テラーノベル
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ハルキが目を覚ましたとき、視界に入ってきたのは、天井の隅で音もなく蠢く冬の蜘蛛の巣だった。 頭が割れるように痛い。こめかみの奥で、古い機械が軋むような不快な重低音が鳴り響いている。彼は重い体を引きずりながらベッドから這い出した。
「……またか」
喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。 部屋の空気は、彼が眠りについたはずの数時間前とは明らかに異なっていた。窓は一ミリも開いていないはずなのに、鼻腔を突くのは、彼が決して嗜まないはずの安物の煙草の、重く、甘ったるい香りだ。
キッチンへ向かうと、そこには動かぬ証拠が並んでいた。 コーヒーメーカーにはまだ温かみが残る黒い液体が溜まり、灰皿にはパラマウントの吸い殻が一本、不自然なほど垂直に立てられている。ハルキは煙草を吸わない。それどころか、喘息気味の彼はその煙を人一倍嫌っていたはずだった。
彼は恐る恐る、ダイニングテーブルに置かれた自分のスマートフォンを手に取った。 指紋認証を通り、真っ先に確認したのはギャラリーだ。 そこには、彼が記憶していない空白の時間の記録が残されていることが多かったからだ。
「……ひっ」
短い悲鳴が漏れた。 画面に映し出されていたのは、深夜の公園で、満面の笑みを浮かべて自撮りをする自分の姿だった。 しかし、それはハルキであって、ハルキではなかった。 カメラを見つめる瞳は、普段の彼のような内気で理屈っぽい光を失い、代わりに底知れない愉悦と、獲物を狙う獣のような鋭い狂気を宿していた。鏡写しの自分ではない。そこには、彼の肉体を借りて現世を謳歌する何かが確実に存在していた。
ハルキは都内の設計事務所で働く、地味で優秀な建築士だった。 彼の引く図面は、一ミリの狂いもなく正確で、規律正しい。それが彼の誇りであり、不安定な精神を支える唯一の杖だった。しかし、その杖は今、内側から食い破られようとしている。
その日の出勤途中、彼は駅のホームで奇妙な視線を感じた。 向かい側のホームに立つ若い女が、怯えたような、それでいて何かを問いかけるような複雑な表情で彼を見つめていたのだ。ハルキには見覚えがない。しかし、彼女が持っていたバッグに見覚えがあった。昨日、記憶を失う直前に立ち寄ったカフェで隣に座っていた女性だ。
(僕は昨日、彼女に何かしたのか?)
冷や汗が背中を伝う。 事務所に着いても、仕事に集中することなどできなかった。 CADの画面に向かっても、線が歪んで見える。いや、歪んでいるのは画面ではなく、自分の認識の方だ。
「佐藤さん。昨日の修正、すごく……大胆だったね」
上司が背後から声をかけた。その声には、戸惑いが混じっていた。
「え……?」
「いや、いつもの君らしくないというか。あのミニマリズムを追求していた君が、あんなデコラティブで、血が流れるような曲線を描くなんて。正直、天才的だとは思ったが、少し、怖かったよ」
ハルキは震える手で昨日のバックアップデータを開いた。 そこに描かれていたのは、整然としたオフィスビルの図面ではなかった。 無数の部屋が複雑に入り組み、出口が存在しない、まるで巨大な胃袋のような建築物。壁の装飾はどれも内臓を彷彿とさせ、見る者の三半規管を狂わせるような色彩設計が施されていた。
これは、僕じゃない。 彼が、僕の仕事まで侵食し始めている。
定時を待たずに逃げるように帰宅したハルキは、玄関の鍵を三重にかけ、バスルームへ駆け込んだ。 冷たい水を顔に叩きつける。何度も、何度も。 皮膚が赤くなるまでこすり、指先に伝わる自分の感触を確かめた。
「出ていけ……僕の体から出ていけ!」
鏡に向かって叫ぶ。 鏡のなかのハルキは、濡れた髪を振り乱し、必死な形相をしていた。 だが、ふとした瞬間に、鏡のなかのハルキがまばたきをしなかった。
ハルキ自身は目を閉じているのに、鏡のなかの彼は、大きく目を見開いたまま、愉快そうにこちらを観察していたのだ。
「……まともなフリをするのは、もう疲れただろう?」
声が、脳の直接届く。 それは自分の声帯を震わせて出た音だが、意志の源泉が違う。
「君は、規律と正しさに自分を縛り付けて死にかけていた。だから僕が、君の代わりに呼吸をしてあげているんだ。あの図面を見たかい? あれこそが君の、いや、僕たちの内側にある真実の形だ」
「黙れ! お前はただの幻覚だ。脳のバグだ!」
「はは、なるほど、バグか。いい表現だ。だが、バグがシステム全体を支配してしまったとき、僕らはそれを仕様と呼ばれるようになるんだぜ? ハルキ。そして、君はもうすぐ消える。君という退屈な殻を破って、僕が完成するんだ」
鏡のなかの彼が、ゆっくりと右手を挙げた。 ハルキ自身の右手も、本人の意志に反して、まるで操り人形のように吊り上げられていく。 抗おうとすればするほど、筋肉が悲鳴を上げ、関節が逆に曲がるような激痛が走った。
抗うことを諦めた瞬間、ハルキの意識は急速に遠のいていった。 深い泥の底に沈んでいくような感覚。 代わりに、全身の血が沸騰するような、万能感に満ちた熱い衝動が彼を支配した。
「……さあ、続きを始めようか」
彼の声が、ハルキの口から朗々と響き渡った。
ハルキの体は、クローゼットの奥から大量の油絵具とペンキを取り出した。それは数日前、記憶にない時間に彼が買い揃えていたものだった。 バスルームの白い壁、清潔なタイル、ぴかぴかの鏡。それらすべてが、彼のキャンバスだった。
筆など使わない。 彼はペンキに満ちたバケツの中に手を突っ込み、狂ったような速度で壁に色を叩きつけていった。 赤、黒、紫。 混ざり合い、蠢く色彩は、やがて巨大な顔を形作っていく。 それはハルキの顔であり、同時に、この世に存在してはならない怪物の顔でもあった。
「素晴らしい……。現実なんて、これくらい歪んでいるのが丁度いい」
彼は、自らの顔にも真っ赤なペンキを塗りたくった。 視界が赤く染まり、鏡に映る自分と、壁に描かれた肖像画の区別がつかなくなる。 自分が鏡の外にいるのか、それとも鏡のなかの幻影に過ぎないのか。 その境界線が、どろどろに溶けた絵具とともに消失していく。
翌朝。 部屋のなかは、言葉を失うほどの芸術に満たされていた。 壁、天井、床。あらゆる場所が、狂気に満ちた極彩色の絵画で埋め尽くされている。
その中心で、ハルキは座り込んでいた。 彼の前には、小さなチェスボードが置かれている。 ハルキは、自分の右手を自分の番として動かし、一呼吸置いたあと、今度は左手を相手の番として動かした。
「チェックメイトだ、ハルキ」
彼は一人で、二人の声を使って語り合っていた。 窓から差し込む朝日は、もはや彼には届かない。 彼は、自分という牢獄のなかで、最も親密で最も恐ろしい自分と、終わりのないゲームを続けていた。
その表情は、ひどく穏やかで。 そして、救いようがないほどに、狂っていた。
コメント
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「境界の消失」、めっちゃ重くて怖くて引き込まれました……。ハルキの中にいる“もう一人”が、鏡越しにまばたきもしないで観察してるシーン、背筋が凍った。自分の体を乗っ取られていく感覚と、でもそれに抗いきれなくて最後には穏やかな笑顔でチェスを始める展開、すごく好きです。現実と狂気の境界が滲んでいく描写が繊細で美しくて、続きが気になります。ただただ、この闇をちゃんと書ける人だなって思いました🌙
NGS_ヘビーなしっぽ
142
#現代
ぽたお
198
猫塚ルイ
9,478