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「長谷川、もう帰るの?」


定時を過ぎ医局を出ようとした私に、先輩の声がかかった。


「はい。すみません」


なぜ謝るんだろうと自分でも嫌になるけれど、反射的に頭を下げていた。


「フーン」

先輩はお疲れ様も言わずにまたパソコン画面に目を落とす。


なんだかとても後味が悪いけど、この場に留まることもできない私は、


「お先に失礼します」

もう一度声をかけてから、医局を後にした。



救急外来で患者の旦那さんに詰め寄られてから1日経った。

幸い部長が上手に対応してくれて、大きな騒ぎにはならなかった。

私自身も、『自分の言動には注意するように』と小言を言われただけで終わったけれど、今回の件で私に対する先輩や部長の印象が悪くなってしまったことは間違いない。


あーぁ。

今頃また、私の悪口合戦になっているんだろうな。

考えただけで恐ろしい。


元々この病院の患者だった私が研修医として勤めることになった時、主治医からの就労許可が必要だということになった。

もちろん、先生はすぐに診断書を書いてくれたけれど、そこにはいくつかの条件が付けられていて・・・


大体、当直の回数制限や長時間勤務の禁止なんて、研修医にはあり得ないのに。

そんなこと、医者である先生が1番良くわかっているはずなのに。


バンッ。

悔しさ紛れに更衣室のロッカーを叩いて、私は病院を後にした。

***


「お疲れ様」

「ああ、お疲れ」


病院を出た私は、最近出来たばかりのイタリアンレストランへやって来た。


普段は外食なんて滅多にしないけれど、今日は特別。


「お前、痩せた?」


乾杯よりも先に言われ、ムッとした。


「大丈夫、元気よ。ご心配なく」


「そうか?」

首を傾げながらグラスを傾ける。


ったく、いつまで経っても過保護なんだから。

いい加減、妹離れして欲しい。


私の目の前で、ワインを飲む男。

この人は私のお兄ちゃん。

7歳上で、母さんが死んでからずっと私を育ててくれた人。

物心ついたときから父さんのいなかった私にとって、父親みたいな存在。


「仕事、辛いんじゃないのか?」


「平気」


本当のことを言えばお兄ちゃんが心配するだけだから、私はいつも強がってしまう。

いつも元気な妹でいようと、つい無理をする。

それが無意味なことは自分でもわかっているのに。

でも、弱音は吐けない。

私が医者になるために、お兄ちゃんがどれだけの犠牲を払ったのか私は知っているから。


「あんな大きな総合病院の、それも一番過酷だって聞く産科なんか行かなくても、他にも行き先はあっただろう」


はあー。

またこの話。


最近は顔を見れば同じ会話。

いい加減にいうんざりする。


「良いじゃない。私が好きでやっているんだから」

強めの口調で言うと、お兄ちゃんの前に置かれたワインを一気に飲み込んだ。


***


「オイッ」


グラスを奪い、ペシッと私のおでこを叩いたお兄ちゃん。


「痛っ」

そんなに痛いわけではないけれど、とっさに口を出た。



大体、もう24になる妹がちょっとワインを飲んだくらいで騒ぎすぎ。

いくら心臓が悪くても、ワイン一杯で死にはしないのに。

そこのところが、お兄ちゃんにはわかっていない。


「もう飲むなよ。飲むならこのまま連れて帰るぞ」


「・・・」


本当にもう、まるで中学生扱いじゃない。

この人は私の歳を理解しているんだろうか?

私が30になってもずっとこのままだったりして・・・怖。


「ボーッとしてないで、好きな物頼め。何でもおごってやるから」


あら、ご機嫌。


私のお兄ちゃん、長谷川陣(はせがわじん)は31歳。

身長180センチ。細いけれど筋肉質で、いわゆる細マッチョ。

顔は強面で、少し怖い。

それなりにもてるみたいだけれど、素人受けする顔ではないかも。


「お兄ちゃん、いい加減彼女とかいないの?」


妹としては純粋に心配して言ったつもりなのに、


「俺はいい。お前を一人前にするまではそれどころじゃないからな」


ハアー。

これもいつもの回答。


***


医大を出て医者になった私だけど、育ててくれたお兄ちゃんは高卒。

我が家の苦しい家庭事情のせいか、定時制の高校を卒業してすぐに社会に出た。

母さんが死んだ時にはちょうど二十歳で、会社を始めた頃。

それから10年以上働きながら私を育ててくれた。


「ねえ、誰かくるの?」


私が頼んだ料理以外に何品もの皿がテーブルに並び、さすがに2人の量ではないと思った。


「友達」


「へー」

珍しい。


お兄ちゃんの友達なんて、会ったことない。


正直、お兄ちゃんがどんな仕事をしているのか、私は知らない。

本人は『なんでも屋』なんて言っているけど、詳しくは言いたがらないし、私も聞こうともしない。

そんな暗黙のルールの中で、暮らしてきた。


「あー、来た」


入り口に向かって手をあげたお兄ちゃん。

私も自然とそちらを向いた。


えっ。

・・・嘘。


近付いてくる人を見て、私は動けなくなった。


だって・・・


「よぅ徹、久しぶり」


私の動揺に気づくはずもなく、お兄ちゃんは男性に声を掛けた。

***


お兄ちゃんと男性と私。

少し照明の落とされた店内で、1つのテーブルを囲むことになった。


「悪いな、呼び出して」

お兄ちゃんはなぜかご機嫌だ。


「いや、俺もお前に礼を言いたいと思っていたから」

男性もお兄ちゃんに勧められて、ワインに口を付ける。


「礼なんて必要ない。俺は仕事をしただけだ」

まるで私の存在を無視するように、2人の会話は続く。


仕事ねえ。

実際お兄ちゃんがどこでどんな仕事をしているのか私は知らないけれど、私学の医学部に行かせるためには半端じゃない金が必要なことはわかっている。

それでも、お兄ちゃんは一度も延滞することなくそのお金を用意してくれた。

なんでも屋なんて得体の知れない仕事でどうやって工面できたかは不思議だなと思いながら、私はずっとお兄ちゃんに甘えて生きてきた。


「今回はお前に助けられた。お前が色々と調べ上げてくれなかったら、会社が危なかった」


男性は一旦グラスを置き、


「陣、助かった。ありがとう」

きちんと頭を下げた。


何か、意外。


だってこの人、昨日病院で出会った人。

たばこを取り上げて、抱きしめてくれて、部屋に泊めてくれた人。

***


「そう言えば、徹は初めてだっけ?」

チラッと私を見たお兄ちゃん。


「ああ、そうだな」

表情を崩すことないの男性。


「えっと、あの、私は、」

何か言わなくちゃと思うけれど、言葉が出ない。


「初めまして、香山徹です」


初対面でないのはわかっているはずなのに、きちんと挨拶をしてくれる徹さん。

まあ、私もその方が助かるけれど。


病院でもめた事も、泣いてしまったことも、たばこを吸ったことも、すべてお兄ちゃんの耳には入れたくない。

だから、


「初めまして、長谷川乃恵です」

私も初対面の挨拶を返した。



その後はお兄ちゃんが私の好きなメニューを追加で頼んでくれて、徹さんと仕事の話で盛り上がる。

私は黙々と食べながら、2人の話を聞いていた。


どうやら、徹さんは鈴森商事の社長秘書らしい。

鈴森商事って言えば私でも名前を聞いた事のある上場企業。


へえー、エリートなのね。

ペンネを頬張りながら、そんな感想を持った。


確かに着ているスーツも高そうだし、身のこなしもスマートで、お金持ちって感じではある。

いかにももてそう。


「それで、例の話は引き受けてくれるのか?」

少し真面目な顔になった徹さんが、お兄ちゃんを見る。


「うぅーん」

お兄ちゃんの方は複雑な表情をした。

***


「でも、いいのか?鈴森商事みたいな大きな会社が、うちみたいな小さな所と契約なんかしてもメリットなんてないだろう。もっと大手の調査会社だってあるのに」


「陣の会社だから契約したいんだ。今回のピンチだって、お前が動いてくれたから全容がわかったし、交渉がスムーズにできたんだ。.俺も、社長も、上層部の人間もお前を信用しているんだよ」


「そうか?」


首をかしげながら、お兄ちゃんはグラスを空けた。


2人の話を総合すると、最近鈴森商事に大きなトラブルがあったらしい。

ネットに上げられた誹謗中傷とか、嘘の告発や企業を巻き込んだ陰湿な駆け引きなど、私もネットに上がった記事をいくつか目にした記憶がある。

お兄ちゃんも徹さんも誰が黒幕だったのかまで言わないけれど、その騒動を調査し、解決に導いたのがお兄ちゃんということらしい。


「契約しておけば、お前の所も安定した収益に繋がるし鈴森商事としても困ったときにすぐ動けて助かるんだ。悪い話じゃないだろ?」

徹さんは、なかなかうんと言わないお兄ちゃんを説得している。


お兄ちゃんの会社にとって鈴森商事のような大手と継続的に取引があるって事は信用にも繋がるし、かなりプラスになるはず。

渋る必要はないと思うけれど。


私は、困った顔を崩さないお兄ちゃんを見つめた。

***


「徹が俺のことをかってくれているのは本当にありがたいと思うんだ。でも、個人的な思いが入っていないか?」


お兄ちゃんは、徹さんが友人の会社だからって理由で契約話を持ってきたんじゃないかと思っているようだ。


「安心しろ。これは鈴森商事からの正式なオファーだ。だからって、難しく考える必要はないぞ。これからも俺の力になって欲しい、それだけだ」


私みたいな素人が言うのも変だけれど、徹さんの言葉には説得力がある。

聞く人を黙らせ納得させてしまうような不思議な力が。

素敵だな。

静かに淡々と話す徹さんを見て、素直にそう感じた。

お兄ちゃんにこんな友達がいたなんて、びっくり。


その時、

ブー、ブー、ブー。

携帯の着信。


「ちょっとごめん」

画面で相手を確認して、お兄ちゃんが席を立った。



「相変わらず忙しそう」


テーブルの上の料理をつまみながら、逃げていくお兄ちゃんの背中を見た。


「まあ、あの陣だからな。止まったら死ぬだろ」


え?


徹さんは普通に話しているけれど、私は首を傾げてしまった。

***


「あいつのことだから、きっと何も言わないんだろうな」

ボソリと漏れた徹さんの言葉。


「どういう意味?」

なんだか含みを感じてしまって、聞き返した。


小さい頃から別々に暮らしていたし、母さんが亡くなってからも私は学校の寮に入ったから一緒に暮らした記憶はない。

お兄ちゃんのことを何も知らないと言われてしまえば、否定はできない。


「いいか、よく聞けよ」

と、少しだけ真面目な顔をして徹さんが私に向き直った。



「俺と陣は定時制の高校に行っていた。当然、みんな働きながら勉強していたけれど、その中でも陣は特別だった。昼閒は会社に勤めながら、夜にはバイトをいくつも掛け持ちして寝る間を惜しんで働いていたんだ。何のためだと思う?」

「それは・・・」


答えはわかっている。

きっとお兄ちゃんは、


「お前とお袋さんのためだろ?」

「・・・ぅん」


間違いない。

私はずっとお兄ちゃんに守られてきた。


「あいつはいつも、家族のために一生懸命だったんだよ」


その言葉に深い意味があったのかどうかはわからないけれど、少なくとも私の心には響いた。

だから、


「感謝してます」

ためらうことなく口から出た。

***


医者になれたのも、今こうして生きていられるのもお兄ちゃんのお陰。

それは私が一番よくわかっている。

でも、だからって、いつまでも子供扱いはやめて欲しい。

私だっていい大人なのに。


「お兄ちゃんは心配しすぎなのよ」


「そうだな」


窘められると思っていた徹さんの頷く声が聞こえて、


「・・・」

私の方が黙ってしまった。


素直になれない自分が恥ずかしい。

でも、私には私の思いがあって・・・


はぁー。

ため息をつき、テーブルのワインに手を伸ばす。


ペチッ。

「痛っ」


「陣にしばかれるぞ」


だからって、叩かないで欲しい。


「じゃあ、黙っていてよ」

叩かれた手をさすりながら口を尖らせた。


グビッ。

徹さんを避けながら、お兄ちゃんのグラスを一気に空ける。


ウハァー。

美味しい。


私だって、自分の体のことはわかっている。

用心もしているつもりだし、できるだけ無理をしないようにとも思っている。

でも、今の仕事をしながら体を休めるのは至難の業。


はあぁー。

やっぱり人生はうまくいかないな。


やるせない気持ちを誤魔化すように、目の前のボトルからワインを注いだ。


「おいっ、こらっ」

ボトルを奪い睨み付ける徹さん。


フン、私だって飲まなきゃやっていられないときもあるのよ。

***


「こら、乃恵」

店内に響く声。


ヤバッ。



大股で近づいたお兄ちゃんが、目の前で歩を止めた。


「何をしてるんだ」

眉毛をキリッと上げてすごい眼力。


「いいじゃない、少しくらい」

私だって飲みたいときくらいある。


「おまえ・・・」

こめかみに青筋を立てて、怒り心頭。


こんなにお兄ちゃんを怒らせたのはいつぶりだろう。

でも、私だって今は引けない。


「私も24なの。病気だって落ち着いているし、そもそも私は医者なの。少しは信用してちょうだい」


「信用なんてできるかっ」

今にも手が出そうなのを必死にこらえているのがわかる。


その時、


ブー、ブー、ブー。

絶妙なタイミングで、お兄ちゃんの携帯が再び鳴った。


ホッ、助かった。


「陣、忙しいんだろ。行けよ」


チラチラと携帯を気にするお兄ちゃんに徹さんが声をかける。


「しかし・・・」


複雑な表情で、私と徹さんを交互に見ているお兄ちゃん。


「無理するな。乃恵ちゃんは俺が送るから。今ここにいても喧嘩になるだけだろ?」


さすが、よくわかっているじゃない。


「そうか?じゃあ、頼むわ。乃恵、これ以上飲むなよ。いいな?」

「はいはい」

「ったく、お前は・・・」


少しだけ悩んでから、結局お兄ちゃんは店を出て行った。

***


「で、今日はどこへ帰るんだ?」


お兄ちゃんが居なくなった途端、徹さんの目つきが変わった。


「え?」


「まさか、ネットカフェ?」

「いいえ」

さすがに、それでは体が休まらない。


「アパートに帰る?」

「いや・・・」

きっと取り立てが来るだろうから、アパートには帰れない。


「じゃあどうするんだ?」

「それは・・・」


やだな、この流れ。

私が劣勢。


この状況で「医局の仮眠室に泊るつもり」なんて言えば、許してくれるだろうか?

絶対反対されるよね。


「送ってもらわなくても1人で帰りま」

「ダメ。陣にも送っていくって約束したし」


まあ、そうなんだけれど。

ウゥーン、困った。


「昨日のこと、陣にバラそうか?」

「ダメ、待って」


私は、徹さんの手に握られた携帯を掴んだ。


お兄ちゃんは過保護なんだから、大騒ぎして病院に連れて行きそうだし、部屋だってすぐに引っ越ししろって言うに決まっている。

今の私にはそんな暇はないのに。


「どうする?」

冷ややかな視線で、私を見る徹さん。


この人、お兄ちゃんに負けないくらいイジワルだわ。

ちょっと、苦手かも・・・

***


大体ね、昨日のことをお兄ちゃんに話せば困るのは私だけではないと思う。

徹さんだって、私を自宅に泊めてくれたわけで、お兄ちゃんならきっと怒るだろうし。


「とにかく、アパートへ行ってみるか」

すでに腰を上げ、私のカバンまで持った徹さん。


どうやら、ここで解放って訳にはいかないらしい。

困ったな。


「ほら、行くよ」

私の返事など待つこともなく、店を出ようとする。


「行きますから、返して」

私は、勢いよくカバンを引っ張った。


ったく、女性の私物に勝手に触らないでほしい。

怒りの気持ちを込めて睨みつけてやろうと思ったのに、


ギュッ。

カバンを持った腕ごと掴まれた。


な、なんなの、この人。


「逃げられたら、困るからね」


当然のように言っているけれど、絶対おかしいから。


「ほら、行くよ」


「・・・」

もう、言葉も出ない。


どのみち逃げられないなら行くしかないだろう。

本音を言えば1人でアパートに帰るのは怖かったし、ついて来てもらえば心強い。



店の支払いはお兄ちゃんが済ませていたらしく、私と徹さんはそのまま店を出た。

***


タクシーに乗り、私のアパートへ。


築年数こそ新しいけれど、広くもおしゃれでもない部屋。

繁華街の片隅にあって、間違っても閑静とは言えない場所。

なぜこんな所に住むことにしたかというと、すべては家賃のため。

お兄ちゃんにお金を出してもらって大学に通っていた私にとって、家賃を押さえることが第一条件だったから。


「ここ?」

ちょっと呆れたように、徹さんがアパートを見ている。


「ええ、まあ」


さすがに少し恥ずかしいけれど、ここが我が家。


「2階だな?」

「うん」


外階段を上がり部屋へと向かった徹さんを、私も追った。


このアパートに住んで6年。

大学に入った時からの長い付き合いになる。

2年ほど前からルームシェアを初めてそれなりに楽しく暮らしてきた。

私はここが嫌いではなかった。

でも・・・



ドン。

「痛っ」


急に立ち止まった徹さんの背中にぶつかった。


ん?


のぞき込んでみると、


「・・・嘘」


私の部屋の前は真っ赤なペンキが撒かれている。


手すりや廊下にも何枚もの張り紙が貼られ、散々たる光景。


「酷いな」

呆れた徹さんの声。


「・・・」

自分のせいでもないのに恥ずかしくて、目をそらしてしまった。

***


「なあ?」


どのくらい時間がたっただろう、放心状態で立ち尽くしている私に徹さんが声を掛けた。


「何?」


「この部屋から今どうしても持ち出したい荷物ってある?」

「え?」


持ち出したい荷物って・・・


「見ろ、今夜はここには帰れないぞ」


顎を向けられ、徹さん越しに部屋を見る。


あ、ああー。


そこは真っ赤なペンキを掛けられたドアと積み上げられたゴミ。

それに、廊下に面したキッチンの窓はガラスが割れている。


確かに、ここには帰れない。

たとえ帰っても怖くて寝られない。


「こんな所、陣に見られたら大変だ」

「お願い、言わないで」


お兄ちゃんには知られたくない。

恥ずかしすぎる。


「もういい。わかったから、お前は戻っていろ。タクシーを待たせてあるから」

「・・・うん」


自分でもここにいることが辛くて、素直にアパートを離れた。



通りの向こう、アパートの見える道路に止められたタクシーの中で、私は1人待った。


5分ほどでパトカーが到着。

きっと、徹さんが呼んだんだ。


すぐに人集りができて、慌ただしく人が出入りする。

自分のことなのに、人ごとのようにボーッと見ているだけなのが情けない。

***


1時間ほどで辺りもやっと静かになった。

人集りもなくなって、部屋の明かりも消えた。



「お待たせ」

私の隣に乗り込んだ徹さん。


「大丈夫か?」

心配そうに私を見る顔が、なぜか優しい。


「うん、平気」



私たちを乗せたタクシーは走り出した。


徹さんからはどこへ向かうのかも説明がないけれど、私もあえて聞かない。

今の私には帰る場所もないんだから。



「あの部屋、何日帰ってなかったんだ?」


「えっと、10日くらい」


何度かアパートの近くまでは行ったけれど、怖くて帰れなかった。


「そうか」


そう答える徹さんの声が沈んで聞こえ、顔を上げた。


「どうかしたの?」


「あの部屋、中も荒らされていた。空き巣なのか取り立てやなのかはわからないけれど、ひどい有様だ」


ブルッ。

一瞬、寒気がした。


「引っ越した方がいいだろうな」


「うん」


誰に荒らされたのかも、またいつ誰が来るかも分からないところには帰れない。


「明日中には警察の見分が終わるから、どうしても必要な物はそれから取りに行こう」

「うん」

「今日は俺のマンションでいいか?」

「はい」


もう、反抗する元気もない。

***


30分ほど走って、徹さんのマンションに到着。


昨日来たときは途中で眠ってしまってはっきりとした記憶もないけれど、都心の中心部に立つそこはかなりの高級物件だった。

やっぱり上場企業の社長秘書ともなると待遇が違うらしい。


「ほら、ちゃんと前を見てないと転ぶぞ」


まるで子供に言うように言われ、


「もー、大丈」


ドテッ。


言われた側から、見事に転んでしまった。


「だから気をつけろって」


床に膝をついてしまった私の腕を引き上げる徹さん。

恥ずかしさで、耳まで赤くなった私。


「荷物が多すぎたのよ。こんなに買わなくてもいいのに」

まるで徹さんのせいで転んだように言ってしまった。


両手に下げたの紙袋には、着替えと日用品とコスメがギッシリ。

すべて帰りに寄った店で購入した物。

そんなに必要ないって言ったのに、徹さんがつぎつぎとカゴに入れるから大荷物になってしまった。


「お前が布団なんか買うからだろ」


私の荷物よりも大きな包みを抱えた徹さんが不満そうな顔をした。


「だって・・・」

***


「大体、もう一晩くらいソファーで寝たってどうってことはないんだ」


高級マンションの廊下には不釣り合いなくらいの大きな包みを恨めしそうに見ている。


「でも、それじゃあ体が休まらないでしょ?」


昨日だってソファーで寝たんだし、今日はちゃんと布団で寝ないと。

平気な顔はしていても、社長秘書なんて激務に決まっているんだから。


「あのソファーは広いし、スプリングも効いていて寝やすいんだ。俺は十分眠れている」


強がりなのか本気なのか、徹さんは私が買った布団のセットが気に入らないらしい。


「あの、重かったら私が持ちますよ」


荷物を持たせてしまったことが不満なのかと、自分の持ってた荷物を置いて手を伸ばそうとすると、


徹さんは布団の包みを抱えたまま1人で歩いて行ってしまう。


「ちょ、ちょっと、待って」


私も駆け足で後を追った。



私が布団を買ったのは、今日寝るための寝具がなかったからだけの理由ではない。


今まで過ごしていた自分の部屋に誰かが侵入したと聞かされ、恐怖と同時に嫌悪を覚えた。

たとえ引っ越したとしても、誰が触ったのかもしれない布団なんて気持ち悪くてもう使えない。

だから、新しくアパートを借りたらこの布団も持っていくつもりで購入した。


大きな荷物を運ぶことになった徹さんには申し訳ないと思うけれど、私は新しい布団が欲しかった。

***


「ベットを使ってもかまわないが、リビングの奧にはゲストルームもある」


荷物を置いて冷蔵庫からお水を出して来た徹さんが、どうすると聞いている。


「ゲストルームを借ります」


せっかく布団を買ったんだし、徹さんにもベットでゆっくり休んでもらいたい。

2日も続けてソファーで寝させるわけにはいかないし。




「明日は、仕事?」


キッチンで荷物を片づけながら、カウンター越しに徹さんが声を掛けた。


明日は土曜日だから基本的には休みなんだけれど、受け持ち患者で気がかりな人もいるし、溜った書類作成もあるから午後にでも病院へ顔を出そうと思っていた。


「何かあるの?」


来客でもあるようなら、早めにここを出た方が良いのかもしれない。

でも、布団はさすがにに持って歩けないけれど・・・最悪数日置かしてもらうか、お兄ちゃんに預かってもらうしかないかも。

って事は、お兄ちゃんに話さないといけないわけかあ・・・


「オーイ」


エッ?

1人で考え事をしていた。


「明日の午前中に警察に行って被害届を出して、午後から不動産屋を回ろうか?」


回ろうかって、

それって・・・


「一緒に?」


「ああ。イヤなの?」


「イヤとかではなくて・・・」


徹さんだってきっと忙しいだろうに、私のために時間を使わせては申し訳ない。

***


私の反応を、2人で出かけることがイヤだと言ったように理解した徹さんはちょっとだけ不機嫌そうな顔になった。



「今日だって、部屋の入り口を見ただけで震えていたのに。1人で手続きができるのか?」


「それは・・・」


正直あそこには行きたくない。


「アパートだって、医者だと言えば借りられないことはないだろうけれど、この間まで学生だったんだろ?保証人を付けろって話にはなるぞ」


「そう、ね」

確かに。

でも、

「大丈夫よ。いざとなれば、お兄ちゃんに頼むから」


きっと怒られるだろうけれど、文句を言いながらでも来てくれると思う。


「残念。あいつ明日の朝一で出張」

「え、嘘」


私は、聞いてないけれど。


「何かトラブルがあったらしくて、急に決まったらしい」

「へえー」


でも、困ったな。

それじゃあ、私は身動きがとれない。


「明日は俺が付き合うよ」

「いいの?」


徹さんは、私以上に忙しいはずでしょ?


「乗りかかった船だ」


「すみません」

申し訳ないとの思いから、私は深く頭を下げた。


「ただし、昨日のことも、今日のことも、まだ陣には黙っていろ。あいつのことだから心配するだろうし、俺もあいつとの関係をギクシャクさせたくはない。事件の処理も終わって、新しいアパートに引っ越してからすべて話す方が良いだろう?」

「はい」


その方が丸く収まる。


「じゃあ、今日はもう寝ろ。明日は早めに出かけるからな」

「はい」


まるでお兄ちゃんがもう1人増えたみたいだなと想いながら、私は荷物を抱えてゲストルームに向かった。..

***


買ってきた布団にシーツを掛け、床に直接敷いた。


新しい布団も枕も気持ちいいけれど、やはり慣れなくてなかなか寝付けない。

なぜだろう、昨日の布団の方がよく眠れたな。


しばらく頑張って布団に入ってみたけれど、結局寝付けなくて起き出してしまった。



ハアー、困ったなあ。


普段使われた様子のない部屋には家具もなくて、生活感がない分少し寂しい。

私はベランダに続く大きな窓の側まで行き、膝を抱えて座り込んだ。


目の前には都会の綺麗な夜景が広がる。

普段の自分には縁のない高層マンションからの景色に、ボーッと見入った。


徹さんはお兄ちゃんの友達だけれど、やっぱり住む世界違う。

何で私、ついて来ちゃったんだろう?

それに、

何で徹さんは、私に優しくするんだろう?


お兄ちゃんの妹だから?

昨日も泊めたから?


じゃあ、いつから私がお兄ちゃんの妹だと知っていたんだろう?


聞きたいのに、今さら聞けない。

随分迷惑を掛けてしまったし。


ピコン。


ん?


徹さんからのメールだ。


『明日の朝は1度会社に寄りたいんだが、どうする?一緒出てもいいし、待っててくれたら1時間くらいで戻るが?』

『一緒に出ます。寝てたら起こして』


わりと寝起きは良い方だから大丈夫だと思うけれど、一応ね。


『わかった。旨い朝飯おごってやる』

『うん』

思わずスタンプを押してしまった。


よし、もう一度布団に入ろう。

明日は忙しそう。

切ないほど愛おしい

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