舞踏会の熱狂が、夜空の星々へと吸い込まれていく頃。
王宮の一角では、誰も知らない静かな歪みが生まれていた。
「……本当に、おめでとうございます。王子様」
「……セリーヌ?」
舞踏会の後半、オリビアと離れていた隙を縫って――
王子の背後に、そっと現れたのは金の髪の令嬢、セリーヌ・ミルディナ。
その笑みは柔らかく、まるで過去の一件などなかったかのような無垢な笑顔。
「ご招待ありがとうございました。舞踏会、とても素敵でしたわ」
「……俺は招待していない」
「でも王妃様が“ぜひ出席を”と」
(……母上か)
アルベールは内心で苦々しく眉を寄せた。
セリーヌは外交的に“悪意のない立場”であり、排除しようにも確たる理由がない。
それが彼女の“恐ろしいところ”だった。
「王子様とオリビア様、素晴らしいお似合いのご関係ですね。……でも、ふふ。少しだけ、寂しくもあります」
「……セリーヌ」
「いえ、わかっておりますわ。私はただの過去の客人――
でも、どうかお気をつけください。貴族の世界で最も怖いものは、“祝福の裏の噂”ですから」
そう言って、セリーヌは一礼すると、今度こそ本当にその場を後にした。
***
同じころ。
オリビアは、控室で鏡に映る自分の姿を見ていた。
ドレスの裾は少し乱れていたが、髪飾りは美しく、王子と踊った余韻が頬を染めていた。
けれど、ふと扉の前を通り過ぎる侍女たちの会話が耳に入る。
「……あの方よ、ほら、“王子様の心を奪った白い令嬢”って」
「でも、聞いた? オリビア様って、王子様に“婚約破棄を持ちかけてた”って」
「うそ……ほんとに?」
「だって、最初は全然話してなかったんでしょう? それが急に恋人に……」
「“魔女の血筋”とか“魅了の魔法”とか、そういうのじゃないでしょうね」
(……っ)
その瞬間、胸の奥がざわめいた。
(また……だ。過去のことが、今になって私を追いかけてくる)
もしかして、王子様も――
あのときの「私の告白を遮った」のは、本当は迷っていたのでは?
(……こんなこと、考えたくないのに)
けれど、笑顔の下にじわじわと広がっていく不安は、
まるで毒のように、静かに心を蝕んでいった。
***
その夜遅く。
王子とオリビアは、バルコニーでふたりきりになった。
夜風が静かに吹き抜ける中、王子は真剣な眼差しでオリビアに告げた。
「……今日の舞踏会、お前が美しすぎて……正直、誰にも見せたくなかった」
「……ふふ、ずいぶん独占欲の強い発言ですわね」
「……俺は、お前だけを見てる。……それは、信じてくれているか?」
オリビアは、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
(信じたい。でも……)
「……信じたいと思ってますわ」
王子の瞳が揺れる。
そして、その沈黙を破るように――
「何かあったのか?」
「……いえ、何も。ただ……王子様の隣に立つには、私はまだ“足りないもの”が多い気がして」
「足りない? 何が?」
「生まれ。力。噂に勝つための“強さ”」
「……そんなもの、必要ない」
「でも――王子様は国の未来を担う方。私は……」
その瞬間、王子は彼女を強く抱きしめた。
「……そういうことを言わせたのは、俺の責任だ」
「……っ、アルベール……」
「誰がなんと言おうと、お前は俺の婚約者だ。
……それが気に食わん者がいるなら、俺が全部ねじ伏せる」
その言葉が、胸にしみ込んでいく。
(……ああ、やっぱり私は――この人が好き)
オリビアはそっと彼の胸に顔を埋めた。
でもそのとき。
背後の茂みに、ほんのかすかな気配があった。
気づかぬふたりの背後で――
セリーヌの影が、月明かりの中で静かに微笑んでいた。
(“誰にも見せたくない”だなんて。……なら、誰にも“見せられないように”してあげる)
その瞳は、静かに狂気を孕み始めていた――。