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第二十三話:氷の女王の接吻と、凍てつく渇望
「――時間よ」
屋根裏の、湿度を帯びた甘く濃密な空気を切り裂いたのは、氷塊同士が激突したかのような、低く、そして一切の体温を感じさせない声音だった。
「あら、もうそんな時間? 楽しい時間は過ぎるのが早いわね」
紅羽が余裕の笑みを浮かべたまま、僕の耳元からゆっくりと顔を離す。だが、名残惜しげに僕の頬を撫でようとした彼女の指先が触れるより早く、屋根裏の板敷きが内側から爆ぜるように凍りつき、白銀の結晶が四方へと吹き荒れた。
「くどくどと……。天狗のさえずりは、もう聞き飽きたわ。その温い吐息で、この男の理性を腐らせるつもり?」
猛吹雪と共に現れたのは、雪女の女王・霰
彼女が踏み出した一歩ごとに、屋根裏の床は瞬時に厚い霜に覆われ、僕の肌を鋭利な刃物で削るような絶対零度の波動が押し寄せる。紅羽に抱かれ、魅了の腕輪によって脳髄まで沸騰せんばかりの熱を帯びていた僕の身体が、一瞬で凍りつくような物理的な衝撃に襲われた。
「……あ、が……っ……」
「そんな安っぽい銀細工で心を縛って、何が楽しいの。この男に必要なのは、その見苦しい昂ぶりを鎮める『死の静寂』よ」
霰は迷いなく手を伸ばすと、紅羽の柔らかな腕の中から僕を強引に奪い取った。その指先が僕の首筋に触れた瞬間、意識が飛びかけるほどの激痛に近い冷気が全身の血管を駆け巡る。紅羽は大きな漆黒の羽を広げてふわりと後方に着地し、肩をすくめて見せた。
「あら、手荒いわね。でも、順番だものね。……せいぜい、彼を壊さないように気をつけることね、霰。その熱を奪いすぎると、二度と笑わなくなってしまうわよ? それじゃあ、私たちが楽しめないでしょう」
紅羽はそう言い残し、漆黒の羽を数枚、雪の結晶の中に散らして階下へと消えていった。
屋根裏に残されたのは、僕と、氷の瞳を持った女王だけ。
霰は僕を床に組み伏せるように押し倒した。彼女の身体からは、常に目に見えぬほど微細な氷の粉が舞い、触れるものすべての時間を停止させていく。
「……はぁ……、はぁ……っ、冷た……い……」
左腕の魅了の腕輪は、紅羽が去った後もなお、僕の脳に熱い幻覚を見せようと、心臓の鼓動に合わせて激しく拍動している。だが、霰は冷笑を浮かべ、懐からもう一つの「絶対的な縛鎖」を取り出した。
それは、雪女一族が万年雪の降り積む深淵で数千年を費やし、一族の魔力と怨念にも似た執着を凝縮して磨き上げた至宝――
『永久凍土の連環』
一見すれば、透き通った美しすぎる水晶の腕輪に見えるが、その内部には太古の吹雪の結晶が脈動するように封じ込められ、真新しく、そして残酷なまでに純白の輝きを放っている。紅羽の銀の腕輪とは対照的な、光すらも凍らせ、空間そのものを沈黙させるような静謐な圧力を放っていた。
「紅羽の腕輪が『魅了』なら……私のは『絶対服従』よ。これを嵌めれば、あなたの血は私の言葉一つで凍りつき、私の許しなく心臓を動かすことさえ、呼吸をすることさえ許されない」
「やめろ……。そんなもの……二つも、着けられてたまるか……っ」
「暴れないで。熱いのが嫌なら、芯から冷やしてあげる。あなたのその三色の角が、二度と熱を持てないくらいにね」
霰は僕の右手を掴んだ。彼女の肌は氷そのもので、触れた場所から感覚が死滅していく。カチリ、と硬質な、そしてどこか処刑の宣告のような冷淡な音が響き、僕の右腕に水晶の腕輪が固定された。
「っ……あああああああ……ッ!!」
地獄はそこから始まった。
左腕からは、紅羽の呪いによる、理性を内側からドロドロに溶かすような「沸騰する陶酔」が。
右腕からは、霰の呪いによる、神経の端々を麻痺させ粉砕するような「凍てつく服従」が。
二つの相反する強力な家宝が、僕の身体を境界線にして激しくぶつかり合う。右半身は絶対零度の静寂に支配され、左半身は焦がれるような熱狂に喘ぐ。三色の角は狂ったように明滅を繰り返し、防衛本能として霊力を爆発させようとするが、二つの家宝はその奔流すらも貪欲に吸い込み、僕を内側から引き裂くような「快感の矛盾」へと変換していった。
「……いい。その悲鳴、その歪んだ表情。私を温めてくれる薪としては、最高の燃え方だわ。あなたが苦しめば苦しむほど、その角からは極上の精髄が溢れ出す」
霰は僕の首筋に顔を埋め、氷のように冷たく、けれど滑らかな唇で僕の肌をなぞる。右腕の腕輪が淡く青く発光し、僕の生命の源である熱を強制的に吸い上げていく。魅了の腕輪がもたらす脳内の火照りを、霰の冷気が力ずくで圧殺し、僕の意識を「氷の下の暗闇」へと引きずり込んでいく。
「見て。天狗の家宝ですら、私の冷気の前ではこれほどまでに白く曇っているわ。……あなたは今、私の所有物になったのよ。心の一部は紅羽に、身体の自由は私に……。矛盾に苛まれ、どちらの救いも得られぬまま、私の腕の中で震えなさい」
薄れゆく意識の端で、階下の気配を感じる。
瑞稀が退屈そうにキセルをくゆらせて空を見上げ、伊吹が次に自分が乗り込む瞬間を狙って、金棒で宿の石畳を粉々に砕く音が響いてくる。
紅羽による「熱い支配」と、霰による「冷徹な服従」。
あるじとしての誇りは、二つの磨き抜かれた家宝によって完全に雁字搦めにされ、僕はただ、女王たちの欲望のままに揺さぶられるだけの「器」へと成り下がっていく。
「……さあ、あるじ。もっと震えなさい。私の冷たさが、あなたの魂の最奥……その三色の根源を完全に氷漬けにするまで……」
霰の冷徹な誘惑が、僕の魂を氷の檻に閉じ込め、二度と開かぬよう封印しようとしていた。
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