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「ミアさん、それでいつ提出します?そろそろお腹も目立ってきましたよね?私としては今すぐにでも大丈夫なので、今日もこうして婚姻届を持ってきました。後はミアさんが記入するだけです。さぁ、どうぞ」
目の前には、澄んだ空色の瞳でじっと見つめてくる男性が坐っている。ニコリと微笑みを浮かべて。
爽やかな印象の好青年。
まるで、郵便物の宛名を書くような気軽さで、署名を勧めてくる。
茶封筒からとりだした婚姻届をテーブルに広げて、指先で「あぁ、こちらですからね♡」と、指し示してくる。
ペンを私の前に置く仕草も、その何気ない行動全てから色気がだだ漏れている。
いやいやいや、ダメでしょう?
そんな気軽に結婚なんてできるはずがない。
まぁ、確かにちょっとお腹がふっくらとしてきてはいるけれど……。
そう、この子の父親は目の前の人だ。
けれど、私は単なる町娘、彼は伯爵家の子息。
釣り合う訳がない……。
「お、お、お、お断りします!」
不敬罪で罰せられるのではないかという恐怖から、ぶるぶると震えながらも、盛大に婚姻届けを破り捨てる。
「お帰りはあちらです!」
考える隙を与える前に、扉を指し示し帰るように促す。
「ゴミは、ゴミ箱にいれないといけませんよ。心配しなくても予備はこちらにあります。」
破り捨てた紙切れを、丁寧に全部拾う姿に、心が咎めたのも束の間。
ポケットから新たな婚姻届を取り出して
、何事もなかったようにテーブルに広げる。
「無理です!」
広げ終わる前に、持ち上げてぐちゃりと丸めて遠くに放り投げる。
「あぁ、大丈夫ですよ、こちらにありますから。」
今度は、反対のポケットから婚姻届を取り出す。
「ごめんなさい!」
彼の手から奪いとると、ビリビリと破いてゴミ箱へと落とし込む。
「あぁ、きっとホルモンバランスのせいで気が昂っているのですね、ふふ、心配いりませんよ」
今度は、内ポケットから婚姻届を取り出してくる。
「嫌です」
「出来ません」
「放っておいてください」
破っても破っても、彼はどこからともなく婚姻届を取り出してくる。
全てのポケットから取り出し終えると、今度は袖の付近、裾の付近、靴の中、靴下の中など、様々な所から小さく折りたたんだ婚姻届をとりだしてくる。
「あなたはマジシャンですか⁉︎
いったい何枚用意してきたのですか?
仮にもルコット伯爵家のご子息が、そんな折り目が沢山ある婚姻届を提出する勇気があるのですか?ズボラな私でも、さすがにその婚姻届は恥ずかしいです……」
「どんな状態であれ、婚姻届に問題はないでしょう?あぁ、折り目が恥ずかしいからなのですね?大丈夫ですよ、折り目のない婚姻届はこちらにありますから」
「違いますからっ!私の話聞いてます?」
彼はおもむろに立ち上がると、ベッドまで歩いていく。そして、かがみ込むとベッドの裏側から茶封筒を取り出した。
「ほら、こちらに綺麗な状態のものがありますから」
「は⁉︎ど、どうして私のベッドの裏にそんなものがあるんですか?まさか⁉︎勝手に侵入したんですか?い、いつの間に……」
他にもあるのではないかと、急いでベッドの下を捜索する。
「ミアのことが心配で、防犯の確認をしただけですよ。鍵が心許ないので取り替えようかと思いましたが……大丈夫です、常に見張らせているので。こうして、ベッドで愛し合った後に、すぐにでも結婚できるようにと、用意しておいたんですよ。
だめですよ、お腹に負担がかかりますから、さぁこちらに座って。」
「ひゃぁっ!」
突然お姫様抱っこされて、トスンとベッドに寝かされていた。
「驚かせてしまったのなら、すみません。」
謝罪しながらも、がっちりとホールドした手は緩めない。
私は彼の腕を枕にして、囲い込むように抱きすくめられていた。
優しい手つきでお腹を撫でられて、安心する自分に驚く。
だって、こんな関係はよくない。
私は彼の名前すらしらない。
伯爵家の方だと知って、聞こうとしなかったから。
一夜の関係のつもりだったのに……。
きっと、貴族の矜持として責任を取ろうとしているだけ。彼が欲しいのは自分の血を受け継ぐこの子なのだろう。
こんな、町娘なんかと結婚するメリットなんてない。
婚姻届もフェイクだろう。
愛妾にならないかと言われるよりも、結婚しましょうと言われた方が浮かれて喜ぶとでも思っているのだろう。
庶民だからといって、軽く見られても困る。
愛妾になるくらいなら、一人でこの子を育てる道を選ぶ。
パン屋の給金だけでは正直苦しい。
でもパン屋のご主人も奥さんもとてもよくしてくれている。だからこそ、数年前両親を亡くしてからもなんとか今までやってこれた。
エディとの婚約が破棄されたと知った時は、それこそ殴り込みに行くのではないかというくらいに二人とも本気で怒ってくれた。
これ以上心配をかけたくないのに……。
まさか妊娠してしまうなんて。
二人にどうやって説明したものか……。
はちみつ色の髪が顔に当たってくすぐったい。
「はぁ……」
「ふふ、私の顔を見つめてため息をつくなんて、ミア、あなたも罪な人ですね」
「ちがっ……ん⁉︎」
あまりにも突然の出来事で、頭が真っ白になる。
私の口は彼の唇によって塞がれていたから。
「な、な、何するんですか⁉︎」
腕枕をされた状態で、軽く口づけをしてくる彼。
これ以上奪われてなるものかと、彼の口元に手を当てる。
「あぁ、なかなかこれも倒錯的で興奮しますね。ミアの肌は柔らかくて心地いいです」
「そんなはずな……い……」
水仕事で手は荒れている。パン生地をこねるのは力がいるので、腕力もつくし手も固くなっている。
あまり間近で見られたくない。
私の上に覆い被さる姿勢で、妖艶な眼差しでみつめてくる。空色の瞳が徐々に熱を帯びてくる。
あの時と同じく私の体も徐々に火照っていく。
「随分余裕ですね?他のことに気を取られるなんて……妬けますね。あぁ、名乗るのが遅くなりましたが、私の名前はエリオットです、ミア」
「エリオット様……?」
あれ?なんだか聞き覚えがあるような……
あと少しで思い出せそうなのに。
頭の中にモヤがかかっているみたいに、掴めそうで掴めない記憶の断片を集めようと試みる。
けれど、集中できない。
「やっと、名前を呼んでくれましたね、ミア……愛しています……だから、これを握ってくれますか?」
「な⁉︎」
見下ろすように跨っていたエリオット様が、ごろんと私の横に寝そべる。
私を横向きにして背後から抱きしめると、手のひらにペンを握らせてくる。
エリオット様がペンを握った私の手を掴むと、婚姻届に記入させようとする。
「だめです!」
こんな体勢で書けませんから!
油断もすきもありませんね、というかシーツに貼り付けているなんてどうかしていますよ
破れますからね。
こんな攻防をいったいどれくらい続けるつもりなのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろうと、あの時のことが蘇る。
そう、あれは━━。
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