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莉久⚁⚄[低浮上]
33
#ご本人様には関係❌
第5話 もう利用者じゃないからな
鍋の中で、具材が小さく弾けた。
龍清は瞬きをする。
目の前に戻ってきたのは、卒業の日の廊下ではなかった。
自室の台所。
任務装具を外した熊が、一歩分の距離を空けて立っている。
龍清が「危ない」と言った途端、腰へ回していた腕を解き、それから一度も近づいていない。
名前で呼ばれるのを、ただ待っている。
「あの日、お前がくれた名前がある」
先ほどの言葉が、まだ耳に残っていた。
あの名を一方的に与えたつもりはない。
龍清は、自分が熊に似合うと思った音を提案しただけだ。
それを自分の名として選び、記録板へ書かせたのは熊自身だった。
分かっている。
それでも、その名を呼ぶたびに卒業の日を思い出す。
職員と利用者ではなくなった境界の外で、真っ直ぐに向けられた言葉。
俺は、お前が欲しい。
龍清。俺と一緒にいてくれ。
そこまで一緒に思い出してしまうから、今でもときどき、照れ隠しのように昔の呼び方へ逃げてしまう。
「……魁篤」
龍清が呼ぶ。
熊の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「もう一度」
「調子に乗るな。ちゃんと呼んだだろ」
「もう一度、聞きたい」
「まったく……一回呼ぶたびに要求が増えるな、お前」
熊は黙っている。
諦めるつもりがない顔だった。
龍清は視線を逸らし、鍋の火加減を確かめる。
「魁篤。これで満足か?」
「ああ」
「熊さんとも昔から呼んでるだろ」
「それは、俺が利用者だった頃の呼び方だ」
「別に悪い呼び方じゃないだろ。お前も嫌じゃないって言ったじゃないか」
「嫌ではない」
「なら――」
「だが、今は名前の方がいい」
龍清は振り返った。
「何でだよ」
熊は迷わず答えた。
「もう利用者じゃないからな」
職員に呼ばれる由来名ではなく、自分で選んだ名前がある。
支援を受けるだけだった頃とは違い、自分の仕事を持ち、自分の生活を築いている。
そして今、龍清の前にいるのは、かつての利用者ではない。
対等な一人の男であり、恋人だった。
「……そうだな」
龍清は小さく息を吐いた。
「もう利用者じゃない。分かってるよ」
「ああ」
「分かってるんだけどなぁ……」
熊が龍清へ近づこうとする。
大きな身体が一歩動いたところで、龍清は片手を上げた。
「ちょ、おい。待て待て」
熊が止まる。
「今は料理中だ。火も刃物もある。危ないから離れてろ」
「分かった」
熊は一歩下がった。
それだけではなく、そのまま台所の外へ出ようとする。
あまりに素直な背中を見て、龍清は口を開いた。
「……後でなら」
熊の足が止まる。
ゆっくりと振り返った。
「何がだ」
「そこを聞き返すなよ」
「何が後なんだ」
「分かってるくせに、妙なところで確認するよな、お前は」
熊は真顔で龍清を見ている。
龍清の顔へ、じわじわと熱が集まる。
「だから、その……料理が終わってからなら、別に離れてろとは言わない」
「分かった」
「本当に分かってるのか?」
「ああ。後で触れていい」
「そこまで言葉にしなくていいんだよ」
熊はそれ以上近づかなかった。
言われたとおり台所から出ようとする。
その横を通り過ぎる直前、龍清は熊の袖を掴んだ。
「待て」
熊が足を止める。
「何だ」
「少し屈め」
熊は理由を尋ねず、龍清へ顔を近づけた。
龍清は一瞬だけ迷った。
それから熊の頬へ、掠めるほど短く唇を触れさせる。
すぐに離れ、何事もなかったように袖を放した。
「これは、今の分」
熊は黙った。
大きな身体が、完全に停止している。
「おい?」
「後もあるんだな」
「確認するな。飯が遅くなる」
「分かった」
「顔、笑ってるぞ」
「笑っていない」
「いや、笑ってるだろ」
「嬉しいだけだ」
「そういうのを平然と言うなよ。こっちが困るだろ」
龍清は熊を台所から追い出すように手を振った。
「ほら、戦闘任務で汗かいただろ。先に風呂、使ってこい」
「ああ」
「装具はそのままでいい。あとで手入れするなら、床へ敷物を出せよ」
「分かった」
熊は部屋の奥にある収納を開けた。
迷うことなく、自分用の替え衣を取り出す。
いつから置かれるようになったのか、龍清はよく覚えていない。
初めは任務帰りに立ち寄った熊が、急に泊まることになった時のためだった。
一組だった替え衣が二組になり、今では普段着も寝衣も置かれている。
食器棚には熊が使う大きな器があり、寝台の脇には熊用の枕もある。
この部屋は今も龍清の自室だ。
だが、その生活のあちこちには、当たり前のように熊の居場所ができていた。
コメント
1件
みぅです、読ませていただきました🥀 「もう利用者じゃないからな」——この一言が本当に刺さりました。支援を受けるだけの関係から、対等な恋人へ。龍清が照れながらも「魁篤」って呼ぶところ、そして名前を呼んでもらいたくて何度も聞き返す魁篤の不器用な甘え方、すごく好きです。キッチンのあの「後でなら」の流れ、二人の距離感がじわじわ縮まっていく感じがたまらなかった。龍清の部屋に魁篤の物が自然に増えていく描写も、静かな幸せが伝わってきて、胸がじんわりしました。