「“旅”、ですか??」
ショコラの心境の変化の過程を知る由もないファリヌたちには、それは突飛な発言に思えた。なぜ急にそんな事を言い出したのか……。
「もちろん、ずっと行ったきりという訳ではないわ。お屋敷でしなければならない事も沢山あるし……。行ったり帰ったり、を繰り返す事になるかしら。私、少しでも多くの場所へ行って、色々な物を見たり人に会ったりしたいの。それが必要だと、今とても思ったわ!」
「…今、お考えになったのですか??」
この短い間に何がそうさせたのか――…。恐らくはゴーフルとコンフィが関係しているのだろう、という事までは推測出来たが、ファリヌも実のところは測りかねている。
「ええ。でも、前にも言ったはずよ、そうするって。お父様の後を継ぐと決めた時にね。その時が来たと、今思ったの。」
そうだった。ショコラは次期公爵になる事を反対していたファリヌを説得するため、実地で経験を積むと宣言していたのだ。今更おかしな発言、というわけでもない。それに彼女にとって、これは確かに必要な事でもあった。
「――…分かりました。ただ、これはわたくしだけで判断出来る事ではありません。旦那様に了承を得てから、となるでしょう。」
「分かったわ。ではお父様にお話しします。」
これまで父・ガナシュは、ショコラの次期公爵候補としての活動にとりわけ干渉しては来なかった。サロンを始めると決めた時もそうだ。報告をすれば、「そうか、思うようにやってみなさい」と、ショコラの自由にさせてくれていた。
だから今回もきっとそうだ。計画の報告をすれば済むはず。さて、それではまずはどこへ行こうか――…
「――ファリヌ、お前はそれを認めたのか?」
ショコラがファリヌとミエルを連れてガナシュのもとへ行くと、思ってもみなかった厳しい言葉が返って来た。あのファリヌが、思わず竦む。
「……はい。わたくしも、それはショコラ様にとって必要な事であると考えます。」
「“必要だ”という事に異論はない。が、それは今すぐにせねばならない事なのか?お前はそんなに単純な人間だったか?……私の言いたい事は、分かるな。」
ショコラは焦った。簡単にお許しが出るだろうと思っていたのにそうではなかったばかりか、ファリヌが責められてしまう事態になるだなんて……。
「お父様、ファリヌは悪くないわ!全て私が言い出した事なのよ。」
「ショコラ、“それ”自体を駄目だと言っているわけではないよ。私が言いたいのは、簡単に言えば危機管理の事だ。お前にはこの短い間に、急いで跡継ぎ教育を施している。だがそれはあくまでも勉学的な事だけだ。ファリヌ、今日までにショコラに護身術の訓練はさせたのか?当然そこまで手は回しているのだろうな。」
「……いいえ。申し訳ございません……。」
尋ねられたファリヌは、深々と頭を下げた。その顔には苦渋の色が滲んでいる。
「……私はね、ショコラが可愛いばかりに言っているわけではないんだ。もちろんそれもなくはない。ただ、今やショコラはこの家の大事な跡取り候補。知らない土地で何かあってからでは遅いのだよ。外に連れ出す事の多かったフィナンシェには、訓練をさせていた。だがその予定がなかったショコラには、何もさせていない。危ないからとフィナンシェの訓練にも同席させなかった。……ハァ、これは私の失態でもあるが……。とにかく、今すぐにではないだろうと言いたいのだよ。」
その場には重い空気が立ち込めた。ミエルはもちろん、ファリヌも言い返す言葉が無い。
……この話は一先ず流れてしまいそうだ……と、誰もが思ったその時である。
「――…お父様。市街地というのは、そんなに危険な所なのですか……?」
ショコラは難しい顔をして、考え込みながら真面目に質問をする。ガナシュは戸惑いながら答えた。
「え?……あ、ああ、まあ……そうだね。」
「……そうなのですか……。では市井の方々は、そんな危険な中を日々暮らしていらっしゃるのね……。何て大変なのかしら。皆さん武術を心得ていらっしゃるなんて、凄いわ……!」
「…………???」
一体何の話をしているのだろう……と、その場にいたショコラ以外の者はみな一瞬呆けてしまった。
が、ハッと我に返ったファリヌが訂正に入る。彼女は、盛大な勘違いをしているようだ。
「ショコラ様、市街地は別に危険地帯というわけではありませんよ?少なくともこのガトラルでは、皆さん普通に生活をされています。武術も、一部の者しか心得てはいません!」
「えっそうなの??」
目を丸くして、ショコラは大いに驚いている。いや吃驚したのはこっちだ。――そう言いたいファリヌだったが、そんな気力は湧かなかった。
そこへガナシュが、父として優しく諭すように声を掛ける。
「いいかいショコラ。私が言っているのはね、令嬢が市街地へ出る事が、危険だという事なんだよ。姦計を持った人間というのは、治安に関係なくいるものだ。今の状態ならば、警護を何人も付けなければならない。そんな物々しい状態で行くというのかい?」
“他人に迷惑を掛けたくはないだろう?”――彼は、娘の良心にそう訴えかけたのだ。
するとショコラの表情が、パッと晴れやかになった。これには覚えがある……と執事のファリヌは思った。
「なあんだ、そんな事でしたか!要するに、私の素性が分かったら危ない、という事なのですね?」
「ああ……、そうだよ!」
戸惑いながらも、心を鬼にしてガナシュは言い放つ。すると……
「ふっふっふ……。お父様、ならばむしろ“今”だと思われませんか⁇」
ショコラがしたり顔で笑っている。ガナシュは首を傾げた。
「い……“今”??」
「そうです!お父様はお忘れなのではありませんか?私はまだ、あまり顔を知られていないのです!!王宮の夜会へ行った時も、サロンの時だって着飾っていて……私の素顔を簡単に見分けられる方なんて、一体どれだけいるのでしょう?」
――この世界には、人の姿形を広く一般にまで知らしめる方法など無い。肖像画として絵に残したとしても、それを見る事が出来る者はごく限られている。従って、顔を売るには積極的に人前に出る必要があるのだが……ショコラの場合、それを全くと言っていいほどして来なかった。現状、貴族ですらも彼女の顔を知らない可能性があるわけだ。
「サロンに毎回いらしてくださった方ならばもしや……とも思いますが、“姦計”を持った方に果たしてそれが出来るのでしょうか?お姉様のような方ならば、どんな格好をしていてもばれてしまうかもしれないけれど――…私は違います!お姉様の結婚式ですら、簡単には妹だとばれなかったのですよ⁇」
ショコラはえへんと胸を張って自慢する。……それの何が誇らしいのかは、分からないが……。というよりも、どちらかと言えば恥の方である。
だが、使えるものは何でも使うのだ。
彼女は更に父へと訴える。
「私、周りに令嬢だと分からせて歩きたくはないの。同じ年頃の方々が見ているものを、同じように見たいのです。これまでに見た事があるのは、お祖父様たちのいらっしゃる領地かお母様の実家の領地の、“お屋敷内だけ”。後は王宮と……ミルフォイユ様のお屋敷にはこの間行ったけれど、本当の外の事は何も知りません。だから、まだ私の顔が知られていない“今”でないと駄目なのです‼」
その必死の説得に、今度はガナシュの返す言葉が無くなった。顎に手を添えると、「う―――ん…」と悩み始める。
そんな父に、ショコラは畳み掛けた。
「明日明後日にというわけではありません。出来れば来週…もしくは再来週、どこに行くかもまだ決まっていませんし、準備には少し時間が掛かります。その間に最低限の護身術を覚えますわ!外へ出た時も、気は緩めません。お父様、他に足りない事は、何ですか?」
「う―――〰〰〰ん……」
彼はまだ気付いていないようだが、いつの間にか攻守が入れ替わっている。
“足りない事”……。ガナシュは唸りながらも、必死に答えを捻り出す。
「…お前は、市井の娘たちがどんな言動をするのか、知っているのかい?今のお前とは相当違うのだぞ?違和感は不審を抱かせる!」
後が無くなって来た父の言葉は、そろそろ難癖の域に達し始めていた。
しかしショコラは、それにも動じない。彼女は後方を振り返った。そこには、侍女と執事の姿が……。
「ねえ、ミエル!貴女はここで生まれ育ったけれど、侍女を始める前に、一度このお屋敷を出て外の寄宿学校へ行っていたのよね?」
「え…ええ、そうですわ。」
急に話を振られ、戸惑いながらもミエルは頷いた。
「そこには、一般家庭から来ていた方も大勢いらっしゃったのよね。」
「はい、その通りでございます。」
「ファリヌも、男爵家の出身だけれど小さい頃は地元の学校へ通っていたと聞いたわ。」
「両親が、そういう主義でしたので。」
ファリヌもその言葉に頷く。
そうしてわざわざ二人に確認を取ると、ショコラはガナシュの方へと向き直った。
「お父様、この二人がいればそれは大丈夫です!市井の振る舞いをきっちりと指導してくれるはずですわ。そうよね?」
「…っ!勿論でございます。ショコラ様がそうお望みとあらば。」
ミエルとファリヌはハッとして、ショコラに向けて最敬礼をする。――そんな光景を前に、難癖さえも尽きてしまった。
ガナシュは深く息を吐く。
「………………参った。」
降参だ。
ついに、あの父をも折らせてしまった瞬間である。
『――単なる我儘ではなく、旦那様までも丸め込んでしまわれたのか……いや、“納得させて”しまわれた、か……』
そこに「希望を見る」のだと――。ファリヌは今更ながらに、家令の言っていた言葉の意味を噛みしめていた。
「分かった、ショコラの意向を認めよう‼ただしだ!ファリヌとミエルが同行するのはもちろんの事、一人、離れた所からの警護を付ける。これは譲れない!いいね??」
降参したガナシュだが、彼だって全面降伏という訳には行かない。認めたとはいえ、それには当然条件が付く。――だがそんな条件、ショコラにとってはお安いご用である。
「分かりました‼もちろんですわ、お父様!!」
二つ返事で了承すると、ガナシュの部屋を出ながら彼女は、早速ファリヌとミエルにそれぞれ指示を出し始める。
「ファリヌ、今から急いでいつもサロンにお呼びしている方々にお知らせのお手紙を!そうだ、ミルフォイユ様とサヴァラン様には私が自分で書くわ。他をお願いね。」
「承知いたしました。旅先の候補地も、選定いたします。」
「ありがとう。ミエルは、護身術の先生を手配してちょうだい。それと、普通の娘の事を詳しく教えて欲しいわ。」
「かしこまりました、ショコラ様!」
「――さあ、また忙しくなるわね‼」
そうと決まれば、すぐにでも準備に取り掛からなければ。何せ、まだ思い付きに近い計画段階なのだ。父からの条件だって、今すぐにでも手を付けなければならないだろう。
ショコラの心はもう、すでに先へと向けて動き出していた。
嵐が去ったような執務室で、ガナシュはぽつりと呟く。
「……それにしても、こうと決めた事への執念というか行動力というか……あの子の機転には凄まじいものがあるなぁ。なあ、ジェノワーズ?」
「頼もしいではございませんか。さすが、旦那様のお子様です。」
「そう言って貰えると助かるよ。」
娘の背中の幻を思い浮かべながら、ガナシュは困ったような嬉しいような、複雑な気持ちになっていた。
「――そうだ、ショコラの警護だが、アイツがいいだろう。年齢的にもな。指示を出しておいてくれ。」
「承知いたしました、旦那様。」
――これから一体どんなものを見て、どんな人々と出会って、どんな事を経験するのだろう――…
そう考えるだけで、ショコラの胸は高鳴った。ここまでのものは、「公爵になる」と決めた時以来の事だった。
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