その日の夕方、一人で参加したサロンの報告のため、サヴァランはヴァンブラン公爵家の屋敷へと立ち寄った。
「ミル、具合はどう?」
「具合だなんて大袈裟ね。元々大したものではありませんわ。家の者が大仰なだけよ。貴方こそ、その表情はなあに?珍しい。」
恐らくは、ここまで来る馬車の中からずっとそうだったのだろう。サヴァランはミルフォイユの部屋に、仏頂面を下げてやって来た。
「……僕、あの人嫌いだ。」
ぼそりと呟くようにだが、サヴァランがそんな事を言うなんて……。ベッドの上から、ミルフォイユは目をぱちぱちとさせた。
「あら珍しい!“あの人”、って??」
「グゼレス侯爵だよ!ショコラ様がせっかく“僕”に声を掛けてくださったのに……邪魔して来るんだよ⁉元から文官系と武官系で合わないと思っていたけど……。〰〰なんか、無理‼」
サヴァランは苦痛に顔を歪めている。なのにミルフォイユは反対に、今度はキラキラと目を輝かせてなぜか高揚したような顔付きだ。
「まぁ…まあ!まあっ‼いいわ、いいじゃないの!これだったのよ、貴方に足りなかったもの……それは恋敵‼」
「恋……こいがたき!?だってあの人、ご執心なのはフィナンシェ様にだよ⁇」
「細かい事はいいのよ。重要なのは、勝ちたいと思う相手がいる事だわ!そうではなくて??」
ぐいぐいと迫って来るミルフォイユの勢いに、サヴァランは気圧された。
「そ、そうだね…」
……しかしだ。確かにこれは、悠長にしていてはいけないのだという気にさせてくれる……。
そう、相手が何であろうと、自分は彼女の心を勝ち取らなければならない!
「――…うん。分かった!僕、頑張るよ‼」
「その意気よサヴァラン‼さっさとショコラ様を落としてしまいなさい!そして早く、この婚約を破棄して頂戴。でないとわたくしが先に進めないではないの!」
「――ねえ、ミエル。“恋”って、どういうもの?」
ミエルが湯浴みを手伝っていると、難しい顔をしながらショコラがそう尋ねて来た。
彼女は驚いた。
「…“恋”!?……なさったんですか?ショコラ様⁇」
……まさか、彼女の口から「恋」なんて言葉が出る日がやって来るとは……。何だか感慨深い。ミエルはそう思った。
一方のショコラは、尋ね返された事に戸惑いながら答える。
「それは…っ。……よく、分からなくて。侯爵様、私がそうだと言うのよ。でも何だか納得出来ないの……。」
「まあ、そうだったのですか。…確かに、他人に勝手に決められたくは無いですわね。そうかどうか、だなんて。ご自身が感じている事が全てだと、私は思いますよ。」
それを聞くと、彼女はぱあっと顔を明るくした。
「そう!そうよね。だからモヤモヤとしていたのだわ‼」
今日のサロンの時、グラスに「クレムの事が好きなのだろう」と言われた。それは確かにそうだ。でもやっぱり、どう考えても“姉の夫”というか……義兄として、だと思う。なのにそうと決め付けられて、彼の言葉に呑まれそうになっていた。だからどうにも腑に落ちなくて、落ち着かなかったのだ。
ショコラは胸のつかえが取れた、という気持ちになった。
「あの方――侯爵様って、どうしていつもああなのかしら。初めて会った時からそうだわ。私の頭の中を混乱させるの!……心に余裕を持つって決めたのに……。どうしたらいいのかしら。」
困ったと言うように「ハア」と息を吐き、ショコラは鼻下までを湯に潜らせた。
「ならばいっそ、考えるのをおやめになってみては?真正面からお相手をなさる事はありませんよ。」
ミエルの返したその答えは、ショコラには意外なものに感じられた。――と、いうよりも……
「……何だかそれ、ファリヌが言いそうな事ね。二人、似てきたのかしら??」
「ええっ⁉やめてください、ショコラ様ったら……」
彼女は赤いような青いような顔をして否定する。……それは、どういう感情からなのだろうか?
「ふふっ。ありがとう、ミエル。そうね!いつまでも詰まらない事を考えるのはやめるわ。ファリヌにも、また怒られてしまいそうだし。」
「そうですね!」
その夜、ショコラはベッドの中で考えていた。
――これで、義兄に心置きなく会う事が出来る。グラスが余計な事を言うものだから、どんな顔をして出迎えればいいのかと悩んでしまったではないか。だがもう心配はいらない。
そして彼女はぐっすりと、眠りに就いたのだった。
姉・フィナンシェたちは、新婚旅行の時よりはずっと早かったものの、少々長めの不在からやっと王都へ戻って来る事になった。
そろそろ着くという報せを受け、ショコラはいつものように用意をして待っている。その時だった。
「ショコラ様、お客様がお見えですが……」
「はあい、お通しして!」
ミエルが到着を知らせてくれたので、二つ返事で許可したのだが……何だか違和感がある。姉夫婦が帰って来たのに、それを「お客様」とは……。
不審に思っていると、彼女が人を連れて戻って来た。しかし……そこにいたのは姉夫婦ではなく、何とグラスではないか。
待っていたショコラの側にはファリヌがいたのだが、彼はミエルを目配せで呼ぶと耳打ちをした。
「…ならば、侯爵が来たと言いなさい!」
「ええっ⁉ご存知だったから、すぐに通されたんじゃないんですか⁇……第一、サロンにもお呼びしているんですもの。お連れしてはいけないとは思わなくて……」
「……きちんと確認しなかった私もいけませんでしたね。」
使用人二人がコソコソと話している事は気にも留めず、グラスは笑顔でショコラの方へやって来る。
「こんにちは、ショコラ嬢!おや?来ると言っていないのに、お茶の用意をしてくださっていたのですか?」
……そんな訳が無かろう。心が読めるわけでもなし……。何でも都合の良い方にとる、グラスはいつもの調子である。
ショコラは苦笑いをした。
「いえ、これはお姉様たちのお迎えの用意ですわ。もうすぐこのお屋敷へ戻っていらっしゃるので。……ご一緒なさいますか?」
「よろしいのですか?お邪魔しても。」
社交辞令で誘ってみたのだが、“遠慮する”という事を、彼も一応は知っているようだ。
『……そういえば。私が侯爵様に懐くまでは、お姉様には必要以上に近付かないと宣言なさっていたわね。それなら、問題無いわよね。』
ならばここは一つ、広い心で受け入れる事にしてみよう。こういう時こそ、「余裕」を実践するいい機会ではないか。
今度はにっこりと微笑んで返した。
「友好的にして頂けるのなら、どうぞ。」
「ではお言葉に甘えて。」
ちゃっかりと参加しようとするのは、まあ、ご愛嬌としよう。
それはいいとして……
「ところで侯爵様、今日は何をしにこちらへ⁇」
「特別な用事がなければ来てはいけませんか?仕事の前に少し、貴女とたわいもないお喋りがしたかっただけですよ。」
「はあ……。」
……彼は度々、ショコラが返答に困る事を言う。今のは“普通のご令嬢”ならば舞い上がるような言動、なのだろうが……。どう返すのが正解なのか分からない。
とりあえずお茶をしながら、そんなとりとめのない話をしている間に、今度こそフィナンシェたちが帰って来たようだ。――が、見慣れない人影を連れている。
「おお――!グラスまでいるじゃないか‼久し振りだな!!」
その人物は、こちらへ向かってブンブンと腕を振っている。まだ遠くにいるのだが……ここまではっきりと届く声は、異様に大きい。ショコラは少し驚いて固まってしまった。
「こちらがショコラ嬢か!噂通り、可愛らしいな‼」
近くまで来てそう言うと、彼は豪快に笑った。上着を肩に掛け、タイはおろかシャツの上部はボタンすらきちんと留められていない。貴族のようだが、実に緩い格好をしたその人物は、変に気取ったところが無い。がたいも良く、日に焼けた肌が何とも健康的だ。
どことなく、誰かを彷彿とさせるような……
「…悪いね、ショコラ。彼は古くからの友人なんだ。私たちが領地から戻る際に、ついでだから一緒に行くと言って……。」
クレムがさっとショコラの側まで来て、説明を始めた。彼女が戸惑っているのを見かねたようだ。
そして“友人”に促す。
「ほら、急に来たんだから、まずは挨拶くらいしたらどうだ?」
「おお、そうだった!これは失礼。」
すると彼は、ハッとしてぱぱっと身を整えた。
「私は、ゴーフル・グルナッド・カルヴァドスと申します。侯爵で、海上師団団長をしている。お見知りおきを!」
そして今度は少年のように、ニッと笑う。
そうだ、何だか誰かに感じが似ている……と思ったら、叔父のジャンドゥーヤだ。二人が話をすれば、きっと気が合うに違いないとショコラは思った。そう考えると、何だか急に親しみが湧いて来る。
「はい!よろしくお願いいたします。わたくしは、ショコラ・フレーズ・オードゥヴィですわ。」
ゴーフルは握手をしようと手を差し出している。ショコラは笑顔で、その手を取った。
そんな様子を、例のごとくグラスは何とも言い難い表情で見ていたのだが……それは、ここ最近の拗ねたようなものとは少し違うように見える。そういえば、彼らの姿が見えてから、あのグラスが一言も言葉を発していない……。
ショコラは少し気になった。
「グゼレス侯爵様?どうかなさいましたか??」
「いえ、別に。お気になさらず。」
珍しく、表情が硬い。それをゴーフルが笑い飛ばした。
「何だ何だ、グラスのやつは相変わらず気障やってんのか!アッハッハッハ!」
グラスは無理やり笑顔を作って、ぐっと何かを堪えていた。
――どうやら彼は、ゴーフルの事が苦手なようだ。怖いものなど何も無いようなグラスにも、そんな人がいたのか……。ショコラは驚いたが、同時に少し面白いとも思ってしまった。
そんな時、また新たな人の気配がした。
「――団長!!こちらにおられましたか‼」
威勢のいい声が響く。その方向を向くと、ぴんと背筋の伸びた凛々しい女性が颯爽と歩いて来る姿が見えた。
ゴーフルのように健康的で血色が良く、こちらも上着はボタンを外して少し緩めの格好だ。……それによく見てみると、彼とよく似た服装をしている――…
「コンフィか!こんな所までどうした?」
彼女はその声を無視して真っ直ぐ来ると、ショコラたちの方を見た。
「皆様、お騒がせして申し訳ありません。私は海上師団団長補佐、子爵のコンフィ・パステック・パスティスと申します。」
まずはじめに挨拶をすると、コンフィはギロリとゴーフルを睨んだ。
「――…“どうした”ではありません。団長、勝手な行動は慎んで頂くよう、何度言えばお分かりか?」
「……すまん…」
その圧に、それまで大きな声で堂々としていたゴーフルがたじたじとし始めた。そして何だか、少し縮んでしまったようにも見える……。
ショコラは、彼女の方へと声を掛けてみた。
「……コンフィ様は、女性で子爵で、海上師団の団長補佐をなさっていらっしゃるのですね?」
するとコンフィは鋭かった目を緩め、ショコラの側まで来て柔らかい表情で優しく返した。
「貴女がショコラ様ですね?お初にお目に掛かります。ええ、私は伯爵家四兄妹の三女ですので、好きなようにさせて貰っているのです。この立場にもなると、“伯爵令嬢”では箔が付きませんからね。子爵位を賜ったのですよ。貴女のお噂は伺っております。ショコラ様も、まずは子爵位を得るとよろしいでしょう!いずれ公爵様になられるのであれば。」
溌溂として、物言いがとても気持ち良い。その生き方もそうだが、ショコラが今までにまだ出会った事のない性質の女性だ。
思わずほうっと見惚れていると、次の瞬間彼女は、ゴーフルの首根っこをガシッと掴んだ。
「さあ、行きますよ。団長会議に遅れます!私が来たのは、そのために決まっているでしょう‼」
「久々に王都へ来たのだから、ショコラ嬢に挨拶をと思っただけだ!すぐに行くつもりだった‼」
「言い訳は結構!」
更に小さくなって、あの豪快だったゴーフルが、今やまるで捕まえられた子猫のようだ……。
どうやら彼は、このままここを去る事になるらしい。それをグラスは、晴ればれとした笑顔で見ながら言った。
「苦労なさいますね、コンフィ嬢。」
その直後。コンフィは一瞬、さっきのゴーフルに対する“ギロリ”よりも黒い気を放つ目で彼を睨んだ。
しかしスッと笑顔になると、乾いた笑いと共に冷たい声で返した。
「ははは。……グゼレス侯爵。その呼び方、次は海に沈めますよ。」
声に感情が乗っていない。目が笑っていない……。どうやら「コンフィ嬢」という呼び方は、禁句だったらしい……
「グラスよ!コンフィは本気だぞ!俺も何度投げ入れられた事か‼ハハハッ!」
グラスは固く口を結んだ。彼が、女性に黙らされてしまった。そして、“ゴーフル”というよりも、“海上師団”自体が彼の肌に合わないようである。
「グゼレス侯爵も、急がれないと遅刻なさいますよ。お父上にどやされるのでは?それでは皆様、失礼!――あ、ショコラ様!いずれ貴女が海を移動なさる際は、我々海師がお護りいたします!私がいますから、ご安心を‼」
爽やかな言葉を残し、彼女はゴーフルの首根っこを掴んだまま彼を連行して行った。その姿すらも、コンフィは清々しかった。
「……では、私もそろそろ行かないと……。フィナンシェ様、ショコラ嬢、……あと伯爵も。また今度。」
グラスは渋々立ち上がると、走ってゴーフルたちを追い掛けた。
「――貴方が海に投げられるのは、彼女にしつこく求婚し続けているせいでしょう??」
「ム!それは言うな!!あと、お前も人の事は言えんだろうが!」
「五月蠅いですよ!そこの侯爵二人!!」
「……ハイ……。」
――賑やかな人たちが、帰って(?)行った。
三人を見送ったショコラは、世の中には色々な人間がいるのだなあと思った。改めて、自分の知っている世界は何て狭いのだろう、とも……。
サロンを始めたはいいものの、いつも同じような面々を集めて屋敷の中にいるだけでは、これまでの生活と大して変わらないのではないだろうか。
するとその時、ショコラの頭の中にぱあっと一つの案がひらめいた。
それは“やりたい”事を考えていた時にはまだ、もやもやとしてはっきりとは浮かんでいなかった事だ。しかし、ゴーフルとコンフィに出会った事で、くっきりと見えるようになったのだ。
「――ファリヌ!決めたわ。サロンは少しの間、お休みします。」
「お休み、ですか?」
始めてからさほど経っていないサロンを急に休みにする、とは……。突然の発言には多少慣れたものの、ファリヌはショコラの考えが掴めないでいた。
「お休みして、どうなさるおつもりですか?」
彼女はニコッと笑った。
「私、これから色々な所へ旅に出ようと思います‼」