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それからというものの、桜子はこの作品をスマホにもダウンロードし、仕事の合間にも読んでいたし、検品作業をしている時も、ずっと結婚詐欺師と三人の騙された女の子の物語に思いを寄せた
体はベルトコンベアの上を流れる部品を機械的に確認しながら、頭の中では希実の紡いだ物語の中を就業時間いっぱいに彷徨った
もしかしたら「柚原希実」はどこかのミステリー賞で大賞を取るかもしれない、口コミが広がってAmazonランキングでたちまち上位に躍り出る新人作家のポテンシャルを持っている
彼女の話の設定はどんなへたくそな脚本家でもこの設定通りに作ればヒット作になるだろう、世の中は意外と公平な目が開けているものだ、いくら製作費と広告費を積んでも駄作は溢れるものだし、その逆もしかりで格安製作費で傑作が生まれる場合もある
しかし桜子は、第一印象最悪で生意気な彼女に、自分が彼女の文章を称賛している心の内を素直に見せるのは嫌だった、講師としてプライドが許さなかった
いくら天性の才能があったとしても彼女はまだ若く、社会経験に乏しいので、ここらで厳しい評価も必要だろうと自分に言い聞かせた
だから敢えて、桜子はいくつか普通のサジェスチョンを付け加えただけにした
結婚詐欺師の人物像をいきなり最初に全部見せてしまうより、徐々に後半に持ってくる手もあるとか、語りの視点をドラマの俯瞰視点で物語が同時に進行しているように見せるテクニックがあるとか・・・うんぬんかんぬん・・・
もしその通りにやったら無意味だろうと思うアドバイスを書き加えた、当然彼女は的はずれの桜子のアドバイスなど聞くことはないだろうとも予想していた
赤ペンならぬ添削コメントを打ち込みながら、桜子は自分の指先が、どこか言い訳がましく動いているのを感じていた
そして桜子はふぅ~・・・と添削料金を頂ける仕事分はやったと満足して、パソコンの電源を切って風呂に入った
湯舟に浸かりながら、面白い作品を読んだ後の高揚感がまだ心に残るのを感じていた、しかもそれが素人の女の子の作品だなんて、世の中にはどんな「モンスター文章書き」が潜んでいるか分かったものじゃない
自分の作家としての旅路はとうにどん詰まりになっている、ここ数か月・・・自分のパソコンに入っている現在進行中の小説など小説ではなくなっているし、Web小説投稿サイトの作品のアクセス解析など見たくもない
誰にも本気で相手にされていない、三流作家桜子の小説教室もあと一回きりで終わりだ・・・
過去数年にわたってショッピングモールの片隅の教室で繰り広げられていた小説講師としてのキャリアも、これで終わる
それでも最後に添削した作品の筆者の「柚原希実」は・・・彼女が桜子に語った自分の作家としての将来は、必ず実現するだろう・・・桜子にはそれがわかった、この『あの虹の向こうへ』※タイトルは出版局に変えられるかもしれないが
この作品の映像化の権利をめぐる戦いがあちこちで起こるだろう・・・動画配信サービスで見るかも知れないし、もしかしたらそれを工場作業員の自分は映画館でみじめに見ることになるかもしれないのだ
湯気の立ちこめる浴室の中で、桜子はそんな未来を思い描きながら、湯舟の縁にぐったりと頭を預けた、検品作業で張った肩の筋肉が湯の熱でようやくほぐれていく
そういう思いをウジウジと思いながら、最後の小説教室で渡すための添削済みの原稿を丁寧に印刷し、クリアファイルに挟んで用意した、希実に預けられたUSBメモリーも、忘れずにファイルの隣に添えておいた
これが、彼女と交わす最後のやり取りになるかもしれない――これを渡すともう会うこともないだろうが、今度彼女の名前をどこかで見かける時は有名人になっているかもしれない・・・
そう思って桜子は何となく感慨深くなって最後の自分の小説教室の準備を進めた
.:・.。. .。.:・
慌ただしい年末セール中のショッピングモール・・・最後の小説教室を開催するため、桜子はいつもより早めに貸し教室に着いた
長机を整え、パイプ椅子を並べ、希実のために後ろの一席だけを少し広く開けておく、車椅子が入りやすいように、通路の荷物も隅へ寄せた
開始時刻の三十分も前から、桜子はドアのほうをちらちらと気にしながら、手元の添削原稿を意味もなく何度も読み返し、感慨深い気持ちになった
自分は小説界隈から足を洗う・・・今後の目標はCADオペレーターの資格を取るために猛勉強するのだ・・・生きるために
生徒たちが一人、また一人と教室に入ってくる、主婦ブロガーが今日も賑やかに世間話を始める、なんと郵便局員からは「お疲れさまでした」の花束を貰った、思わず感動して涙を流した
そして桜子はその合間にも、遅れてガラリと開くはずのドアの音をずっと待ち続けていた
しかし「柚原希実」はやってこなかった
コメント
2件
え🥺希実ちゃんどうしたのかな…体調不良かしら 桜子に魔が差しませんように🥺🙏それだけはダメだよ〜
いやあ、もう、この第30話の「希実が来なかった」ラスト、切なすぎますね…。桜子が湯船で「彼女の名前をどこかで見かける時は有名人になっているかも」って考えてるシーンが特に心に残りました。自分の夢は諦めかけているけど、希実の才能は心から認めてる。その複雑な感情がじんわり伝わってきて、読後感が深いです。先生としてのプライドと、才能への素直な称賛がせめぎ合う桜子の人間らしさが素敵でした。次が気になります!
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