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「あっ、ヤンバルクイナ」
本館のロビーを歩いていた大野美菜は、向こうから珍しい生き物がやって来るのに気がついた。
白衣を着た大柄な男だ。
びっくりするくらい整った顔をしているが、びっくりするくらい浮いた噂がない。
まあ、今は違うようだが……と思ったとき、その男、雪村蓮太郎がこちらに向かい、手を上げてきた。
「おお、確かお前は、大野美菜。
まだいたんだな、久しぶりに見た」
「……この間会ったわよ。
あんたが社長とあんたの彼女といるときに」
「おおそうか。
お前、滅多に見ないが、何処の部署だったっけな」
「……あんたの彼女と同じ秘書よ」
「おおそうか」
これ以上ないくらい、心がこもってない『おおそうか』だな、と美菜は眉をひそめた。
大抵の男は、自分が話しかけると、真っ赤になるか、嬉しそうに話してくるかのどちらかなのに。
この雪村蓮太郎はそのどちらでもない。
その辺のソファや自販機と私の区別もついていないのではなかろうか。
これだから、この容姿でお坊ちゃんでもいまいちモテないわけだよな、と思う美菜に蓮太郎が訊いてくる。
「ところで、『あんたの彼女』とは誰だ」
「……蓮形寺唯由に決まってるでしょうが」
すると、彼女、彼女か、と呟いたあとで、蓮太郎が照れたように見えた。
照れるなんてことがあるのか、この男……。
何故だかわからないが、試験管を見て照れるとか。
何故だかわからないが、アメーバを見て照れるとか。
そのくらいしかないと思っていた。
「そうだ、大野。
お前は女だったな」
どんな、『そうだ』なんだ。
この容姿で生きてきて、そうだ、お前は女だったな、と言われることはおそらく、この先一度だってないだろう、と美菜は思ったが。
相手が蓮太郎なので、もういろいろと諦めていた。
この男の国語力はおかしい。
「だったら、ちょっと訊いてみたいんだが」
だったらもおかしいっ。
もし、私が女だったらみたいでっ、と思ったが。
そこから先の蓮太郎は珍しく普通の人間だった。
「実は、蓮形寺になにかプレゼントすると言ってしまったんだが、なにがいいと思う?」
「……今、彼女へのプレゼント、なにがいいって私に訊いたっ?」
「いけなかったか?」
「いけなかったわ。
今、彼氏とうまくいってないから」
でも、そうじゃなくてっ、と美菜は言う。
「今、そんな普通のこと、私に訊いたっ?
今まで私に話しかけてきたとき、あんたが言ったことって。
散々世話になった人事の課長が髪型を変えただけで、
『あいつは誰だ?』
って訊いてきたことと、
入社してすぐ自分が働く研究棟の前で、
『研究棟は何処だ?』
って訊いてきたことだけよ。
彼女へのプレゼントなにがいいって訊いた? 今っ」
「いけないのか?」
「いや、ちょっと感激しちゃって。
初めてまともに会話が成り立ちそうだから」
「おおそうか。
で、なにがいいと思う?」
「現金」
思わず本音がもれてしまった。
だが、蓮太郎は大真面目に、
「現金……、現金か。
しかし、蓮形寺はそんなもの喜ばないからな」
と悩みながら行ってしまう。
だが、少し先で足を止めてると、振り返り言ってきた。
「ありがとな、大野美菜」
いやいや、と手を振りながら美菜は呟いた。
「すごいな~、蓮形寺。
ヤンバルクイナがちょっと人間に近づいている……」
と。
現金はちょっとな、と思いながら、蓮太郎は研究棟に戻った。
事務室でみんなと話している紗江が視界に入る。
「紗江さん」
蓮太郎は事務室に入り、呼びかけた。
「あれ? れんれん。
どっか行ってたの? もうお昼だよ」
と言う紗江に訊いてみた。
「蓮形寺にプレゼントをしようと思うんですが。
なにがいいですかね?」
ええーっ? 蓮くんが女の子にプレゼントッ、と事務員さんたちが色めき立つ。
「蓮形寺さんねえ。
うーん。
なにがいいかな?」
蓮形寺さんのこと、よく知らないしねえ、と紗江は意外にまともなことを言う。
やはり年の功だろうか。
いきなり、現金、と言ってきた美菜とは大違いだった。
「じゃあ、紗江さんだったら、なにもらったら嬉しいですか?」
「そうねえ。海外旅行かな」
えーっ、いきなりー、と事務員さんたちが笑う。
「それか佐々木さんちの通りの角のチキン南蛮丼」
佐々木さんちは何処ですか。
俺は方向音痴なんですが。
「あそこのチキン南蛮丼、知り合いが他県から船で買いに来るぐらい美味いよ」
にひひひひ、と紗江は笑って言ってくる。
……年の功はどこにいったのだろうか?
さすがの自分にも、佐々木さんちの通りの角のチキン南蛮丼を愛人にプレゼントするのが間違っていることくらいはわかる。
「極端ですよ、紗江さん~」
と事務員さんたちは笑っている。
すると、紗江は、
「二人で温泉旅行にでも行けばいいじゃない」
と言ってきた。
「温泉入って、美味しいもの食べて、二人でゴロゴロして。
二人とも仕事で疲れてるんだし、それでいいでしょ?」
「いやでも、それ蓮形寺へのプレゼントになりますか?」
と蓮太郎は紗江に訊く。
「なんで?」
「だって、それ、俺が嬉しいだけじゃないですか」
やだもー、蓮くんったらーっ、と事務の女性たちが叫ぶ。
みんなが、なんでそんなに盛り上がっているのか、いまいちわからなかったが。
実家にあった、並ばないと買えないスイーツとやらを差し入れたときくらいの悲鳴だった。
いつも親切な梅田さんが、
「その一言を蓮形寺さんに言った方が喜ぶと思うわよ」
と微笑み言ってくる。
「がんばれ~、れんれんっ」
紗江たちに応援されながら、蓮太郎は唯由のスマホに電話してみた。
食堂に移動中だったらしい唯由が出る。
「蓮形寺。
俺が嬉しいだけなんだが、二人でゴロゴロしないか?」
蓮くん、まとめすぎっ、という顔で梅田たちがこちらを見ていた。
二人でゴロゴロ……唯由は社食に行く途中で足を止め、スマホを見つめていた。
唯由は頭の中では、蓮太郎とふたり、こたつに入って、ゴロゴロしていた。
雪村さん、暑いです、もう……。
「唯由~っ。
なにしてんの、早く~っ」
先に社食前まで来ていた正美たちが手を振っている。
「道馬さんの姿が中に見えるから、早く~」
苦笑いしながら、
「先、行ってていいよ~」
と唯由が言うと、わかったーという声とともに、みんな急いで建物の中に入っていく。
正美が言うところのお手頃なイケメンの姿を求めて。
いや、道馬さん、まったくお手頃そうじゃないんだけど、と思いながら、欠片もお手頃ではない蓮太郎の声を聞く。
「温泉宿だ。
温泉宿だそうだ、蓮形寺」
だそうだ?
誰に操られて電話してるんですか、あなたは……。
「温泉宿にふたりで行こう」
「えっ、嫌ですっ」
反射で言ってしまっていた。
「何故だ」
何故だって、その……。
そういうの、恋人同士で行くものだからでは?
いや、いいのか、愛人だから。
でもなんか抵抗あるな、と思った唯由は断る理由を考える。
「あ、暑いので、温泉」
「じゃあ、シャワーにしろ。
温泉に入らなきゃいいだろ」
もはや、温泉宿に行く意味がわかりませんが……。
「あ、あの、結婚前の男女が一緒に宿に泊まるとか問題があると、その、うちの親が……」
「滅多に見かけない親に反対されても、どうってことないだろうが」
うん、そこだけはごもっともですね……。
お義母さまが反対していると言った方が、まだ説得力あったかな、と思っている間、電話の向こうで複数の女性たちが揉めている声が聞こえてきていた。
「結婚前の男女が一緒に泊まると問題があるって。
別々に結婚してる男女が一緒に泊まる方が問題あるわよね~」
「サスペンスなら、それ、誰か死ぬわね」
「暑いから嫌なんだったら、水風呂に入ればいいんじゃない?
大抵の温泉宿、サウナもあるから、水風呂あるじゃん」
……最後のは紗江さんだな、と唯由は思った。
声がそうだと言うより、発言内容からもう完全に……。
「蓮形寺は喜んでませんよ、温泉宿。
やっぱり、俺が嬉しいだけじゃないですか」
わちゃわちゃ向こうで話しはじめる。
なんだろう。
存在を忘れられている……と思ったとき、社食から道馬が出てきた。
おや、みんな、彼を目当てに入っていったはずなのに。
もう出て来るところだったようだ。
それは正美たち、残念がってるだろうな、と思ったとき、道馬がお疲れ様、と声をかけてきた。
「お疲れ様です」
唯由が握っているスマホがわあわあ、うるさいのに気づいたらしい道馬がスマホを指差し訊いてくる。
「話さなくていいの?」
「それが私、存在を忘れられてるみたいで」
と唯由は苦笑いして言った。
ふうん、と言った道馬が、
「誰からの電話?」
と訊いてくる。
「雪村さんです」
「じゃあ、いいじゃん、切っちゃえ」
と道馬は唯由の手をつかみ、勝手に通話を切ってしまった。
「彼女、放ってる方が悪いって」
そういえば、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、と言いながら、道馬はスマホを出してくる。
「あのさ、月子ちゃんと連絡とってやってくれって、友だちから月子ちゃんの連絡先が入ってきたんだけど」
は?
「月子ちゃんっておとなしいから、なに話していいのか。
なんかいい話題ない?」
その月子は何処の月子ですか、と思ってしまう。
そういや、前もおとなしいとか言ってたような。
癇癪を起こして、ぬいぐるみを投げたりしている月子しか思い浮かばないのだが……。
だが、此処で、ええっ? とか言ったら、月子に悪いしな、と思い、
「そうですね。
車の話とかですかね」
と道馬に教える。
「え、車?」
「意外と月子好きなんですよ、車。
あと……」
日本酒とサキイカが。
それはやめとくか……。
余計なことを言ったら、月子に背後からハリセンで殴られそうな気がした。
家を出る前、最後に見たのは、レポートが煮詰まって、憂さ晴らしに一升瓶を抱えていた月子だったが。
虹子の趣味によりレースで埋め尽くされた部屋のベッドの上。
月子は一升瓶片手にノートを広げ、レポートの下書きをしていた。
月子もいろいろストレスあるんだろうな、とは思う。
まあ、周りに当たって、充分発散しているようにも見えるのだが……。
「ああ……」
ああ見えて、とつい、言いそうになりながら、唯由は道馬に頭を下げた。
「なんだかんだで、いい子なんです。
よろしくお願いします」
「その、なんだかんだが、めちゃくちゃ気になるんだけど……」
と苦笑いされてしまったが。