テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あいうえお
118
るしゅ
180
ふたつの目。
長く閉鎖された部屋には、幼い姉妹が監禁されていた。
はじめて見る男が部屋に入ってくると、姉妹は部屋の隅まであとずさった。
腐った肉と排泄物のにおいが充満する部屋。
隅でぶるぶると震える姉妹の服は、山道を転がったように汚れていた。
姉妹はとっさに男から目を逸らし、長く伸びた髪で顔を隠した。
強い警戒心を抱きながら、ゆっくりと入口のほうに視線を移す。
堀口ミノルは、姉の顔を見た瞬間、思わず涙を流した。
「娘……。しずか……」
交通事故で亡くなった娘の姿が、そこにあった。
瞬時に体から力が抜け、イノシシ肉を乗せた皿を床に落とした。
「あっ!」
姉・日沖かなが、野生動物のような素早さで堀口に近づいた。
転がった肉と皿を手で鷲づかみにしてから、妹のとなりに戻る。
「りん、食べて」
日沖かなが、妹に料理を食べるよう言った。
妹・日沖りんは戸惑う様子もなく、素手でイノシシ肉をむさぼり食った。
妹に続いて姉・かなも、狂気じみた目で肉を口に放り込む。
少なくとも3日は何も口にしていない。
当たり前の反応だった。
堀口は何も言わずに、姉妹が食べる姿を見ていた。
「しずか」
そうつぶやいてから、失った右目に触れた。
「両目でその姿が見たい……」
姉妹はあっという間に肉を食べ終えた。
それからようやく堀口に視線を向ける。
その瞬間、姉妹の表情が凍りついた。
堀口の目を覆ったタオルが、真っ赤に染まっていたからだ。
光を失った右目から流れる血が、赤い涙となって顔を濡らしている。
「キャアア!」
妹・日沖りんが叫んだ。
姉・かなが、妹をかばうように前に出た。
「新しいおじさん……ですか?」
「新しいおじさん?」
「前のおじさんが、もし別のおじさんが来たら、その人の言うことを聞けって言いました」
意味がわからなかった。
「いや、名前……。名前を教えてくれないか?」
「日沖かなです。妹は……りんです」
日沖かな。
私の娘なのに、なぜ名前が違うんだ?
改名。
そんなはずはない。
しっかりしろ。
この子が、娘であるはずがない。
こんなところにいるはずがないんだ。
私の娘はもう……。
堀口はもう一度、日沖かなを見つめた。
残る片目だけで、真正面からその顔を見つめる。
着ている服と名前が違うだけだった。
目も鼻も声も、彼女を形作るすべてが、事故でこの世を去った娘と同じだった。
「どうして君たちはここにいる?」
堀口が恐る恐る聞いた。
「わたしたちが道に立っていたら、前のおじさんが来て、ここに連れてきました」
「……拉致」
もちろん堀口も知っている。
ここ静岡県一帯を恐怖に沈めた、少女誘拐事件を。
姉妹のうしろには、小さな窓がひとつあった。
大半が木の板で覆われていて、ほんの数センチの隙間だけが開いている。
縦に並んでいたふたつの目は、やはりこの姉妹のものだったのだ。
「ここにはどれくらい閉じ込められていた」
堀口の言葉に、日沖かなの瞳孔が大きく開いた。
それは期待に満ちた光のようだった。
「もしかして、わたしたちを助けてくれるんですか?」
日沖かなの言葉が、堀口の脳裏で異なる声となって聞こえた。
――お父さん、しずかを助けてくれるの?
しずか。
娘。
「ううっ……! ぐあぁっ!」
突然、激しい痛みが堀口を襲った。
緊張から解放されたせいか。
それとも傷口が開いたのか。
堀口の顔半分を覆うタオルが、さらに赤く染まった。
私はまたも、生きることを望んでいる……!
断崖絶壁に立ったあの日と同じだった。
生きるためには、痛みを受け入れなければならなかった。
生をまっとうするためには、痛みを認識しなければならなかった。
目の前にいる少女が。
娘と瓜二つの少女が。
私に、もう一度生き抜けと語りかけている。
幸せだった日々。
堀口は無意識に、生涯で最も幸せだった日々を思い出した。
その時間、そのすべての場面に、目の前の少女がいた。
パパ、パパ!
違う。
この子は私の娘ではない。
違う。
この子は、私の娘だ。
生き残った左目が、目の前の少女を見ていた。
死んだ右目が、亡くなった娘を見ていた。
人生をあきらめたはずだった。
しかし、人生を望んでいる。
この小さな少女が、私の中に残っていた生への執着を呼び起こす。
私はなぜここに来た。
君たちを救いに。
娘に会いに。
混乱は加速度的にひどくなっていった。
何かが、全身を浸食している。
やがて、変質は終わりを告げた。
堀口ミノルは、もう以前の堀口ミノルではなかった。
*
目の前に立つ堀口の苦悩を見つめながら、日沖かなはずっと妹を守ろうとしていた。
「だいじょうぶだよ」
小さな声で慰めた。
「こわいよ、おねえちゃん」
日沖りんは、姉の胸に顔をうずめた。
「おじさん、だいじょうぶですか?」
日沖かなが、妹を抱きしめたまま顔をあげた。
「……大丈夫だ。それよりも、君たちはどれくらいここにいたんだ?」
「たくさんです。とてもたくさん」
「そうか」
「ちょっと待ってください。りん、かぞえてみて」
日沖かながそう言うと、妹・りんが腕を伸ばし、後ろの壁を指さした。
そこには無数の「正」の字が刻まれていた。
一日ごとに刻まれたのだろう。
壁の一角を埋めるほどの数だった。
「もう数えなくてもいいんだ。とても長く閉じ込められていたのは、わかったから」
「わたしたち、ここから出られるんですか?」
「ああ、ここを出よう。君たちを閉じ込めていた男は、もういなくなったんだ」
――すまない。
私はもう、今までの私ではなくなってしまった。
「パパのところに帰れるの!?」
妹の日沖りんが生気を取り戻し、はじめて堀口に顔を向けた。
「帰りたいのか?」
「うん、パパに会いたいよ」
――すまない。私を許してほしい……。
堀口は開いた扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
変わってしまった自分に戸惑い、それを受け入れるための時間が必要だった。
強く確実な思いが、堀口の中に根づいていた。
やがて時が満ちたようにすっと息を吐き、重い口を開いた。
「君たちのお父さんは……死んだ」
「えっ……」
ふたりは大きく目を見開き、そのまま動かなくなった。
パパ……。
パパ!
泣き叫ぶ声が、とても遠くで鳴っていた。
「でも怖がることはない。今すぐにここを出よう。それから――」
――すまない。
私はもう。
「これからはこのおじさんが、君たちを守ってあげるから」