった。
「まだ話は終わってないのに……。」
ポツリと呟いた母親は静かに目を細めると玄関の鍵に手をかけた。
ガチャリ、と音を立てて閉まるそれにため息をつく。
ご飯を食べているとき、ドラマばかり見ているのを注意した時、勉強していると思ったら寝転がって漫画を読んでいるのを見つけた時……話し合いを試みてはことごとくはぐらかされるばかりだけど、こちらの気持ちははたしてどのぐらい伝わっているのだろうか。
「いいえ……あまり口酸っぱく言っても良くないのかもしれない。でも、やっぱり今のままでは色々難しいのかしら。」
リビングにかかっている時計は午前7時40分を指していた。
まだ小学生なのだから遊べるうちに遊ばせた方がいい……環境への適応を心配した引越し当初に比べれば、これも遥かに理想的な姿じゃないか。
学力には個人差があるし、生活習慣に関しては寝坊も遅刻もしていないのだからそれでよしとするべきなのかもしれない。
「いいえ。それだとあの子のためにならないわ。それに……。」
息子の声が脳裏によぎった母親の目が一層暗く沈む。
進級に伴って勉強が難しくなったのならば、それ相応に勉強時間を増やさなければいけないのは当然ではないだろうか。
直さなければいけないのは勉強への向き合い方だけではなくて、下ばかりを見て安心しているその姿勢ではないのだろうか。
やはり一度、ちゃんと話し合わないといけない……。
優しげに笑う夫の顔を思い出すとギュッと胸の奥が痛むのがわかった。
毎朝早く家を出るけれど、きちんと体は休まっているのだろうか……。
仕事終わりで疲れているだろうし、そんな貴重な時間をさらに拘束するのは気が引けるけれど、今まで通り口を閉ざしていては事態は一向に好転しないだろう。
できれば家のことでは負担をかけたくなかったが、 私たちは三人で家族なのだ……誰か一人でも欠けてしまえば、その先の幸せなんて何の意味ももたない。
これが親のエゴなのか、あの子のために必要なことなのか……それをはっきりさせるためにも一度腹を割って話し合うべきだ。
取り返しのつかないことになって後悔する方が、なぜならずっと恐ろしいのだから。
住宅街を走る大野は曲がり角に立つ友人、折原を見つけると「おはよう!」と声をかけた。
「おはよう、大野!どうした、そんなに息切らして」
「朝から母さんがうるさくてさ……。家出るのが遅くなっちまった。」
遅れてごめん、と謝る大野だが、折原は笑って許してくれた。
親の心子知らずとでもいうように二人の思考は対称的で、互いを知らない時間ばかりが過ぎていく。
感情に正解なんてない……そんなことは誰もがわかっている。
それでもただ一つの真実は徐々に背後へと忍び寄り、確かな亀裂を隠して静かに笑っている。
安堵の表情をうかべる大野はそんな不穏なる未来の影など気にも留めなかった。
今日もまた盲目的に、ただ目の前の和やかな日常が続くことを信じてやまないのだった。