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「勇信さんは多分……多重人格者」
星花が導き出した現在の結論に、プラスマイナスは自然と笑みを浮かべた。
「なんで笑っているの?」
「星花、やっぱり君は本当に鋭いよ。いや、特別な能力を持ってる。兄さんの事件が起きてから、俺は毎日自分の存在が揺さぶられるような気分だった。あるときは果てもなく憂うつだったし、あるときは世のすべてが肯定的に見えた。またあるときは何も考えずにスポーツに打ち込んだりもした。
でも俺は多重人格者なんかじゃないよ。多重人格者ってのは個々に独立した人格が、ひとつの体を支配している状態だろ? 俺は自分の身の回りに起きたことをちゃんと覚えている。だから心配する必要はない」
「違うのよ、勇信さん……」
「違うって、何が?」
「私が言ってるのは、そんな心理的なものじゃないの。人がもつ色彩は、ひとりにひとつしかないわ。感情とはまるで関係がないの」
「どうやってそう言い切れる? 兄さんが死亡したってニュースが流れ、その後に生きて戻ったんだぞ。普通に生きる人が経験できる喜怒哀楽とは、まるでレベルが違うんだ。人生を根底からかき乱されるほどの混乱があったのに、どうして色彩は変わらないと言い切れるんだ?」
――しまった。嘘をつくとき、人は訳もなく声が大きくなる……。
プラスマイナスはもどかしさを感じながら再び時計を見た。
ただでさえ勇信が増殖する現実で手一杯なのに、また別の悩みが現れるなど想定外だった。
「今の俺は何色なんだ?」
「濃い青……。とても残酷な印象よ」
「濃い青だと残酷? それはまたどこから持ってきた論理だ?」
「論理なんかじゃないわ。私にはわかるのよ。
他人に共有できない自分だけの感覚というものがあって、それは絶対に間違えないものよ。今の勇信さんは……感情よりも論理を信じているわ。打算的とでもいえばいいのかな」
いつも穏やかに話す星花の感情が、明らかに揺れていた。
「色彩の話はもうやめにしないか」
「どうして? 私たち今夜で別れるのよね」
「そうじゃなくて、すでに決めた結論があるのに、あえて物事を複雑にする必要はないってことだ」
「それは勇信さん側の立場だよね。私は違うわ。言ったじゃない? 別れないって」
揺るぎない表情だった。
「これはお互いのためを思って出した答えだ。噓偽りなく本心からそう思っている」
星花は言葉を返すことなく突然席を立ってトイレへと向かった。
プラスマイナスはひどく喉が渇いていることに気づき、ウェイターにビールを頼んだ。
菊田星花がトイレから戻り、静かに席に座った。それからプラスマイナスの前に置かれたビールを見て、自分も一杯注文した。
ビールが届くまでふたりはただ静かに座っていた。
2杯のビールがテーブルに並ぶと、ふたり同時に背筋を伸ばして座った。
「勇信さん。ずっと黙っていたんだけど、もうダメみたい。最後の情報をあなたに伝えなきゃならないようね」
星花はそう言ってから、ビールを半分ほど飲んだ。
「……言ってみてくれ」
「勇信さん、人が放つ色ってのはその場所に残るのよ。まるで飛行機が去ったあとに残るひこうき雲のように」
あまりに抽象的な表現だったが、プラスマイナスはその意味を理解した。すぐに体が痙攣を起こしたように収縮した。
「ちょっと待ってくれ……ってことは、星花は」
「勇信さん。私の質問に答えてね。あなたの家にはどうしていろいろな色彩が同時に流れていたの?」
「うぐぐ……」
プラスマイナスは混乱の渦に巻き込まれた。
「言っておくけどこれが幻想じゃないってこと、誰よりも勇信さんならわかるはず。だからひとつ提案してあげるわ。今すぐ別れようという言葉を取り消して。もし取り消しさえすれば、私はこれ以上あなたがもつ色彩について詮索はしないと約束するわ」
「……」
プラスマイナスはほとんど自暴自棄になったようにビールを飲み干した。しかしビールが喉を通り胃に流れ込んだ瞬間、脳内の電卓に明確な答えがはじき出された。
――むしろ別れればそれまでのこと。
ビールグラスをテーブルに置き、星花の目を正面から見つめた。
「やっぱり俺たちは別れるべきだ。これから俺はさらに忙しくなるし、どのみち会う時間もなくなる」
「結局……そうくるのね」
菊田星花の手がぶるぶると震えはじめた。
「すまない、俺はもう行くから。これ以上は君の荒唐無稽なストーリーを聞いてはいられない」
プラスマイナスはそのまま席を立った。打算と本能の双方がそう判断していた。
あまりに恐ろしかった。
増殖という事象を誰かに知られることが。
その事実へとたどり着くかもしれないキーワードを、最も身近な人間が握っている。
逃げなければ。
関係の遮断という手段をとって、この状況から逃げなければならない。
「待って!」
菊田星花は体を震わせながら、かろうじて言葉をつなげようとした。しかしプラスマイナスは向けられた銃口から避けるように、そそくさと店をあとにした。
周りの客たちが、席にひとり残された菊田星花をチラチラと見ていた。
多くの人が顔を近づけてひそひそ悲運のヒロインを作りはじめていく。
菊田星花はそんな周りの状況も知らないまま、ただうつむいて震えていた。
これまで重ねてきた多くの記憶たちが、星花の胸を激しく打った。
「なんで最後まで話を聞かなかったの……。もし別れるって選択をしたら、私はすぐにでもあなたの色彩の秘密と、そうなった理由を死んでも探しだすって言うつもりだったのに」
菊田星花は残るビールを一気に飲み終えてから、急いでトイレに向かった。
胸の中に台風が現れ感情をかき乱している。それを排除するように便器にむけてすべて嘔吐した。
台風が去り、とある感情だけが彼女の胸中で息づいていた。
誓い。
復讐というほど荒々しくはない。
恨みというにはあまりに大切な思い出。
それでも黙って別れを受け入れるつもりはなかった。
菊田星花は心臓をつかむように胸に手を当て、目の前の鏡を睨んだ。
「証拠がいるわ。勇信さんがこれからも私のそばにいなければならない、確固たる証拠が」