テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
仙崎ひとみ/九龍
紙吹みつ葉
4
643
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
駅を出てマンションに向かう拓馬の足取りは重い。曇りの所為か、冬で日が落ちるのが早い所為か、まだ午後五時だが辺りは暗くなってきた。間もなく夜を迎える街並みを見ていると憂鬱な気分がさらに深まる。もうすっかり酔いは醒めていたが、気持ちは重く沈んだままだった。
――彩さんの心には、忘れる事の出来ない大切な人がいる。今の俺はその人に勝てる気がしない。大人の俺はどうだったんだろう……。勝てないと思ったからこそ、別れを決意したのか……。
拓馬は明菜の部屋を出てから何度目かの溜息を吐いた。
――明菜さんは本当に俺を好きなんだろうか? 大人の俺はその気持ちを知っていたんだろうか?
「あー無理だ!」
拓馬は堪え切れずに、苛立たしく声を出した。
――俺はどうすれば良い? 記憶は戻る気はしない。そもそも俺の頭の中にその記憶があるのか? 高校時代の記憶はつい最近のように生々しくある。とても七年前の出来事とは思えない。記憶を取り戻すなんて考えられない……。
――じゃあ、どうする? 彩さんと別れて明菜さんと付き合うのか? 大人の俺はそれを望んでいたのか?
「あっ……」
気が付くと、拓馬はマンションに着いていた。とにかく彩と話をしてみようと覚悟を決めて、エントランスに入って行った。
「ただいま」
拓馬は玄関に入ると沈んだ声で帰宅を告げた。
「お帰りなさい」
彩が明るい声で奥から出迎える。その表情から、明菜からは何も聞いていないのだと拓馬は思った。
「連絡が無かったから、夕食を食べてくるのかと思った。用意してなかったから、すぐにご飯作るね」
「あ、ありがとう」
拓馬はコートを寝室のクローゼットに掛けて、ダイニングに戻った。キッチンでは彩が機嫌良さそうに鼻歌で「トランジスタラジオ」を歌いながら夕飯の支度をしている。
拓馬は椅子に腰かけ、彩の後姿をじっと見ていた。昨日までと変わらぬ穏やかな空気が流れている。このまま何も聞かずに過ごせば、彩と幸せに暮らせるんじゃないかと思う。だが、和也の存在を知ってしまった以上、それが出来ない事は分かっていた。
「どうしたの、明菜と何かあった?」
拓馬の様子に気付いた彩が、料理の手を止め向かいの椅子に座って、心配そうに訊ねる。
「あっ、いや……」
いざ聞くタイミングになると、拓馬は言葉が出ない。彩も何か言いたそうな拓馬の空気を察して、何も言わずに待った。
「和也君の事を明菜さんから聞きました」
「えっ……」
拓馬は出来るだけ深刻にならないよう感情を込めずに話したが、彩は驚いて絶句してしまう。
「ど……どんな人だって聞いたの?」
彩の声が明らかに動揺している。
「彩さんの忘れられない大切な人だって……その人が原因で俺と彩さんは喧嘩していたって聞きました」
彩の顔色がどんどん青ざめていく。
「本当の事なんですね?」
彩の様子とは対照的に、拓馬は自分が妙に冷静になっているのを感じた。
「和也君は忘れる事が出来ないくらい大切な人だけど、拓ちゃんも同じくらい大切な人なの」
彩は今にも泣きだしそうな顔になっている。
「それも聞きました。でも一番じゃないんですよね」
「一番よ。和也君も拓ちゃんも二人とも一番なんだよ」
「でも、それじゃあ俺は永遠に単独一位にはなれない。和也君という永遠の一位が居て、同率一位になれても単独一位にはなれない。それが大人の俺には辛かったんだと思う」
拓馬は自分が冷静な理由がわかった。今の自分は大人の自分から分離し客観的に見ているので、当事者意識が薄れているのだ。
「あと、俺は彩さんと別れるつもりだったと、明菜さんから聞きました」
「えっ……そんな、嘘でしょ?」
彩は事故のショックで、明菜に相談の結果を聞いていなかったので驚いた。
「喧嘩して相談にのった時にそう聞いたと明菜さんは言っていましたよ」
彩は小刻みに震えていたかと思うと、「そうなんだ……」と言って上を向いた。涙を見せないようにしていても、目の端からどんどん零れ落ちる。
彩は拓馬に和也の事を告白した時から、振られるのを覚悟していたつもりだった。だが、本心では受け入れて貰えるものだと甘く考えていたのだと悟った。拓馬と別れる事がこんなに辛いとは、彩はリアルに想像出来ていなかった。
とうとう彩は堪え切れずに、ううっとうめき声を上げて泣き出した。