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八百万。
家計簿の、十一月の現金の入金と同じ数字だった。
売り主の欄には、見慣れた字で「御影貴和子」とあった。
お義母さまの、細く右上がりの楷書。お茶の稽古の手本に、何百回も見た字だ。
私はスマートフォンを出し、シャッター音を消したまま、控えを三枚撮った。
表と、裏と、日付のところを寄って。
それから、紙を元の位置に、元の向きで戻した。
風呂敷包みの結び目にも、触れなかった。底板をはめ、蓋を閉める。
持ち出せば、ただの盗まれた紙になる。
この紙が、この長持の底にあったこと。それ自体を、いつか誰かが自分の手で開けて見なければ、意味がない。
閂を戻して振り向くと、離れの灯りは、もう消えていた。
*
翌朝のムギの散歩で、私は榊さんに写真を見せた。
離れの軒下で、彼は画面を長いあいだ見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「瑞雲堂。神田の古美術商です。父が、よく通っていた」
「大奥様は、売ったものの代わりに、似たものを箱に入れたんだと思います」
「似たもの」
「重さが、違いました。高台も、土の色も」
榊さんは、眼鏡の奥で目を細めた。
「あなたの目で、そう見えた」
「……母が、器の店をやっていましたので」
言ってから、口をつぐんだ。
凛の経歴に、器の店はない。
榊さんは、それには何も言わなかった。
ただ、画面の日付のところを指でなぞった。
「二年前の十一月。茶会まで、あと八日ですね」
*
撮影の日から、麗奈は一度も一階に下りてこなかった。
食事は、主寝室の前の廊下に盆で置く。
一時間後に下げに行くと、サラダのトマトだけが残っていた。蒼真は書斎のソファで寝て、朝は私の淹れたコーヒーを立ったまま飲み、黙って会社へ出ていった。
叔母さまが来る日の朝、主寝室の扉が細く開いた。
「凛さん。今日、あのおばさん来るんでしょ」
麗奈の声は、かすれていた。
目の下の涙袋のメイクが、なかった。
「具合が悪いって言っといて。私、絶対に下りないから」
「かしこまりました、奥様」
扉が閉まった。
閉まる直前、麗奈の目が私を見た。何か言いたそうで、結局、何も言わない目だった。
*
多恵子叔母さまが訪ねてきたのは、六月最後の火曜日だった。
門の前に黒い車が止まり、白いレースの日傘が開いた。
夏の着物の裾から、白い足袋がのぞく。
「貴和子さん、お招きありがとう。七夕なんて、何年ぶりかしらね」
声が、玄関ホールの吹き抜けに響いた。
四十九日のとき、杉の陰まで届いた声だった。
お茶は、和館の座敷に出した。
「この人が、例の家政婦さん? あの事故の」
叔母さまは、座布団に座る前から私の顔をのぞきこんだ。
「助かった人を雇うなんて、貴和子さんも情が深いのね」
「人手が要っただけよ」
お義母さまは、私のほうを見もしなかった。
二人は、床の間を背にした座卓を挟んで向かい合っていた。
「そうそう。グレースの件、聞いたわよ」
叔母さまは、私の置いた湯呑みに手も触れずに言った。
「蒼真さんの新しい奥様、聖ルチアじゃなかったんですってね。葛城さんがお怒りだって、うちのお茶の生徒さんたちの間じゃ、もうその話で持ちきり」
「若い人のすることよ」
お義母さまは、扇子をゆっくりと動かした。
「御影の家のことは、御影の家で片づけます」
「そうね。貴和子さんは昔から、片づけるのがお上手だもの」
叔母さまは、にっこり笑った。
笑ったまま、湯呑みを取り上げる。
「それで、七夕には、いよいよ曙を拝見できるのね。宗一郎さんが亡くなってから、一度も出していないでしょう」
「坂上先生にも、そうお約束しました」
「楽しみだわ」
叔母さまは一口飲んで、湯呑みを茶托に戻した。
「そういえば、来月の頭に、瑞雲堂さんの入札会があるの。ご存じ?」
お義母さまの扇子が、止まった。
「目録が届いたのよ。そうしたら、曙によく似た赤楽が出ていて。うちの人と、まるで双子ねって笑っちゃったわ」
座敷の空気が、そこだけ固まったようだった。
私は盆を胸に抱えたまま、障子の脇に控えていた。
目を伏せる。家政婦の目は、何も見ていないことになっている。
「……似たものは、世の中にいくらでもあるわ」
お義母さまの声は、平らだった。
けれど、閉じかけた扇子の骨が、指の中で小さく鳴った。
「そうよね。本物は、ちゃんと御影の蔵にあるんだもの」
叔母さまは、目を細めた。
「私、入札に行ってみようかしら。双子なら、並べてみたら面白いじゃない。ねえ」
返事は、なかった。
*
お茶のお代わりを運んでいるときだった。
庭のほうで、犬の声がした。
縁側の向こう、植えこみの間の小径を、榊さんがムギを連れて歩いていた。
離れから門の車へ向かう途中らしい。黒い鞄を提げ、ムギのリードを短く持っている。
ムギが、顔を上げた。
縁側に膝をついた私を見つけた瞬間、ムギはリードを振りほどいた。
榊さんの手から、赤い紐が抜ける。
あっと思ったときには、もう沓脱ぎ石を駆け上がっていた。
ムギは私の膝に体をすり寄せた。
何度も、何度も。尻尾を千切れそうなほど振って、鼻先を私の手袋の中へ押しこもうとする。
「ムギ、だめ。お客様が」
私は、右手で首輪を押さえた。
左手は、盆の下に隠した。
ムギは離れなかった。
私の膝に顎をのせ、そのまま、ごろりと横になろうとした。
「あら、まあ」
叔母さまが、口元に手を当てた。
「前の澪さんの犬じゃないの。まだいたのね」
お義母さまは、何も言わなかった。
老眼鏡の奥の目で、私の膝の上の犬を見ていた。
それから、誰に聞かせるともなく、つぶやいた。
「……あの犬は、前の嫁にしか懐かなかったのに」
心臓が、一つ、強く打った。
ムギ。お願い。
お腹を見せないで。
膝の上の温かい重みを、私は抱きしめることも、押しのけることもできなかった。
「失礼しました」
縁側の下で、低い声がした。
榊さんが、沓脱ぎ石の前に立っていた。
叔母さまに軽く頭を下げ、それから、ムギのリードを拾い上げた。
「毎日、この人が散歩をさせています。餌もこの人がやる。犬は、餌をくれる人間を覚えるものです」
淡々とした声だった。
弁護士が、事実を一つ述べただけのように。
「ムギ。来い」
ムギは、しぶしぶ私の膝から下りた。
榊さんは、リードを短く持ち直した。
その体が、ちょうど縁側と私のあいだに入る位置で、止まっていた。
お義母さまの座っている場所から、私の顔が見えない位置だった。
「あら、玲司さん。お久しぶりね」
叔母さまが、ぱっと声を明るくした。
「ご無沙汰しています、叔母さん」
「七夕、あなたもいらっしゃいよ。宗一郎さんの曙が出るのよ」
「茶の湯には、縁がありませんので」
榊さんは、もう一度だけ頭を下げた。
それから、ムギを連れて小径を戻っていった。
去り際に、彼の目が一瞬だけ、私の手袋の左手を見た。
大丈夫か、と聞かれた気がした。
私は、盆を持ち直した。
「……餌をくれる人間を、ね」
お義母さまが、小さく言った。
誰にも、返事をさせない声だった。
*
夕方、叔母さまの車が坂を下りていった。
私は座敷の片づけをしていた。
湯呑みを盆に集め、座布団を重ね、座卓の上の茶托を拭く。
叔母さまの湯呑みには、最後まで、お茶が半分残っていた。
「佐伯さん」
背中で、お義母さまの声がした。
振り向くより早く、手首をつかまれた。
左の手首だった。
着物の袖から伸びた細い指が、手袋の上から、骨に食いこむほど強く握っていた。
お義母さまの顔が、すぐ近くにあった。
白檀の扇子の匂いがした。三年間、毎日嗅いでいた匂いだった。
「大奥様」
「あなた、蔵で何を見たの」
コメント
1件
うわっ……最後の「蔵で何を見たの」で終わるの、ほんとズルいです😭💦 お義母さまが扇子止める細かい描写とか、榊さんがわざと凛さん隠すように立つとことか、1つ1つの動きが重くて、読んでて息止まっちゃいました。 ムギが凛さんに懐くシーンも、心臓ぎゅってなった……「餌をくれる人間を覚える」って言葉、裏で榊さんが凛さん信頼してるのが伝わってきてすきです。 続き、気になって今夜眠れそうにないです……!
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
1,613
ゆうき
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