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『無理して時間を作らなくてもいいのよ』
交際を始めて何回目かのデートの時、私は宗輔に言った。
彼の休みは不定期な上、自分の仕事の他に父親の仕事も手伝っていて多忙のようだったからだ。
しかし、気を遣って言ったつもりの私に、彼は甘い眼差しを向けながらこう返した。
『俺の楽しみを取り上げるつもりか?佳奈との時間のために、毎日頑張っているんだ。気を遣わなくていい』
そんな風に言われてしまっては、それ以上何も言えない。結局それからも、仕事が終わってからの彼とのデートは、週に一、二回ほどのペースで続くことになった。
いつもより早く会えるかもしれない、と事前に連絡があったその日の夕方、仕事を終えてロッカーを開けた私は早速携帯の画面を開いた。宗輔からのメッセージが入っていた。
『今日はもうすぐ帰れる。食事に行こう』
嬉しくなって頬が緩んだ。久美子と戸田がまだ来ていなくて良かったと思う。もしもこんな所を二人に見られたら、きっと彼女たちの目はごまかせない。近くの書店で待つと、大急ぎでメッセージを返し終えた時だった。
「お疲れ様!」
久美子と戸田が口々に言いながら入って来た。
危なかった、と顔を引き締める。そそくさと身支度を終えた私は二人に挨拶を返し、ロッカールームを後にした。
会社を出た私は、通りを少し歩いた先にある書店に入った。宗輔が来るまでと 思いながら、旅行雑誌を手に取る。ぱらぱらとめくりアジアのビーチのページを眺め始めた時、バッグの中で携帯が振動した。急いで手に取ってみた画面には、宗輔からメッセージが入ったこと知らせる通知が表示されていた。書店の駐車場に着いたようだ。
手にしていた雑誌をレジで購入し、急いで店を出て駐車場に向かう。街灯の傍に彼の車を見つけて、小走りで近づいて行った。
私に気がついた宗輔が車を降りた。助手席側に回って、いつものようにドアを開けてくれる。
「おかえり」
「ただいま。宗輔さんもお疲れ様でした。迎えに来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
宗輔は笑ってドアを閉める。車に乗り込み、シートベルをかけながら私に訊ねた。
「何が食べたい?」
「そうね……。宗輔さんの行きたいお店に連れて行って」
私の答えに宗輔は不満そうな顔をする。
「またそうやって俺を優先しようとする。佳奈の行ってみたい店、言ってみて」
「え、えぇと、そうね……」
私は困って口ごもった。行ってみたい店は、実は色々ある。しかし、外食の度に彼がすべての支払いを持ってくれることを申し訳ないと思っていたため、どこに行きたいとなかなか言えない。
「佳奈は我儘どころか、思ってることをなかなか言ってくれないよな」
「そんなこと、ないと思うけど」
「いや、そういうところあるだろ。俺の前くらいは、言いたいことを言っていいんだぞ」
私は少し考えてからおずおずと口を開いた。
「あのね……。一緒に食事するのはすごく楽しいの。一緒に行ってみたいお店もたくさんある。だけど、いつも宗輔さんが全部払ってくれるでしょう?それが申し訳なくて、気軽に言えないって思ってしまうの」
「俺がそうしたくてそうしてるだけだし、もっと我儘言ってくれてもいいくらいなんだけどな」
宗輔は柔らかいため息をつく。
「それならさ……。例えば、だけど……。何か一緒に作って食べようか。俺の部屋で……とか」
彼にしては珍しく歯切れの悪い言い方だ。
私は目を瞬かせて彼を見た。
「料理、できるの?」
「一緒に作る」のひと言に興味を引かれた。どうしてその後の言葉の方に反応しなかったのか、後から思うと不思議だが、その時の私は彼と料理が結びつかず、そちらの方が気になってしまった。
彼の顔に戸惑いが走ったように見えた。しかしそれは私の気のせいだったようだ。私の問いに答える宗輔の表情はいつも通り穏やかだ。
「一人暮らしだから、一応はね。簡単なものしか作れないけど」
これから買い物をし、料理をして、となると、帰宅するのが遅くなってしまう。私は彼にこんな提案をした。
「今日は私が払うから、私の行きたいお店に連れて行ってほしいわ。それでね、今度、宗輔さんのお部屋で一緒にご飯を作りましょ。その時は、もう少し早い時間に会える時の方がいいわよね」
「……分かった」
宗輔の顔に苦笑が浮かんだが、その声音はいつもと変わらない。だから私は、この時の彼の心の内の葛藤に気づいていなかった。
「それじゃあ、今日はどこに行く?」
私はにっと笑った。
「あなたに騙されて連れて行かれた、あのお店に行きたいな」
「騙されたとは人聞きが悪い。あの時は仕方なかったんだよ。でもそうだな。久しぶりに行ってみるか」
宗輔は笑いながら、車を発進させ、今となってはある意味思い出の場所となっているカフェレストランへと向かう。
彼と初めてここに来た時は、気持ちもお腹も余裕がなく、ゆっくりと外を眺める暇もなかった。やや高台にあるここからは夜景を眺めることができる。
「本当はこんなに素敵な場所だったのよね」
私のつぶやきを聞き取り、宗輔が微笑む。
「そうだな。また一緒に来よう」
「えぇ」
美しい夜景と美味しい食事を堪能して店を出た後、彼はいつものように私を部屋まで送り届けるためにハンドルを握る。
ほんの少しだけ遠回りをして帰るのは、いつの間にか二人の間の決まり事になっていた。それはこの日も同じだったが、なぜか彼はいつもより遠回りで車を走らせているようだった。
そのうちに車はとある公園に入り、ひっそりとした駐車場で止まる。それは、彼の気持ちを初めて聞くことになったあの公園だった。
今までは私を送る途中で、どこかに寄って車を止めることはなかった。不思議に思った私は宗輔に訊ねる。
「どうしたの?」
彼は無言でシートベルトを外し、私の方へと身を乗り出した。
「宗輔さん?」
私の声には答えずに、彼はおもむろに私に口づける。しかし、私が応える前に唇を離してしまった。
「どうかしたの?」
そっと声をかける私に、彼はようやく言葉を発する。
「さっき言ってた、今度一緒に晩飯作って食べる話だけどさ……」
それがどうかしたのだろうか。私は首を傾げた。
「えぇ。そういうのもいいな、って思ったわ。楽しみね」
すると宗輔の口から長く深いため息がこぼれた。
「あのさ。ものすごくさらっと言ってたけど、ちゃんと意味分かってる?」
「意味?」
「俺の部屋に来るっていうことだろ」
「行ってもいいなら、だけど」
「俺、期待するけどいいんだな」
「期待?うぅん、私の料理はあんまり……」
「そうじゃなくて……。佳奈、君ってひとは、まったく……」
宗輔は肩を上下させながら、もう一度大きくため息をついた。私の顔を両手で包み込みながらじっくりとキスをする。
溶けそうだと思った途端、彼の唇が離れた。
瞼を上げて見た彼は私の目を覗き込みながら、ひと言ひと言をはっきりと口にする。
「この先に進んでもいいのか、ってことだよ。俺、この前言ったよな。これでも自制してるんだ、って」
「あ……」
ひどく艶っぽい目で見つめられて、鼓動がうるさくなる。
付き合い出してからはまだひと月ほどしかたっておらず、そうなるにはまだ早いと思う。しかし一方で、宗輔との関係をもっと先へと進めたいと思う自分がいることも確かだ。
「いいのか?」
改めて念を押すような彼の言葉に、私はどきどきしながら頷いた。
「えぇ……」
答えた途端、宗輔に抱き締められた。
「今から緊張してきた」
私はくすくす笑いながら顔を上げて、彼の唇に軽くキスをする。
「その日はお泊りの用意、していくね」
宗輔の体にぎゅっと腕を回すと、彼の胸の辺りからも鼓動の高鳴りが感じられた。
「宗輔さんもどきどきしてるのね」
私の言葉に言葉で答える代わりに宗輔は私の唇を塞ぎ、舌を絡めるキスをする。
「んっ……」
彼のキスに応えながら、頭の中に甘い不安が浮かぶ。
キスだけでこんなに気持ちいいのに、それ以上なんてどうなってしまうの――。
そしてやっぱりこの日も、蕩けるほどの口づけを彼から与えられたせいで、私の頭は何も考えられなくなってしまった。