コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
考えてみると、ここ数年まともに休んだことがなかった。
分刻みのスケジュールに、家族の問題。
学ぶべきものはまだまだ多く、季節の移り変わりにも気づかないような時間だった。
勇信が増殖しはじめてからはどうだったろうか。
たしかに時間ができた。
ひとりでこなしていた仕事を多くの勇信が処理するようになった。しかし増殖という奇怪な事象の前に、以前より心は追われるようになった。
道路に捨てられたように、俺は生まれた。
キャプテンという母体ではない吾妻勇信になったことで、ようやく見えない重圧から開放されたような気もする。
自由、休息。
心のどこかで求めていたそんな時間……。
結局、俺は京都にまできてしまった。
首輪を引きちぎった犬が、気ままに放浪するように。
「こんな感覚ははじめてだ」
暗殺者・吾妻勇信は善閣寺へと向かう道中、自然の風景を楽しんでいた。
木々と花々は本当に美しかった。
長く家に閉じこもっていたせいか、自然の風景が心を浄化してくれるようだ。
もしかすると自分は暗殺者ではないのかもしれない。自然を愛する属性を持っているかもしれない。
そんな感覚にとらわれるほど、暗殺者はずっと自然の景色を見つめ続けた。
「残念だが、この美しい風景ともさよならだ。俺はひとりじゃないのだから」
複数の勇信がいるという不条理な現実に、再び怒りがこみ上げてくる。
殺す……!
キャプテンを殺すことで、ようやく俺たちは安心して生きていける!
善閣寺を目前にして暗殺者は決心した。
――吾妻勇信の危機は、この俺が解決してやる。そう、俺は自分を暗殺者だと呼ぶが、本当は俺こそが英雄なんだ。
キャプテンを殺したあと、何事もなかったようにキャプテンの名で生きていく。もう二度と増殖しないキャプテンとして。
善閣寺めぐりを終えた暗殺者は、夕食のふぐ料理を堪能してからホテルに帰った。
部屋に入ると軽くストレッチをしてから一時間ほど運動で汗を流した。シャワーを浴び、ソファに座るとすぐにやることがなくなった。
携帯電話もパソコンもない時間の過ごし方がわからず、ただ暇を持て余す。そのままベッドで眠ってしまおうかと考えたが、結局エレベーターを降りて1階のカウンターバーで酒を飲んだ。
カウンターを挟んで話した女性バーテンダーとは、驚くほど馬が合った。
30代半ばほどで、マニュアル的な対応ではなく人間味あふれる美しい女性だった。
いつの間にか5杯目のカクテルが空いていた。
今日は比較的暇だと言って、彼女も一緒に酒を飲んでくれた。
女性バーテンダーは暗殺者の身の上について一切聞かなかった。だからといって暗殺者の雑談にただ相槌を打つだけでもなかった。
彼女は言った。
「誰かを殺したいときですか? 正直、ないとは言えませんね。私だって人間ですから。でももちろん実践したことはありまません。それは私が善良だからじゃなくて、法というものが作用してるからです。
でも考えてみると、この世にあるすべては他人が決定したもののような気がしますね。他人が作った枠の中に合わせて、私の心も決まるのです。実はこれって矛盾じゃないかと思ったりもします。私の心は、私のものなのに」
暗殺者は耳を傾けて女性バーテンダーの話を聞いていた。
「より大きな自由のために、小さな自由を捨てるのが社会です。信号を守る代わりに、安全に目的地に行けるように。でももしも信号を守ったのに、より大きな自由が得られなかったら? そんなことなどなさそうですが、実は時々起こったりします」
「自分の子どもが車にひかれそうなのに、信号なんて守ってられない。そういうことでしょうか」
「ですね」
――俺という人間が増殖し続けているのに、殺人という法を守る必要はない。
「お客さま、こちらブラックルシアンです。甘いコーヒーの香りを楽しみながらお召し上がりください」
「少し落ち着けという意味ですか?」
「いいえ。私は心が乱れるとき、頭の中でこのカクテルを一杯飲むんです。コーヒーの香りとウォッカの舌触りを楽しんだあと、喉から胃へと送ってあげます。そうするうちに乱れが半分でも収まっていれば、もうその件については諦めます。さあ、お客さまも一度やってみてください」
暗殺者はブラックルシアンを半分ほど飲み込んだ。
「私は乱れているのではありません。冷静な心で、自分を殺そうとしているだけです」
「進歩的ですね。また生産的でもあります。ご自身の死体を量産したあと、その上に立つ自分こそが、もっとも素敵なあなたでしょうから」
「自分という死体の上に立つ自分……」
「ええ、数多くの死体の上に立つあなたこそが、現時点で最も優れたあなたでしょう」
彼女の言葉に、暗殺者は力を得たような気がした。
「私は現実から目を背けたくて、ここ京都にいるかもしれません。そして本当は、勇気を得るためにここにきたような気もします。あなたに会ったことで、私がなぜここにいるのかわかったような気がします」
「私もお客さまとお会いして、心の中の何かが熱を帯びたような気がします。アルコールではない熱……」
彼女の瞳が赤く染まった。
暗殺者はバーから出て、泊まるはずだったホテルをチェックアウトした。
別のホテルへと居を移すタクシーの中。
暗殺者の隣には、女性バーテンダーが座っていた。
*
ああ……あっ!
バーテンダーという仮面を脱ぎ捨てた女が、猫のような声をあげた。
互いの名も知らないまま肉体を探検する、現実味のない時間旅行だった。
暗殺者は女の柔らかい曲線の上を行き来し、体を震わせながら果てた。
ハァハァ……ハァハァ……ハァ……。
……。
いつの間にか眠てしまっていたようだ。
目を覚ますと、裸の女がスーっと小さな息づかいで眠っていた。
女の髪を撫でたあと、ベッドから起き上がりシャワーを浴びた。
服を着てそのまま部屋を出ようとすると、女が立ち上がって暗殺者へと近づいた。
「私たち、もう二度と会えないんですよね?」
タオルで体を包んだ女の姿は、昨日とはまた違った美しさを含んでいた。
「私たちは次の目的のために少し休憩を取っただけです。これからそれぞれの道を突き進まなければなりません」
「これから行く道に、どうか幸せが溢れんことを祈っています」
「あなたにも」
暗殺者はホテルを出た。