ふたつの目。
長く閉鎖された部屋には、幼い姉妹が監禁されていた。
はじめて見る男が部屋に入ってくると、姉妹は部屋の隅にまであとずさった。
腐った肉と排泄物のにおいが充満する部屋。
隅でぶるぶると震える姉妹の服は、山道を転がったように汚れていた。
姉妹はとっさに男から目を逸し、長く伸びた髪で顔を隠した。
強い警戒心を抱きながら、ゆっくりと入口の方へ視線を移す。
堀口ミノルは姉の顔を見た瞬間、思わず涙を流した。
「娘……。しずか……」
交通事故で亡くなった娘の姿がそこにはあった。
瞬時に体から力が抜け、イノシシ肉を乗せた皿を床に落とした。
「あっ!」
姉・日沖かなが、野生動物のような素早さで堀口へと近づいた。
転がった肉と皿を手で鷲掴みにしてから、妹のとなりに戻った。
「りん、食べて」。
日沖かなが、妹に料理を食べるよう言った。
妹・日沖りんは戸惑う様子もなく、素手でイノシシ肉をむさぼり食った。
妹に続いて姉・かなも、狂気じみた目で肉を口に放り込んだ。
少なくとも3日は何も口にしていない。
当たり前の反応だろう。
堀口は何も言わずに、姉妹が食べる姿を見ていた。
「しずか」
そうつぶやいてから、失った右目に触れた。
「両目でその姿が見たい……」
姉妹はあっという間に肉を食べ終え、それからようやく堀口に視線を向けた。
その瞬間、姉妹の表情が凍りついた。
堀口の目を覆ったタオルが真っ赤に染まっていたからだ。
光を失った右目から流れる血が、赤い涙となって顔を濡らしていた。
キャアア!
妹・日沖りんが叫んだ。
姉・かなが、妹をかばおうと前に出た。
「新しいご主人さま……ですか?」
「ご主人さま?」
「新しいおじさんがきたら、その人が新しいご主人さまになるって言われました」
意味がわからなかった。
「いや、名前……。名前を教えてくれかい?」
「日沖かなです。妹は……りんです。」
日沖かな?
私の娘なのに、なぜ名前が違うんだ?
改名?
そんなはずはない。しっかりしろ……。
この子が、娘であるはずないじゃないか。
こんなところにいるはずがないんだ。
私の娘はもう……!
堀口はもう一度、日沖かなを見つめた。
着ている服と名前が違うだけだった。
目も鼻も声も、彼女を形作るすべてが、事故でこの世を去った娘と同じだった。
「どうして君たちはここにいる?」
堀口が恐る恐る聞いた。
「わたしたちが道に立っていたら、ご主人さまがきて、ここに連れてきました」
「……拉致」
もちろん堀口も知っている。ここ静岡県一帯を恐怖せしめた、少女誘拐事件を。
姉妹のうしろには小さな窓がひとつあった。
大半が木の板で覆われていて、ほんの数センチの隙間だけが開いている。
縦に並んでいたふたつの目は、やはり姉妹のものだったのだ。
「ここにはどれくらい閉じ込められていたんだ?」
堀口の言葉に日沖かなの瞳孔が大きく開いた。
それは期待に満ちた光のようだった。
「もしかしてわたしたちを助けてくれるんですか?」
日沖かなの言葉が、堀口の脳裏で異なる声となって聞こえた。
――お父さん、しずかを助けてくれるの?
しずか……娘……。
「ううっ……! ぐあぁっ!」
突然、激しい痛みが堀口を襲った。
緊張から開放されたせいか、それとも傷口が開いたのか。
堀口の顔半分を覆うタオルがさらに赤く染まった。
私はまたも、生きることを望んでいる……!
断崖絶壁に立ったあの日と同じだった。
生きるためには、痛みを享受しなければならなかった。
生をまっとうするためには、痛みを認識しなければならなかった。
目の前にいる少女が……。
娘と瓜二つの少女が……。
私に、もう一度生き抜けと語りかけている。
幸せだった日々。
堀口は無意識に、生涯で最も幸せだった日々を思い出した。
その時間、そのすべての場面に目の前の少女がいた。
パパ、パパ!
違う……。
この子は私の娘ではない!
違う……。
この子は、私の娘だ!
生き残った左目が、目の前の少女を見ていた。
死んだ右目が、亡くなった娘を見ていた。
人生をあきらめたはずだった。
しかし、人生を望んでいる。
この小さな少女が、私の欲望を掻き立てる。
私はなぜここにきた――!?
君たちを救いに――!?
娘に会いに――!?
混乱は加速度的にひどくなっていった。
何かが全身を浸食している。
やがて……変質は終わりを告げた。
堀口ミノルは別人へと変遷した。
……悪魔へと。
***
目の前に立つ堀口の苦悩を見つめながら、日沖かなはずっと妹を守ろうとしていた。
「だいじょうぶだよ」
小さな声で慰めた。
「こわいよ、おねえちゃん」
日沖りんは姉の胸に顔をうずめた。
「ご主人さま、だいじょうぶですか?」
日沖かなが妹を抱きしめたまま顔をあげた。
「……大丈夫だ。それよりも君たちはどれくらいここにいたんだ?」
「たくさんです。とてもたくさん」
「そうか」
「ちょっと待ってください。りん、かぞえてみて」
日沖かながそう言うと、妹・りんが腕を伸ばし後ろの壁を指でなぞった。
そこには無数の「正」の字が刻まれている。
「12345……678910」
正の字は数十にものぼった。
「もう数えなくてもいいんだ。とても長く閉じ込められていたのは知っていたから」
「ご主人さま。わたしたち、ここから出られるんですか?」
「ああ、ここを出よう。君たちがご主人さまと呼んでいた男は、もういなくなったんだ」
――すまない。
許してくれ。
私はもう、今までの私ではなくなってしまった。
「パパのところにかえれるの!?」
妹の日沖りんが生気を取り戻し、はじめて堀口に顔を向けた。
「帰りたいのか?」
「うん、パパに会いたいよ」
――私を許してほしい……。
堀口は開いた扉の前に立ったまましばらく動けなかった。変わってしまった自分に戸惑い、それを受け入れるための時間が必要だった。
強く確実な欲求が、堀口の中に根付いていた。やがて時が満ちたようにすっと息を吐き、重い口を開いた。
「君たちのお父さんは……死んだ」
えっ……。
ふたりは大きく目を見開き、そのまま動かなくなった。
……パパ! パパ!
泣き叫ぶ声が、とても遠くで鳴っていた。
「でも怖がることはない。今すぐにここを出よう。それから――」
――すまない……私はもう。
「これからはこのおじさんが、君たちのパパになってあげるから」