テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
保険証、財布、薄めの単行本、そしてあと一つ。
全て肩掛け鞄に詰め、リビングへ降りた。
身支度は全て済んでいる。あとは朝食を食べて抑制剤を飲むだけ。
キッチンに立つ母へ「おはよう」と声をかけると、丁度目玉焼きとベーコンの乗った平皿がカウンターの上に置かれた。
「ありがとう、いただきます」
「ご飯とお味噌汁も持っていって」
「はーい」
朝のニュースに目をやりながら、程よく端がカリカリに焼き上がったベーコンを齧る。
土曜日のそれには、バラエティーに富んだ特集ばかりが組まれている。
大人になったら、こんなところを一人で旅してみたい。
自然とそう思わせる映像と煽り文句とに心を奪われながら、味噌汁を啜った。
「あ、そうそう。亮平」
「んー?なにー?」
目線はテレビに向けたまま、キッチンからかかった母の声を背中で受け取る。
「今日、病院行く前に薬飲まないでね」
『間も無く、ネモフィラが見頃を迎えます!』
画面いっぱいに広がる水色に見惚れていた時、母は突然そんなことを言った。
「へ…? なんで?」
薬とは、言わずもがな抑制剤のことだろう。
しかし、「飲むな」というのは一体どういうことか。
母の意図を読みきれず、素っ頓狂な声のまま尋ねる他なかった。
「その方がいいのよ」
「…ふーん」
確かに、薬の成分やら抑制の効果やらで、診察に支障が出てしまうとなれば迷惑だろう。
腑に落ちるかどうかはさておき、母がそう言うのであればと、とりあえずはそこまでで納得しておくことにした。
どんな診察が、この身を待ち受けているのだろう。
想像すればするほど、良くないことを言われるような気がしてきて、咄嗟に頭を振るった。
右隣のダイニングチェアの上に置いた鞄の中に手を入れ、そこで眠るものをぎゅっと握った。
「大丈夫よ、私もいつもお世話になってるし、すごく優しい先生だから」
納豆とキムチをコト、と置きながら力強く微笑んでくれた母には、きっとこの先も頭が上がらないだろう。
「出すの忘れてた、もう遅い?」
「ううん、ありがとう。本当に」
軽く肩をすくめて見せてから、母はパタパタとスリッパの音を響かせて脱衣所へと向かって行った。
:
靴を履き、玄関先で「いってきます」と大きめに声を張り上げてからドアを開けた。
「大丈夫、うん、大丈夫」
心地よい春の真っ青な空の下を、ゆったりと歩いていく。
さらっとした風を感じながら、「天気の神秘」なんてものを考えてみる。
空が青い理由。
雲が生まれる条件。
虹がかかる謎と奇跡と常識。
魔法のようで、けれど、その一つ一つにどこまでも現実めいた理屈と理由がある。
そんなところを面白いと思う。
十五分程歩を進めたところで、病院の看板が植え込みの陰からその姿を現した。
自動ドアをくぐり、スリッパに履き替える。
外観は、どこにでもあるような個人病院の趣きをしていたが、割りに中は広く感じられた。そして、明るいクリーム色の壁紙とライトブラウンの板張りを基調とした院内はとても綺麗で、不思議と居心地の良さを感じもした。
中へ進み、受付で保険証を出しつつ、「予約した阿部です」と申し出る。
看護師さんだろうか、白いナース服の上に濃紺のカーディガンを羽織った若い女性はそれを受け取ると、「診察券はありますか?」とこちらへ尋ねた。
「ぁ、えっと、初めてで…」と返すと、A4サイズのバインダーを手渡される。
「じゃあ診察券作るので、太枠のところ書いて、また出しに来てくださーい」
「はい…っ、」
「お好きなところ座って書いていただいて大丈夫ですからねー」
病院で働いている人特有の、語尾を伸ばす少し癖のある話し方には嫌な感じがなく、柔らかさと溌剌とした明るさを感じた。
名前、生年月日、血液型の欄を事務的に埋めていき、一番右端に設けられた「サブクラス:」の横に、大きくも小さくもないサイズで「Ω」と思い切りよく書き込んだ。
薬のアレルギーに関する質問等々に感覚的に答え、最後に抜けがないかを確認してからバインダーを受付へ返却した。
「お願いします」
「はーい、確認しますねー」
「ふん、ふん、ふん…」と鼻息まじりの声出し確認をしながら、看護師さんはレ点の刻まれたチェックボックスの上を、ペン先の出ていないボールペンでコツコツと辿っていく。
「はい、大丈夫です。診察券はご精算の時にお渡ししますねー」
「わかりました」
「そしたら阿部さん検査するので、こちらに着替えていただけますかー?」
「ぇっ、検査…? き、着替えるんですか…?」
「服汚れちゃうので」
「は、はぁ…」
検査着を手渡されると、流れるように受付の奥にある小部屋へと通された。
「ここで着替えていただいて、このカップに精子出してください。終わりましたらそこの台の上にカップ置いて、インターフォンで教えてくださいねー」
「ぇっ…? せ、せぃ…?」
「お時間かかっても大丈夫ですからねー」
「ぁ、ぁの…!時間とかそういうことじゃなくて…!」
「では失礼しますねー」
「ちょッ、ちょっと…っ!」
バタ、と締まり切ったライトブラウンの扉を力無く見つめ、ヘナヘナとその場へ座り込んだ。
──・・・・思い出した。
──検査って…あれか…。
これまでに二回判定診断をしたことがあるが、毎度毎度思う。
俺はこれが大の苦手だ、と。
「…やるしかないかぁ……」
最早それ以外に選択肢はないのだが、それでも諦め悪くぼやき混じりに検査着へ袖を通した。
このゴムズボンは果たして必要なのか?
などと反抗的な疑問を心の中に浮かべつつ、スラックスと下着に手をかけ下に下ろす。その動作が心なしか低速だったのは、言うまでも無い。
もちろん、ゴムズボンは意味がないので履かなかった。
あぐらをかいてみるが、据わりが悪い。
正座ぐらいしか、落ち着けそうな体勢が思い浮かばなかった。
大人しく手を伸ばして触れてみる。
やはり何も感じない。
「感じない」というより、それによって得られる「快感」というものが全くと言っていいほどに無いのだ。
勃ち上がらないどころか、硬度さえ持たない。
それは俺にとって仕方のないことだと。
それは十分にわかっている。
Ωの男性の大半は、陰茎を介した生殖機能が著しく乏しい。
精通はしても、性液の中に含まれる精子量は、ごく少ない。
その代わりとして、成長期頃から精子を受け入れる器官の発育が始まっていくと聞く。
男性の判定診断の概要はこうだ。
採取した精液から精子の含有量を測定し、α、β、Ωに分類されたそれぞれの基準値と照合する。
故に、精通を経るのを待ったのち、15歳の年に一斉に検査をするという理屈だ。
至ってシンプルである。
実際の手順はこんなにも居た堪れないが。
「ん”ぅ”…ぃ”た、ッ…」
焦りが募るせいか、つい強く握り込んでしまう。
一滴さえ溢れないどころか、滲みもしない。
指と骨が擦れては、走る刺激に眉を顰めた。
早く終わりにしたいのに。
淡いオレンジ色のソファーとオフホワイトの床、大小様々の葉を茂らせる観葉植物たち。
気持ちを落ち着かせるにはもってこいの空間だが、いかんせん状況とミスマッチしていると感じるのは、俺だけだろうか。却って気が散ってばかりな気がする。
「ふ…、ん”ぐ、、でなぃぃ”…っぐす…ッ」
いっそ泣きたい。もう泣いてるわ。
どうしよう、どうしよう。
これでは問診はおろか、この部屋から出られないまま日が暮れてしまう。
今まではどうやって切り抜けていたんだっけ、なんてこともうまく思い出せない。
この状況を打破しなければならない。
そればかりを考え続けてあたりを見回す。が、何も無い。
肩を落とす直前、脇に置いていた鞄が目に入った。
ハッとして、二、三度瞬きをしてから両の手の甲で目元を拭う。
気遣いなのか単なる衛生面への配慮なのか、部屋の隅に置かれていたウェットティッシュで手を拭き、鞄のジッパーを開けた。
「ごめん……っ、、…たすけて…っ…」
“それ”を手に取り、おずおずと顔を埋めた。
広げた“白”に覆い尽くされた途端。
「ん…ふ、…ぁ…、ぁ、ぅ…」
満ちていく。眩暈が、するくらいに。
熱が、込み上げて、渦を巻いて。
抑え付けるものなんて、なにもないから。
病院に行くこと自体、怖くて仕方がなかった。
どんなことを言われるのか、全くわからなかったから。
だから、そばにいてほしかった。
“持っててほしい”、そう言ってくれたから。
だからってわけじゃないけど、でも、今日のこの瞬間を、しっかりと自分の足で立ち続けていくためには、どうしてもこの選択肢は捨てられなかった。
お守りになってほしいって、ただそれだけだったはずなのに。
不安な時、朝みたいに握りしめさせてほしいって、それだけの動機だったはずなのに。
「ぁっ…、め、、ぅ…ぉ、く…っふ、ぁ…ッ、」
くしゃくしゃのまま床に放り、そこへ頬を寄せる。
それだけじゃ足りなくって、袖で顔を覆って包まって。
頭から、胸までひれ伏して。
背中の中心から、腰まで高く、突き出して。
そんな姿に「品がない」と思ったことさえ、もう、どうでもいい。
痛みから逃げたくて触れることをやめてしまっていたそこへ、また、手が伸びていた。
いつの間にか硬度を持ちつつあるそれを、右手で包み、緩く扱いてみる。
昨日の体温、昨日の声、昨日の笑顔、その全部で頭の中を、いっぱいにしながら。
“よかった、ありがとう”
“大好き”
“可愛い”
“阿部くん!阿部くん!”
「ん”、、っふ、ぅ”……」
自然と早まっていく掌と指に、体液が絡みつく。
粘り気は、少しある。でも、殆どサラついていて。
溢れるものが切なさに凝縮されているような感覚に、目頭が熱くなる。
どうしたって変えようのないこの体質が俺を悲しくさせるんじゃない。
「ぐす…っ、ぅ、ぁぅッ、っごめ…ッ、ひぁッ…!」
綺麗なあの子を汚してしまっている心地に、勝手に涙が出るんだ。
それでも、俺じゃ、どうにもできなくて。
──中途半端なのは、俺の方じゃんか…っ…。
こんなにも、ままならない。
精通して以来、検査以外でこんなこと、したこともない。
欲求さえ、脳裏を掠めたこともない。
だから、やり方なんか全然分からない。
にち、ぐち…と立つ、寂しい水音を霞ませて、
狂ったように、息をした。
物足りないと、媚びるようにひくついてしまうそこが恨めしい。
縮まないで。
「欲しい」なんて、今はそんなこと思わないで。
ここにあっても、そばにはいないんだもん。
これ以上、悲しくさせないで。
そこに手は伸ばせない。伸ばさない。
触れた瞬間、きっと、泣いてしまう。
昂りと、罪悪感。
茹だり切った頭が見せる幻。
不意に蘇る、額に感じたあの温度に、
「ぁ!?、ァ”、ぁァッ、、く、んぅ”ッ、〜〜ッ…!」
目の奥で、流星が一筋、燃えた。
「はっ、はぁ…っ、ん、、っふ、はぁ、はぁっ…」
手のひらに溜まった「残滓」と言っても過言ではないごく僅かなそれを、カップに垂らす。
息を整えつつ、仰向けに転がった。
「んぅ、、めぅぉく…、ふ…、、」
面影が、ちらちらと、笑いかける。
熱に浮かされるままに擦り付けていた鼻先が、記憶をくすぐって。
“俺の匂い好きなんでしょ?”
真面目腐った問いかけに、夢覚まし。
──…げ。今一番思い出したくないとこ出てきた。
──うるさいバカ。
だが、程よい目覚ましはになった。
くたびれた体を起こし、もう一度ウェットティッシュで念入りに手を拭いてから検査着を脱いで、元の服を着直した。
抑制剤を飲んで一息ついた後、人差し指と親指の先でちまっと摘み上げたカップを銀色の台上に置き、インターフォンを押してから部屋を出た。
母の言うことを聞いておいて正解だった。
もう少しで、本当に立てなくなっていただろうから。
To be continue…
コメント
2件
こういう回も好きです
うわあああ亮平くんの心情がひしひしと伝わってきて胸が苦しくなったよ…😭💔 検査の場面の紧迫感と、あの「白いもの」にすがる切なさがリアルすぎて読んでるこっちまで息が詰まりそうだった。特に思い出したくない記憶がフラッシュバックするところ、めちゃくちゃエモいし亮平くんの葛藤が痛いほどわかる…。もう助けてあげたい気持ちでいっぱいだよ😢 続きが気になりすぎる!!三文小説さん、素敵な描写ありがとうございます🌸✨