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今の状況から逃げたいのは本音だけど、そう簡単に出来る事じゃない。岳紘さんをこのまま避けながら生活することは不可能だし、いつかは向かい合わなくてはいけない。
嫌なことを先延ばしにしてる、ただそれだけで……
「私には逃げる場所なんて、必要ないの。そんな予定は無いんだから」
「予定が無くても、構わない。今の俺に出来ることはそれだけなんですから、好きにさせてくださいよ」
どうしても甘えることが出来ない私に、それでも構わないと奥野君は言う。彼を頼ればいつか奥野君の奥さんに迷惑をかけることになるかもしれない。そう考えれば、出せる答えなんて一つしかなくて。
奥野君をこんな気持ちにさせてしまうなら再会しなければよかったのかもしれない。でも私には彼しか縋れる相手が思いつかなくて。
「麻理先輩は、このことを知ってるんですか?」
「……言えない、話したらきっと麻理は彼を許さないから」
普段は最初に相談するはずの麻理に私はまだ岳紘さんとの事を話せないままでいた。それもある程度は予想していたのだろう、奥野君の「やっぱり」という小さな呟きが聞こえてきた。
麻理に話せていたら、奥野君にこうして会いに来ることは無かったかもしれない。でも……奥野君は夫に別の特別な相手がいることを知っているような口ぶりだったから。だから、あの夜もここに来てしまったのだと思う。
「正直きっとそうなんだろうと思ってました。それでもこうして俺を頼ってくれたことが嬉しいんです、呆れますか?」
「呆れられるような事をしてるのは私の方、奥野君はそれに付き合ってくれてるだけ」
自覚はしている、このままでは間違いなく奥野君を自分の避難所にして都合よく使ってしまう。それだけならまだしも、もしかすると私と岳紘さんのゴタゴタにまで巻き込みかねない。
それだけは避けたかった、奥野君だけでなく狡い自分の為に。
「何ででしょうね? 他の人だったなら絶対適当に誤魔化して逃げるのに、その相手が雫先輩だとそうしたくない。むしろ、自分は運が良いとさえ思ってしまうんですから」
「昔からちょっと変わってるなって思ってたけれど、それは今も変わらないのね」
最初の印象は元気で人懐っこい男子という感じだった。でも関わっていくうちに段々少し独特な考え方をする人だと思うようになった。そんなところも周りには好かれていたようだったけれど。
「誉め言葉ですね、俺はこの性格が結構気に入ってるので」
「……私は、今の自分の事を好きになれそうにない。イジイジ、クヨクヨばかりして全然前に進めていないもの」
私の心の中に常にある自己嫌悪。ああすれば良いのに、こうすれば良かったのにと過去ばかりを振り返り自分を責める。
一番嫌なのは自分の何が良くなかったかを分かっているのに、何一つその後に生かせていないことかもしれない。同じとこばかりをグルグルと回っているようで……
「先輩、覚えてます? 俺が入学したてだった頃、一番に声をかけてくれたのが雫先輩だったって話。あの時は先輩、全然覚えてないって言って笑ってたんですけど」
「そういえば、そんな事も言ってたわね。それがどうかしたの?」
入学したばかりの奥野君が私と同じ部活に入部して、しばらく経ってからだっただろうか? いきなり部活が終わった後に、彼からおかしなことを言われたのは。
あの時も真っ直ぐな瞳で私を見つめて、恥ずかしげもなくこんな事を言い出したのだ。
「雫先輩は俺の憧れです! 明るくて真っ直ぐで、向日葵のような人だって。俺もいつか先輩に頼られるような良い男になって見せますから……って、今思えば結構恥ずかしいこと言ってましたね」
「……そうかしら、十分いい男になったんじゃないかな奥野君は」
奥野君が私に伝えたい事も今なら分かる。あの時一方通行な想いを抱いていた私にも、同じことを言いたかったのかもしれないけれど。
それに気付きもしなかったのは、あの頃の私は自分で思っているよりも周りが全然見えていなかったのかもしれない。
「なら、頼ってくれますか? 今度こそ、俺を」
「それは……」
答えなんて出てこない、自分の気持ちだってあやふやなのに奥野君の質問はあまりに難しくて。そして彼だって気付いてるはずだ、私がそう簡単に首を縦に振れない性格だという事も。
「本当に頑固ですね、雫先輩は。そんなに一人で頑張らなきゃいけない理由ってありますか?」
「無いのかもしれないわ、だけど……」
奥野君から見ても私が意固地になっているだけだと分かるのだろう。誰かに話して助言をもらったり協力してもらった方が良いことは明らかで。
それでもその話を詳しくするという事は、私が夫に一度も女としてもらえなかったことまでも言わなくてはならなくなる。本音を言えばそれが、何よりも辛い。
結婚して一年、ずっと好きだった相手と結ばれたはずなのにそれは表面だけで。私と岳紘さんは心も身体も結ばれないままなのだから、ただ初夜の夜だけが例外なだけ。
「雫先輩を困らせたい訳じゃないので強制はしません。だけど俺は先輩の味方でいつでも力になるつもりだってことだけ、覚えておいてください」
「分かったわ」
最後まで強引に自分の意見を押し通すかと思ったが、奥野君は意外とあっさりと引いてくれた。こういう時自分の意見を曲げようとしないのは、彼ではなく夫の岳紘さんの方だった。
……ルールの事も、それ以外の夫婦の取り決めも。こんな風に私の気持ちを尊重してもらえたのは久しぶりかもしれない。
いつの間に私は、夫に対してこうも自分の本音を言えないようになっていたのだろう? そんな事を考えてボーっとしていると。
「……雫先輩、どうしました?」
「え、ああ。何でもないの、ごめんなさい」