テラーノベル
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春が終わり、雨の季節が訪れていた。
研究施設の窓を、静かな雨音が叩く。
朔水は今日も研究室で絵本を読んでいた。
「父さん。」
「なんだ。」
「海って、本当にこんなに青いの?」
絵本に描かれた広い海を指差す。
博士はその絵を見つめ、小さく笑った。
「ああ。」
「晴れた日は、もっと綺麗だ。」
「見てみたいなぁ。」
「……。」
博士は返事ができなかった。
この施設から出られない朔水に、その景色を見せてやれるか分からなかったからだ。
「いつか。」
ようやく口を開く。
「いつか、一緒に見に行こう。」
「約束?」
「ああ。」
「約束だ。」
朔水は嬉しそうに小指を差し出した。
「ゆびきり!」
博士も静かに小指を絡める。
「約束。」
二人だけの、小さな約束だった。
しかし、その約束が叶う日は訪れない。
翌週。
博士は理事会へ呼び出された。
会議室の空気は重い。
机の上には、一枚の書類。
《PROJECT CHIMERA》
その文字を見た瞬間、博士の表情が変わる。
「……始めるつもりですか。」
理事長は淡々と頷く。
「融合実験は次の段階へ進む。」
「候補者は。」
博士は答えを聞きたくなかった。
それでも理事長は迷いなく言う。
「朔水。」
「年齢、身体能力、免疫値。」
「すべて基準を満たしている。」
「却下します。」
博士は即座に立ち上がった。
「この子は研究材料ではありません。」
「私が育てています。」
「情が移りましたか。」
理事長の一言が胸を刺す。
「先生。」
「あなたは研究者です。」
「父親ではありません。」
博士は机を叩いた。
「私は……!」
叫びかけた言葉を飲み込む。
理事たちの冷たい視線が突き刺さる。
「反対しても決定は変わらない。」
理事長は書類を差し出した。
「被験体登録番号。」
そこには、冷たく印字されていた。
No.0124
博士はその紙を見つめたまま動けなかった。
123
Smile
14,812
264
16
名前ではない。
一人の子どもが、数字へ変えられた瞬間だった。
その日の夜。
朔水は眠っていた。
博士はベッドの横へ座る。
穏やかな寝息。
安心した寝顔。
「……朔水。」
そっと前髪を撫でる。
「私は、お前の父親になりたかった。」
涙が頬を伝う。
「名前を付けた日。」
「約束したんだ。」
「守ると。」
「なのに。」
拳を握り締める。
「守れそうにない。」
声を押し殺して泣く。
泣けば泣くほど、自分の無力さが胸を締め付けた。
その時だった。
「……父さん?」
眠っていたはずの朔水が目を開ける。
博士は慌てて涙を拭う。
「起こしてしまったか。」
朔水はベッドから降りると、博士の前へ歩いてきた。
小さな手で博士の頬に触れる。
「泣いてる。」
「……。」
「痛いの?」
博士は首を横に振る。
「違う。」
「じゃあ。」
朔水は少し考え、ぎゅっと博士を抱きしめた。
「大丈夫。」
「ぼくがいるよ。」
博士は目を見開く。
守るべき子どもに、慰められている。
「……ありがとう。」
朔水は笑う。
「父さんは笑ってる方が好き。」
その一言で、博士の涙は止まらなかった。
数日後。
施設内放送が鳴る。
『被験体登録を開始します。』
朔水は何も知らず、博士の隣を歩いていた。
「今日は何するの?」
「少し検査だ。」
「すぐ終わる?」
「……ああ。」
嘘だった。
検査室へ入る。
そこには理事会と研究員が並んでいる。
朔水は少し緊張して博士の白衣を握る。
「父さん。」
その呼び声に、部屋の空気が凍りついた。
理事長が冷たく言う。
「先生。」
「公私混同は困ります。」
博士はゆっくりと朔水の手を離した。
胸が張り裂けそうだった。
それでも白衣を着る以上、研究者でいなければならない。
「……被験体。」
その一言が出ない。
朔水は不安そうに見上げる。
博士は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
「……No.0124。」
静かな声だった。
その瞬間。
朔水の表情から笑顔が消えた。
「……え?」
「父さん?」
博士は何も答えられない。
理事長が満足そうに頷く。
「本日より、朔水の識別名を廃止する。」
「以後は被験体No.0124として管理する。」
朔水は理解できなかった。
「ぼく……。」
「朔水じゃ、ないの?」
誰も答えない。
博士だけが拳を強く握り締めていた。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
それでも声を上げることはできなかった。
朔水は震える声で、もう一度だけ尋ねた。
「父さん。」
「ぼくの名前……なくなっちゃったの?」
博士は俯いたまま、小さく呟く。
「……すまない。」
その謝罪は、朔水には届かなかった。
その日から施設中の誰もが、少年を「No.0124」と呼ぶようになる。
名前を失った少年と、名前を呼べなくなった父親。
二人の間に、研究者という冷たい壁が築かれてしまった。
しかし博士は、その夜、誰もいない研究室で一枚の紙に静かに書いた。
「朔水」
そしてその紙を引き出しの奥へしまい、涙をこぼしながら呟く。
「お前は、誰が何と言おうと……私の息子だ。」
コメント
1件
ぁ……読み終わったあと、しばらく動けなかったよ。 「朔水」って名前が、数字で塗り潰されていくのが本当に辛かった。 博士が父親でありたいのに、研究者の壁を越えられない苦しみがひしひしと伝わってきた。 「父さんは笑ってる方が好き」って言う朔水くんの優しさが、逆に胸を締め付ける……。 名前を守れなかった大人の無力さと、それでも「息子だ」と叫ぶ博士の想いが、切なくて尊かったです🥀