俺と欄干橋はあのコーヒースタンドで向き合っていた。もうかれこれ三週間はこんなことが続いている。彼女は何度見ても美しいし、別に構わないのだが、やはり異例なことが起こるということは俺の素晴らしき平穏な日常に少面倒ごとを運んでくる。
「ねえ」
言い方からして、呼びかけたのは一度ではないようだった。俺はびくりとしてしまう。
「ああ、どうした」
俺は洋書を机に置いて、欄干橋の方に向き直った。ちょうど羽ペンを置いた場面だったというのに残念だ。
「私は、どうすればいい」
一度ため息をついた。何度か呼びかけられても今日俺が知らないふりをしているのは、この質問が億劫だからだ。
「蓮だろ?もう同じ失敗をするだけだぞ欄干橋。それよりは新しい人を探したらどうだ」
欄干橋は大きく横に首を振って、咀嚼していたものを喉に放り込んだ。あんなに適当に噛んで、スパゲッティというのは喉に詰まらないものなのだろうか。彼女の喉が太いのか、俺の喉が特別細いのかはわからない。
「でも他にどんな人がいるか知らない、なにしろ、人脈が少ない。知っていれば、誰かとは共になれるかもしれないが」
やれやれ、学年上位の優等生は教科書外のことには弱いらしい。人は選ばないといけないという当然のことへの理解も足りていない。まあ、俺も面倒だからという理由でいくつか人間関係をすっぽかしたりしているので人のことは言えないが。
「つまり、誰でもいいんだな」
俺は少し意地の悪いことを言った。
「そう言われると語弊がある」
俺は珈琲を喉に流し込んだ。生ぬるいよりも少し冷めたくらいの温度。少し喉の奥が気持ち悪い。
「だとしても究極誰でもいいんだろ。例えば、俺でもいいし、西原教諭でもいい。」
欄干橋は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「欄干橋は経験が浅いだけだ。だから、翻弄されているだけなんだ。お前みたいな強く美しい女性がよくわからない男につまずくのは惜しいと思うぞ」
欄干橋は黙り込んでしまった。だが俺は彼女に痛みを与え続けるような言葉を選んでしまう。
「お前は、淋しいから俺を呼び出したのか。」
思い直して一つだけ言葉を足すことにする。
「それならそれで結構だ。そういう互恵関係なはずだ俺たちは。淋しいなら他の男じゃなく俺を呼べ。さもないと、今のお前は一角獣の歯牙にかかる。」
「俺を、呼べ、か。」
そうじゃない。おそらくお前に特殊な感情はない。それにそういった関係になったとしても面倒になればまたすっぽかしてしまう。だったら…………
「まあそうだ」
そして、欄干橋の横顔に目をやった。ひょっとしたら、彼女を守れるのは一角獣かもしれない。臆病で面倒くさがりの俺よりも。そうだとしても、暫くは、彼女を守る。彼女が独立するまでは必ず。
大丈夫だと自分に言い聞かせながら、そっと目を閉じる。どこかで気持ちがざわついている。それをグッと堪えて二人分のコーヒーカップをカウンターへと返しにいく。
「ありがとうございました」
いつものコーヒースタンドの扉を引いて、欄干橋をエスコートしてやる。
「ありがと」
さりげなく肩に置かれた右手を振り払うことは、俺にはできなかった。