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あいうえお
118
るしゅ
180
考えてみると、ここ数年まともに休んだことがなかった。
分刻みのスケジュールに、家族の問題。
学ぶべきものはまだまだ多く、季節の移り変わりにも気づかないような時間だった。
勇信が増殖しはじめてからは、どうだったろうか。
たしかに時間はできた。
ひとりでこなしていた仕事を、多くの勇信が処理するようになった。
しかし増殖という奇怪な事象の前に、心は以前よりも追われるようになった。
そうした中、俺は道路に捨てられたように生まれた。
キャプテンという母体ではない吾妻勇信になったことで、ようやく見えない重圧から解放されたような気もする。
自由。
休息。
心のどこかで求めていた、そんな時間。
結局、暗殺者は京都にまで来てしまった。
首輪を引きちぎった犬が、気ままに放浪するように。
「こんな感覚ははじめてだ」
暗殺者は善閣寺へ向かう道中、自然の風景を楽しんでいた。
木々と花々は本当に美しかった。
長く家に閉じこもっていたせいか、自然の風景が心を浄化してくれるようだった。
もしかすると、自分は暗殺者ではないのかもしれない。
自然を愛する属性を持っているのかもしれない。
そんな感覚にとらわれるほど、ずっと自然の景色を見つめ続けた。
「残念だが、この美しい風景ともさよならだ。俺はひとりじゃないのだから」
複数の勇信がいるという不条理な現実に、再び怒りがこみ上げてくる。
殺す。
キャプテンを殺すことで、ようやく俺たちは安心して生きていける。
善閣寺を目前にして、暗殺者は決心した。
吾妻勇信の危機は、この俺が解決してやる。
そうだ。
俺は自分を暗殺者だと呼んでいるが、本当は俺こそが英雄なんだ。
キャプテンを殺したあと、何事もなかったようにキャプテンの名で生きていく。
もう二度と増殖しないキャプテンとして。
善閣寺めぐりを終えた暗殺者は、夕食のふぐ料理を堪能してからホテルへ帰った。
部屋に入ると、軽くストレッチをしてから、1時間ほど運動で汗を流した。
シャワーを浴び、ソファに座る。
すると、すぐにやることがなくなった。
スマートフォンもパソコンもない時間の過ごし方がわからず、ただ暇を持て余す。
そのままベッドで眠ってしまおうかと考えたが、結局エレベーターを降り、1階のカウンターバーで酒を飲んだ。
カウンターを挟んで話した女性バーテンダーとは、驚くほど馬が合った。
30代半ばほどだろうか。
マニュアル的な対応ではない、人間味のある美しい女性だった。
いつの間にか、5杯目のカクテルが空いていた。
今日は比較的暇だと言って、彼女も仕事の合間に酒を飲んでくれた。
もちろん客と同じ量ではない。しかしグラスを持つ指先と、こちらを見る目には、業務だけではない熱があった。
女性バーテンダーは、暗殺者の身の上について一切聞かなかった。
だからといって、暗殺者の雑談にただ相づちを打つだけでもなかった。
彼女は言った。
「誰かを殺したいときですか? 正直、ないとは言えませんね。私だって人間ですから。でももちろん、実行なんてしません。それは私が善良だからじゃなくて、法というものが働いているからです」
彼女はグラスの中の氷を、細いマドラーで静かに回した。
「でも考えてみると、この世にあるすべては、他人が決定したもののような気がしますね。他人が作った枠の中に合わせて、私の心も決まるのです。実はこれって矛盾じゃないかと思ったりもします。私の心は、私のものなのに」
暗殺者は耳を傾け、女性バーテンダーの話を聞いていた。
「より大きな自由のために、小さな自由を捨てるのが社会です。信号を守る代わりに、安全に目的地へ行けるように。でももし信号を守ったのに、より大きな自由が得られなかったら? そんなことなどなさそうですが、実は時々起こったりします」
「自分の子どもが車にひかれそうなのに、信号なんて守っていられない。そういうことでしょうか」
「ですね」
俺という人間が増殖し続けているのに、殺人という法を守る必要はない。
そもそも殺人ですらない。
「お客さま、こちらブラックルシアンです。甘いコーヒーの香りを楽しみながらお召し上がりください」
「少し落ち着けという意味ですか?」
「いいえ。私は心が乱れるとき、頭の中でこのカクテルを1杯飲むんです。コーヒーの香りとウォッカの舌触りを楽しんだあと、喉から胃へ送ってあげます。そうするうちに心の乱れが半分でも収まっていれば、もうその件については諦めます」
彼女はグラスを暗殺者の前へ置いた。
「さあ、お客さまも一度やってみてください」
暗殺者はブラックルシアンを半分ほど飲み込んだ。
「俺は乱れているわけではありません。冷静な心で、自分を殺そうとしているだけです」
「進歩的ですね。また、生産的でもあります」
女性バーテンダーは笑わなかった。
本気でそう思っているように、静かな声で続けた。
「ご自身の死体を量産したあと、その上に立つ自分こそが、もっとも素敵なあなたでしょうから」
「自分という死体の上に立つ自分……」
「ええ。人間誰しもそうですが、数多くの死体の上に立つ自分が、現時点で最も優れた自分なのでしょう」
彼女の言葉に、暗殺者は力を得たような気がした。
「俺は現実から目を背けたくて、ここ京都にいるのかもしれません。そして本当は、勇気を得るためにここに来たかもしれません。あなたに会ったことで、自分がなぜここにいるのかわかったような気がします」
「私もお客さまとお会いして、心の中の何かが熱を帯びたような気がします」
彼女の瞳が、わずかに赤く潤んだ。
「アルコールではない熱です」
暗殺者はバーを出て、泊まるはずだったホテルをチェックアウトした。
別のホテルへ移るタクシーの中。
暗殺者の隣には、女性バーテンダーが座っていた。
*
女は、バーテンダーという仮面を脱ぎ捨てていた。
互いの名も知らないまま、肉体だけで相手を確かめ合う。
それは現実味のない、短い時間旅行のようだった。
女が短く息を漏らすたび、暗殺者の中にあった殺意とは別の熱が膨らんだ。
殺すために生まれた自分が、誰かの体温の中で息をしている。
やがてふたりの呼吸は乱れ、部屋には汗と酒の匂いだけが残った。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
目を覚ますと、裸の女が小さな息づかいで眠っていた。
暗殺者は女の髪を撫でたあと、ベッドから起き上がり、シャワーを浴びた。
服を着てそのまま部屋を出ようとすると、女が立ち上がって暗殺者へ近づいてきた。
「私たち、もう二度と会えないんですよね?」
タオルで体を包んだ女の姿は、昨日とはまた違った美しさを含んでいた。
「俺たちは、次の目的のために少し休憩を取っただけです。これからそれぞれの道を突き進まなければなりません」
「これから行く道に、どうか幸せが溢れんことを祈っています」
「あなたにも」
暗殺者はホテルを後にした。