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hotaru🌙
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前日の夜の事。
月明かりが静かに照らす池の畔で、目黒は足を止め、低く重みの有る声で切り出した。
「もし…お前が良ければなのだが──共に此の屋敷から出ないか?」
「え…、っ?」
「私は、目黒家の家督を放棄するつもりだ。」
ラウールは呼吸を忘れ、目黒を誘導する腕に思わず力が入った。当主としての責務、目黒家の血筋、それらを全て投げ打つという言葉の重みに、一瞬耳を疑う。
「御館様…其れは、」
戸惑い混じりのラウールの声が、夜風に消えていく。目黒は其の言葉を遮る様に、静かだが拒絶を許さない声で呟いた。
「聞け。」
「、はい…。」
ラウールは固唾を飲み、差し出していた肘に僅かに力を込めた。暗闇の中でも、主が語ろうとしている覚悟の異様さがひしひしと伝わってくる。
「此の目の事もある。唯…何より、朔乃嬢には亮平の様な存在が良いと思ってな。」
「………。」
目黒は双眸を庭園の奥へと向けた侭、淡々と言葉を紡ぐ。朔乃と亮平、互いを想い合い乍らも立場に阻まれていた二人を、目黒は見過ごせないでいた。
「寧ろ良いきっかけだと思っている。私は、元々異国へ渡りたい…と思っていた。」
不意に溢れ出た其の言葉に、ラウールは息を呑み、思わず主の横顔を見つめ直した。
「…思っていた…?」
過去形で語られた夢。当主として家柄に縛られ乍らも密かに抱いていた遠い国への憧れ。其れが今は別の『何か』に取って代わられたのだと、ラウールは瞬時に悟った。
目黒はゆっくりと、実像の結ばない瞳をラウールの方へと向けた。其の瞳には光量しか映っていないものの、揺るぎない確信と熱が宿っていた。
「お前だけに伝えておく。私は、康二と共に此の先の人生を歩みたい。そして──お前を自由にしてやりたい。」
「!」
息を呑むラウールの胸の奥が、熱い塊で満たされていく。
「当主としての最後の権力を使ってでも、せめてお前の夢くらいは叶えてやりたい。…如何だ、『ラウ』?」
くっ、と持ち上げられた目黒の口角。其れは幼い頃、大人達の目を盗んで二人で悪巧みを考えた時と全く同じ、無敵な微笑みだった。そして添えられた、昔の愛称。
ラウールは溢れそうになる感情を飲み込むように、ふっと肩の力を抜いた。
「──もう…本当しょうがないなぁ、『蓮様』は。」
完璧な執事としての仮面が剥がれ落ち、表情も口調も柔らかく解けていく。ラウールはきっちりと整えられていたブロンドの髪を雑に掻き上げた。
「もし…もしだよ?互いの夢が叶わなかったらさ、二人で異国行っちゃおうよ。なーんにも気兼ねなく転々としたりしてさ。」
「ふっ…悪くないな。」
静かな笑みを交わし合った後、ラウールは姿勢を正し、何処迄も真摯な瞳で目黒を見つめた。
「でも、此れだけ言わせて欲しい。」
「ん?」
「蓮様には──」
「…兄様は此の先、如何するおつもりですか。」
弟の問いに、目黒は胸元にそっと手を添える。そこには内ポケットに大切に収められた、あの男との出会いのきっかけとなった銀の時計が静かに稼働していた。
「私には、私の生きたい場所が在る。」
「そんな事、許しません!」
母の甲高い叫び声が執務室に響き渡った。
「先代から何を託されたと思っているのです!伯爵家当主として目黒家を背負う事こそが、貴方に与えられた唯一の務めでしょう!」
(唯一の…か。)
勝手に定められた運命の言葉に、目黒はふっと嘲笑を一つ。最早母に対して何も言う事は無いと理解して不意に立ち上がると、ラウールがすかさず差し出した肘に目黒は慣れた手付きで静かに手を添えた。
「…行くぞ、ラウール。」
「はい。」
目黒はラウールの誘導に従い、迷いのない足取りで向きを変える。ラウールの片手には全員の死角である長机の下から引き出した二人分の鞄。
「待ちなさい、蓮!…ちょっとラウール、貴方まで何故荷物を持っているのです!」
母の金切り声がラウールへと向かう。ラウールは足を止め、深々と一礼だけを返した。
「大奥様、私は蓮様専属の執事で御座います。蓮様がお望みの場所が在るのなら、私は何処迄も御供致します。」
「な…ッ、揃いも揃って狂ったのですか!?」
「兄様…ラウール…。」
亮平の声を受けながら、目黒は静かに懐へ手を入れた。
取り出したのは、長年大切に持っていた銀の懐中時計。亡き祖父から譲り受けた形見をラウールに導かれる侭、亮平の掌へ静かに託した。
「持っていろ。…もう、私には必要無い。」
「兄様…っ」
「──これは全て、私の意志だ。」
《今迄済まなかった。…勝手を赦せ》
次いで不意に呟かれた目黒の言葉に、亮平は目を見開く。目黒はラウールの肘をしっかりと掴み直し、二人は歩みを進める。
「この恥晒し!!もう二度と此の家の敷居を跨ぐ事は赦しません!」
母の罵声を背に、扉の前で目黒の足が僅かに止まった。
「…そう案じなくとも、」
背越しに落ちる、静かな声。
「──『俺』の方から、願い下げだ。」
執事長は何も云わずに重い扉を押し開ける。
目黒はラウールに歩調を合わせ、二度と振り返る事無く力強い一歩を執務室の外へ踏み出す。 重厚な扉がゆっくりと音を立てて閉まっていく。
廊下を進み乍ら、目黒はほんの僅かに口元を緩めて呟いた。
「………やっと、俺の人生を生きられる。」
「…長かったね。」
「ラウール、巻き込んで済まなかったな。」
「ううん、寧ろ清々したよ!もうこんな所さっさと出ちゃおう!」
「そうだな。」
肩を並べて門扉の外へと目指す二人。
敷地から一歩外へと踏み出す境界線で、目黒はふと足を止める。
「…蓮様?」
不思議そうに振り返るラウールの気配を感じ乍ら、目黒は手にしていた木製の杖を持ち上げた。
指先で柄の感触を確かめる。丁寧に研磨された滑らかな木肌、手に伝わる余計な重み。
華族に対してしっかりと仕立てられた其れを静かに握り直す。
「…今から平民として生きるなら…此れは、不相応だな。」
何処か晴れやかな声。迷いの無い動作で手を離すと、カラン、と乾いた音を立てて杖が目黒家の敷地内へと転がっていった。
「ラウ、…少しばかり、お前の腕を頼りにさせてもらうぞ。」
「…勿論だよ。」
伯爵家当主としての目黒蓮と、其の側近として仕えてきたラウール。
二人は今、長きに亘る其の立場を捨て、初めて自らの人生へと歩み始めた。
コメント
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🖤と🤍の心に只々涙 しっかりと歩いていってほしい!!