テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
蒼真が帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
十三段目は鳴らなかった。
階段を上らずに、まっすぐ厨房へ来たからだ。
「なんで、澪のノートを持ってた」
ネクタイを緩めもせずに、蒼真は言った。
酒の匂いはしなかった。今夜は、飲む暇もなかったのだろう。
私は、洗っていた鍋を置いた。
「前の奥様の遺品を整理したとき、捨てるように言われました」
凛の声で、答えた。
「捨てられませんでした。……申し訳ございません」
蒼真の顎が、小さく動いた。
何か言いかけて、飲みこんだのがわかった。
「蒼真さん、何してるの。早く追い出してよ」
厨房の入口に、麗奈が立っていた。
桜色のワンピースのまま、化粧も落としていなかった。
「この人が勝手にやったのよ。私たちに恥をかかせるために。最初から、そのつもりで――」
「黙ってろ」
蒼真の声が、低く落ちた。
「今、家政婦を辞めさせてみろ。門の前に、記者が三人張りついてる。発表会で本当のことを言った家政婦が、その晩に追い出された。……明日の見出しは、それで決まりだ」
麗奈が、唇を噛んだ。
「それに」
廊下の暗がりから、足袋の音がした。
お義母さまが、寝間着の上に羽織をかけて、立っていた。
「この家の使用人を決めるのは、私よ。蒼真、あなたじゃないわ」
お義母さまは、私を見なかった。
蒼真だけを見ていた。
「佐伯さん。お茶を一杯、和館へ。……ぬるめにね」
「かしこまりました、大奥様」
蒼真は、壁を一度だけ拳で叩いて、厨房を出ていった。
*
和館の居間で、お義母さまは仏壇の前に座っていた。
私は、湯呑みを畳の上に置いた。
お義母さまは、手を伸ばさなかった。
「あのノート」
仏壇の、お義父さまの写真を見たまま、お義母さまは言った。
「三冊とも、あなたが持っていたのね」
「……はい」
「前の嫁は、去年まで、陽翔の連絡帳を毎日書いていたわ。幼稚園から戻ってくるたびに、私も読んだの」
お義母さまは、湯呑みを取り上げた。
「あの子の字は、横の線が、少し右に下がるのよ。……覚えてしまうものね。毎日、見ていると」
湯呑みの縁に、唇をつけた。
「ぬるいわね。ちょうどいいわ」
「恐れ入ります」
凛の声で、頭を下げた。
畳についた手袋の指先が、冷たかった。
この人は、何を数えているのだろう。私の字か、私の嘘か。
「下がりなさい」
襖を閉めるとき、お義母さまの背中が、写真に向かって小さく揺れた気がした。
ノートが手元になくてよかった、と思った。
風呂敷に包んだ三冊は、発表会の帰りに、そのまま離れの榊さんに預けてあった。床下は、もう安全な場所ではなかった。
*
十月に入ると、庭の金木犀が一斉に咲いた。
勝手口を開けるたびに、甘い匂いが厨房まで流れこんでくる。
源さんが、毎朝、こぼれた橙色の花を竹箒で掃き集めていた。
家の中は、その匂いとは反対に、日ごとに冷えていった。
上場の話は、中止になった。
新聞の経済面に、小さく、それだけが載った。
それから、電話が鳴りはじめた。
書斎の電話。蒼真のスマホ。和館の電話にまで。
上場を見込んでお金を出した人たちが、返してほしいと言ってきているのだと、竪穴を降りてくる蒼真の怒鳴り声でわかった。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「だから、来月には何とかするって言ってるだろ」
「保険の金? あれは、もう――」
そこで、声が途切れた。
もうない。
二億は、春のうちに、会社の帳簿の穴に消えていた。
私の命の値段だったお金。
凛さんの、命の値段だったお金。
鍋の中で、煮物の汁が、ことことと鳴っていた。
*
その週の水曜日、麗奈が一人で出かけた。
堂島の車ではなく、坂の下からタクシーを呼んでいた。
戻ってきたのは、夕方だった。
玄関で、麗奈は白いパンプスを脱ぎ捨てた。
「凛さん、これ。きれいにしといて」
それだけ言って、和館の客間へ消えていった。
右手の付け爪が一枚、根元から折れていた。
私は、玄関の上がり框に膝をついて、パンプスを拾った。
踵の内側に、土がこびりついていた。
乾きかけた、赤い土だった。
どこかで、見た色だった。
布で拭いながら考えたけれど、そのときは、思い出せなかった。
金木犀の匂いが、玄関まで入りこんでいた。
*
次の週の月曜日、知らない男たちが、庭を歩いていた。
紺色の作業着が二人と、灰色のスーツが一人。
巻き尺を伸ばし、温室の脇から土蔵まで、歩幅で何かを測っていた。
スーツの男の名刺には、開発、という字が見えた。
「坂の上の六百坪ですからね。更地にすれば、低層のマンションが二棟は建ちます」
応接間で、男は図面を広げた。
私は、お茶を出しながら、その図面を見た。
洋館も、和館も、温室も、描かれていなかった。
四角い建物が二つと、駐車場。
陽翔の部屋の窓は、どこにもなかった。
「旦那様。お茶を、お持ちいたしました」
「ああ。そこに置いて」
蒼真は、図面から目を上げなかった。
目の下に、薄く隈ができていた。
そのとき、応接間の戸口に影が差した。
「売らない」
榊さんだった。
ムギのリードを外した手に、まだ朝の散歩の土がついていた。
「兄さん。ここは僕の家だ」
「この家は、まだ父の遺産を分け終えていない。義母が半分、お前と俺が四分の一ずつ。全員が判を押さなければ、一坪も売れない」
榊さんは、図面を見下ろした。
「俺は、押さない」
「……なら、裁判で分けてもらう」
蒼真が、立ち上がった。
「家を分けられないなら、売って金で分けろって、裁判所に言わせる。競売にかけたら、兄さんの取り分なんか、いくらになるかわからないぞ」
「やってみろ」
榊さんの声は、少しも上がらなかった。
「裁判になれば、父の遺産の中身が、一つ残らず書面に並ぶ。父が何を書き残したかも。……それが全部出るまで、俺は何にも判を押さない」
スーツの男が、図面をそっと丸めはじめた。
男たちを門まで送ったあと、廊下で榊さんとすれちがった。
榊さんは、足を止めずに、私にだけ聞こえる声で言った。
「あの図面に、坊ちゃんの部屋はなかったな」
「……はい」
「なら、描かせない」
それだけ言って、榊さんは勝手口から庭へ出ていった。
私は、お盆を胸に抱いたまま、その背中が金木犀の向こうに消えるまで、動けなかった。
*
その日の夕食は、静かだった。
お義母さまの箸の音と、陽翔がぴょんたを膝に乗せ直す衣擦れだけが、食堂に響いていた。
蒼真が、グラスを置いた。
「母さん。二十五日に、親族会議を開く」
お義母さまの箸が、止まった。
「叔父さんにも、多恵子叔母さんにも来てもらう。顧問の倉橋先生にも。母さんと僕で、四分の三だ。叔父さんたちの前で筋道を立てれば、あいつだって、いつまでも逆らえない」
「売るために、親戚を呼ぶの」
「家を守ってる場合じゃないんだよ」
蒼真の声が、上ずった。
「会社が潰れたら、母さんの暮らしだって終わりだ。わかってるのか」
麗奈は、自分の皿の上の人参を、フォークの先で転がしていた。
口元だけが、薄く笑っていた。
「……パパ」
小さな声がした。
陽翔が、ぴょんたの耳を握りしめて、蒼真を見上げていた。
「このおうち、なくなるの?」
誰も、答えなかった。
私は、空いた皿を下げる手を止めなかった。
止めれば、陽翔のそばへ行ってしまう。
なくならないよ、と言いたかった。
あなたの帰る家は、ここだよ、と。
凛の口は、何も言えなかった。
「お茶を、淹れ直してまいります」
それだけを言って、厨房へ下がった。
急須を持つ手が、震えていた。
*
ほうじ茶を、少しぬるめに淹れた。
食堂に戻ると、陽翔はもう席にいなかった。
麗奈もいなかった。
お義母さまと蒼真だけが、向かい合って座っていた。
お義母さまの前に、湯呑みを置いた。
お義母さまは、それを両手で包んで、一口だけ飲んだ。
「蒼真」
湯呑みを、茶托に戻した。
かちり、と小さな音がした。
「この家を売るくらいなら、私が燃やすわ」
コメント
1件
読み終えたわ…第51話、重かった。金木犀の甘い匂いとかえって冷えていく空気の対比がたまらなくて、そこがすごく好き。榊さんの「なら、描かせない」は今回の一番の胸熱ポイント🔥 「私が燃やすわ」で終わるお義母さまの静かな覚悟も、震えたわ。蒼真の追い詰められ方がちゃんと経済面や親族会議で描かれてるから、単なる悪役じゃないリアルさがあって良かった。凛さんが陽翔に「なくならないよ」と言えなかった場面、泣くかと思った…。次、どうなるんだろう。続きが気になりすぎる!!