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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
九月三十日の朝、私は半地下の床板を外した。
大学ノートを三冊、取り出した。
トキさんにもらった、藍の風呂敷に包んだ。ほどけないように、きつく二度結んだ。
首のスカーフを、いつもより少しだけ高く巻いた。
*
渋谷のホテルの宴会場は、天井が高く、冷房が強かった。
舞台の後ろに、大きなスクリーン。
上に、白い字が浮かんでいた。ミカゲ・メソッド認定制度 発表会。
客席の前のほうに、記者の席が並んでいた。
カメラの三脚が、林のように立っていた。
その後ろに、招待された登録スタッフの席。
トキさんがいた。紹介所の二階にいた人たちがいた。数えきれないほどの、働いている手が、膝の上に並んでいた。
最前列の端に、麗奈が座っていた。
桜色のワンピースに、大ぶりのパールのピアス。社長夫人として、隣の役員の奥様に何か話しかけていた。
株主の席に、榊さんがいた。
濃紺のスリーピースで、腕を組んで、舞台を見ていた。
舞台袖の暗がりで、私は作業台の上の道具を確かめた。
白いテーブルクロス。赤ワインのボトル。塩。炭酸水。白い布巾。
風呂敷の包みは、作業台の下の棚に置いた。
「……冷房が強い」
後ろで、低い声がした。
振り向くと、榊さんが立っていた。
株主の席から、いつのまにか、袖の暗がりまで来ていた。
手に、小さな水筒を持っていた。
「白湯だ。始まる前に、一口だけ」
私は、水筒を受け取った。
温かい湯が、焼けた喉の引きつれの上を、ゆっくり下りていった。
「手が、震えています」
正直に、そう言った。
榊さんは、私の手袋の手を見下ろした。
「震えていてもいい。……その手は、覚えている。五年分も、十年分も」
それだけ言って、榊さんは客席の暗がりへ戻っていった。
*
照明が落ち、スクリーンが明るくなった。
舞台の真ん中に、蒼真が立った。
白いシャツに、ネイビーのジャケット。左の手首に、腕時計が光っていた。
「家事は、誰か一人が背負うものじゃない」
よく通る声だった。
右の頬に、えくぼが浮かんでいた。
「僕は会社を作ったとき、全国の現場を自分の足で回りました。家事のプロの方々の手元を、一つ一つ見せていただいた。……ミカゲ・メソッドは、そうして、僕が現場を回って作ったものです」
記者席で、シャッターの音が重なった。
「亡くなった妻も、家事の好きな人でした。今日は、妻の事故から奇跡的に生き残った方に、実演をお願いしています。妻と同じ仕事を、ミカゲ・メソッドで続けている方です。……佐伯凛さん」
拍手の中を、私は作業台の前に立った。
妻と同じ仕事を。
そうね、蒼真。同じ仕事よ。同じ手が、しているのだから。
「よろしくお願いいたします」
凛の声で、客席に頭を下げた。
頭上のカメラが、作業台の上を真上から映していた。
私の手袋の手が、後ろのスクリーンに、何倍もの大きさで映った。
*
白いテーブルクロスに、赤ワインを注いだ。
赤い染みが、ゆっくりと布に広がった。
客席から、小さなどよめきが起きた。
「ワインの染みには、まず塩をのせます」
マイクに向かって言った。
低く、かすれた、凛の声で。
塩の山を、染みの上にこんもりとのせた。
右手だけを使った。カメラの下で、左手は一度も台の上に出さなかった。
「こすりません。塩が、赤いものを吸い上げるまで、待ちます」
白い塩が、じわじわと桃色に染まっていく。
待つあいだに、私は作業台の下の棚から、風呂敷の包みを出した。
結び目をほどき、一冊目のノートを、カメラの下に開いて置いた。
スクリーンに、手書きの文字が大きく映った。
ワインの染みには、まず塩。こすらない。
右に上がらない、癖のある字だった。
「このやり方は、ある女性が、手書きのノートに書いたものです」
客席が、静かになった。
「前の奥様の遺品を整理したとき、拝見しました。捨てるように言われましたが、捨てられませんでした」
ノートの表紙を、カメラの下で閉じて見せた。
家事ノート。白瀬澪。
日付は、五年前の三月。
「一冊目は、ご結婚前のお名前でお書きになっています」
三冊目の表紙を、隣に並べた。
御影澪。
「三冊とも、同じ方の字です」
それから、一冊目のノートの、ボックスシーツの図のページを開いた。
隣に、会社の冊子の同じページを並べた。
三つ目の矢印が、どちらも逆を向いていた。
ノートの余白に、小さな字。矢印、逆。こっちが正しい。
「書き間違いも、同じでございます」
記者席が、ざわめいた。
最前列で、誰かが立ち上がる音がした。
麗奈だった。
「ちょっと、何なのこれ。凛さん、勝手に何を――」
「社長」
記者の一人が、手を挙げた。
「亡くなった奥様のノートが、ミカゲ・メソッドの原典ということですか。社長が現場を回って作ったというお話と、違うようですが」
舞台の端で、蒼真が笑っていた。
笑ったまま、マイクを持つ手が、下がっていた。
「いや、それは……妻のメモを、参考にしたことは……」
「五年前の最初の研修で、このノートのコピーをもらいました」
客席の後ろから、声がした。
白髪の女の人が、立っていた。
「余白に、ここ大事って書いてあった。同じ字よ」
隣の人が、立ち上がった。
その隣も。また、その隣も。
働いている手を、膝から下ろして。
三十人以上の家政婦が、客席の後ろで、一斉に立っていた。
最後に、トキさんが立ち上がった。
小さな体で、割烹着の上に羽織った紺の上着の襟を、きゅっと直した。
「現場を回ったって?」
マイクもないのに、宴会場の隅まで届く声だった。
「あんたが現場に来たことなんか、一度もないよ」
*
そのときだった。
舞台袖で、財務担当の役員が、スマホを耳に当てていた。
顔から、みるみる血の気が引いていった。
役員は、舞台の端の蒼真に駆け寄り、耳元で何かを言った。
監査法人、という言葉だけが、マイクに拾われて、宴会場に響いた。
次の瞬間、記者席のスマホが、一斉に鳴り始めた。
一台。三台。十台。
通知の音が、シャッターの音を塗りつぶしていった。
一番前の記者が、画面を読み上げた。
「速報です。ミカゲ・ライフ、売上計上に疑義。……上場承認、見送りへ」
記者たちが、立ち上がった。
カメラが、一斉に舞台へ向いた。
「社長! 架空の売上というのは事実ですか!」
「奥様のノートの件と、関係はあるんですか!」
蒼真は、舞台の真ん中で、動かなかった。
えくぼを浮かべたまま。
左の手首で、私が贈った腕時計が、フラッシュを浴びて白く光った。
私は、テーブルクロスの上の塩を、布巾でそっと払った。
炭酸水を含ませた布で、上から軽く叩く。
こすらずに。何度も。
最前列で、麗奈が、桜色のワンピースのまま立ち尽くしていた。
スクリーンに映った白い布の上から、赤い染みは、跡形もなく消えていた。
*
その夜、和館の自室で、御影貴和子はテレビを消した。
画面の中で、息子は最後まで笑っていた。
笑ったまま、記者に囲まれて、何も答えられずにいた。
貴和子は、帯揚げの内側に指を入れた。
硬い、四角い物が触れた。
銀色の、手のひら大の録音機だった。
去年の十一月の朝、ワインセラーで、リフトの箱の中から拾った。
誰にも聞かせず、誰にも渡さず、毎日、胸に締めて持ち歩いてきた。
再生のボタンを押した。
――来週の別荘で、片をつける。ブレーキは堂島に仕込ませた。
息子の声だった。
貴和子は、目を閉じて、最後まで聞いた。
最後に入っている、誰かの荒い息の音まで。
それから、停止のボタンを押し、録音機を帯揚げに戻した。
仏壇の前に、背筋をまっすぐに伸ばして座った。
「蒼真。あなたはもう、私なしでは立てないわね」
コメント
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うわあ……第50話、痺れました。発表会という舞台で、凛が染み抜きの実演をしながら、蒼真の嘘を一枚ずつ剥がしていく構成が見事すぎて。ノートを広げた瞬間から、家政婦さんたちが一人また一人と立ち上がるシーン、鳥肌立ちました。「現場を回ったことなんかないよ」のトキさんの一声、最高だった……。最後の貴和子さんの録音機も、また新たな伏線を感じさせてゾクゾク。次が気になりすぎます🌙