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第1章:沈黙の少年
教室の隅。窓際の最後列、日が射すその席に神谷透は座っていた。
教師の声が、どこか遠くの世界から響いてくる。教科書を開いたままページの内容は頭に入ってこず、ただ数字と漢字の羅列が視界の隅でぼやけていく。
透は無表情で前を見つめていた。目立つことはなく、話しかけられることも稀で、誰も彼に興味を抱いていなかった。むしろそれが彼の望みだった。
「お兄さん、今日もサッカーの試合なんでしょ?」
隣の席の高瀬美咲が笑いかけてきた。彼女の声は明るく、何の気負いもない。
「うん、たぶん」
透は短く答える。話すことが嫌なわけではない。ただ、言葉を紡ぐ必要性を感じなかった。
兄・悠真は学校では人気者で、教師からも生徒からも一目置かれていた。スポーツ万能で、顔立ちも整っている。笑えばその場の空気が和らぐ、そんな力を持っていた。
その兄がいるからこそ、透は「比較される存在」としてしか見られなかった。家庭でも、学校でも。
——お前も悠真みたいになれたらいいのにね。
母がかつて言った言葉が、記憶の底から浮かび上がる。あのときの夕暮れ、台所に立つ母の背中。透が返事をしなかったことに、彼女は気づいてもいなかった。
その夜、食卓には悠真の好物だけが並んでいた。
「……」
透は教室の中でそっと目を閉じる。まぶたの裏に、誰もいない家の居間が浮かぶ。静まり返った廊下。テレビの音だけがむなしく響いていた日々。
「神谷くん、最近元気ないよね」と美咲が囁くように言った。
元気、とは何だろう。透にはもうその基準すらわからなかった。
放課後。下校中の道すがら、美咲は透の隣を歩いていた。彼女は何も言わず、ただ静かに寄り添っていた。
「ねえ、透くんって……夢、見る?」
「夢?」
「うん、怖い夢とか、悲しい夢とか。そういうの」
「……見ない。最近は」
それは嘘だった。本当は毎晩のように、兄に殴られる夢を見た。母に見捨てられる夢を。誰もいない暗い部屋で、自分の声が吸い込まれていく夢を。
でも、それを言ってはいけない気がした。
「そっか……私はよく見るんだ。なんか、誰かが泣いてる夢」
美咲がぽつりとこぼしたとき、透はほんのわずかに視線を動かした。彼女の横顔が、沈みゆく夕日に照らされていた。
そして、その日。夜の帳が下りた家の中。兄の笑い声がテレビの奥から聞こえたとき、透の中に小さな“音”が鳴った。
カチリ。
何かが動き出した、そんな確かな手応えだった。
第2章:赤い夜
その夜は、なぜか風が強かった。
窓の外で木々がざわついていた。透の部屋は薄暗く、蛍光灯の明かりはつけられずにいた。小さな卓上ランプだけが、机の上に置かれたノートをぼんやり照らしている。
——兄の机だ。
それはかつて兄が使っていた、今では物置のようにされていた部屋から持ってきたものだった。
「お前にはまだ早いから」そう言われて譲ってもらえなかった椅子。ふとした拍子に壊れた、弟用の安物の机。
それらを、透は一つずつ覚えている。
理由なんて、なかった。けれど——ほんの些細なことの積み重ねが、雪のように降り積もる。
今夜、透は家に一人だった。父は仕事で帰らず、母は実家に用事で出ている。兄・悠真は遅くまで部活だと言っていた。
何も起こらないはずの、平凡な夜。
透は、台所で包丁を手に取った。
冷蔵庫の前で、意味もなく立ち尽くす。その冷たい金属の重みに、妙に現実感が宿る。
——もし、これで。
想像は一瞬で終わった。
玄関が開く音。帰ってきたのは兄だった。
「ただいまー……って、あれ? 透?」
キッチンに立つ透を見て、悠真は笑いながら近づいてくる。いつもの調子だ。
「珍しいな、こんな時間に台所とか。腹減った? 俺もなんか食べるかー」
その声が——うるさく感じた。
笑顔が、まぶしかった。無邪気に透を見下ろすその姿が、耐え難かった。
「兄さんは、なんで……そんなに……」
「え?」
透の言葉に、悠真が眉をひそめる。
「何言って……」
次の瞬間、包丁が振り下ろされた。
音がした。肉を裂く音。血のにおい。熱。
「——ッッ!! あっ、あ、あ……!」
悠真が目を見開く。信じられないものを見るように。唇が何かを言おうと動くが、言葉にならなかった。
透はただ、黙って立っていた。顔には何の表情もない。
床に膝をつき、倒れ伏す兄。その体から赤いものが、ゆっくりと広がっていく。
時間が止まった。
透の手から包丁が落ちる。音が、ひどく遠くに聞こえた。
胸が苦しい。喉が詰まる。目の奥が熱い。けれど、涙は出なかった。
どうしてこんなことをしたのか、自分でもわからなかった。ただ——ああ、これで、ようやく兄と「同じ場所」に立てた気がした。
その夜。透は自室に戻った。
全てが静まり返っていた。電気もつけず、ベッドにうずくまる。手が震えていることに気づいて、やっと「自分は生きている」と理解した。
そのときだった。
「……気分はどう?」
——声がした。
背後に、人の気配。息を呑んで振り向いたその先に、白い肌の少年が立っていた。
銀色の髪。灰色の瞳。10歳にも満たない、小さな体。
けれど、その目は透よりもずっと冷たく、深く、そして澄んでいた。
「きみが、最初に望んだとおりになったね」
彼は笑っていた。
「ぼくの名前? ……うーん、そうだな。君が呼びたいように呼んでよ。今は……“ユウ”で、いいよ」
第3章:兄という檻
翌朝、部屋は静まり返っていた。
透はベッドに座ったまま、夜の出来事を思い返していた。けれど、それはまるで他人の記憶のようだった。現実感がない。ただ、指の間に残った血の乾いた感触だけが、本当のことだと告げている。
隣に、ユウが座っていた。
「黙ってたら、誰も気づかないよ。遺体は冷たくなるまで、案外静かにしてる」
彼はそんな残酷なことを、まるで遊びの提案のように言った。
「それとも……後悔してる?」
透は首を振らなかった。肯定も、否定もしなかった。
ただ、頭の中にずっと響いていた言葉があった。
——兄さんは、すごいね。
——兄さんは、優しい。
——兄さんみたいになれたらいいのにね。
親も、先生も、友達も、みんなが口にするその言葉。透がどれだけ努力しても、その背中はいつも遥か先にあった。褒められたことは、いつも「兄に比べれば」の枕詞つきだった。
兄・悠真は、檻だった。 透が外に出ようとすれば、優しい顔をして立ちはだかる。無自覚に、自然に、存在そのものが透を閉じ込める。
「憧れ」ではなかった。「嫉妬」でも、「劣等感」でもない。
それはもっと原始的な、逃れられない「呪い」だった。
「……透、起きてる?」
母の声が階下から響いた。
透は、はっとして立ち上がる。
体は勝手に動いていた。昨日の痕跡を消すように。血のついた服は洗濯機へ、包丁は元の場所へ戻す。兄の部屋のドアは閉ざされたまま、何もなかったように家は動き始める。
透は無表情で朝食を食べ、母と他愛のない会話を交わす。
ユウはその間もずっと、透の背後にいた。
「ふふっ、うまくやってるじゃない。透は嘘が得意だね」
その声は、まるで愛情のように優しかった。
学校へ向かう道。透は何度も振り返った。
それでもユウは、どこにでもいた。信号待ちの時、教室の隅、黒板の影。彼は他の誰にも見えない場所で、透を見つめていた。
「透。きみはもう、一人じゃないよ」
それが慰めなのか、呪いなのか、透にはわからなかった。
第4章:君の手を、ほどく
ピアノの旋律が、窓の外の雨音と溶け合っていた。 高瀬美咲は、教室の片隅で楽譜をめくりながら、ふと顔を上げた。
透の背中が見えた。
教室の一番後ろ、窓際。いつもの席。誰とも目を合わせず、教科書の文字を追っているふり。 でも、美咲にはわかる。あの子の目は、どこも見ていない。どこにも焦点を合わせていない。
「……神谷くん、最近、寝てる?」
昼休み、思い切って声をかけた。彼はほんのわずかに瞬きをして、ゆっくりと顔を上げた。
「うん。寝てるよ」
それだけだった。会話は続かなかった。
それでも、美咲は話しかけるのをやめなかった。 ピアノの帰り道に一緒になるふりをして、傘を貸した。放課後に残っているとき、さりげなく近くに座った。 彼が困っていることは何もなかった。でも、美咲は知っていた。
彼はずっと、「助けて」と言えない子だった。
ある日、透がポツリと呟いた。
「怖い夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「……目が覚めたら、全部が嘘だった。自分が誰なのかも、わからなくなる夢」
その時、美咲は初めて気づいた。透の目の奥にある空白に。
彼は今、生きているように見えて、どこにもいなかった。 この世界のどこにも、彼の心は繋がっていない。
その夜、美咲は日記に書いた。
“神谷くんは、壊れそうな人です。 でも、まだ壊れてはいない気がする。 私にできることがあるなら、何でもしたい。”
次の日、美咲は透に手紙を渡した。 小さな白い封筒の中に、「また一緒に帰らない?」とだけ書かれていた。
透はそれをじっと見つめ、口元をわずかに歪めた。
――微笑みだったのか、それとも拒絶だったのか、美咲にはわからなかった。
その帰り道。
夕焼けが、世界を赤く染めていた。
透はぽつりと、こんなことを言った。
「僕は、いなくなった方がいいのかもしれない」
美咲は静かに首を振った。
「そんなこと言わないで。誰か一人でも、あなたを大切に思ってたら……それは、生きる理由になるでしょ?」
透は何も言わなかった。ただその視線の向こうに、一瞬、誰かの姿が見えた気がした。
灰色の瞳。白い髪。 ――ユウが、そこに立っていた。
彼は透の耳元に、囁いた。
「やさしさって、苦しいよね」
第5章:やさしい手、壊れる音
土曜日の放課後、美咲は誰もいない音楽室にいた。 指先で鍵盤をなぞる。ド、レ、ミ、ファ――音が揺れて、心の中の不安をなぞる。
「神谷くん、何か隠してるよね?」
誰もいない空間に向かって呟いた。
ここ数週間で、美咲の中には確信に近いものが芽生えていた。 透の態度、彼の目の奥に浮かぶ色、話し方、仕草。普通の「秘密」じゃない。あれは……もっと深くて、黒くて、誰にも言えないもの。
その夜、美咲は決心して透の家へ向かった。小さな声でインターホンを押す。
「神谷くん、いる? 話したいことがあるの……」
透の部屋は暗かった。だが、窓越しに、彼の姿が見えた。机に向かって何かを見つめている。
数秒の沈黙のあと、透はドアを開けた。
「……どうしたの」
「少しだけ、時間もらってもいい?」
透は躊躇いながらも頷き、美咲を部屋へ通した。空気は重く、冷たい。まるで空き家のようだった。
「ねぇ……神谷くん。私、気づいてるよ。あなた、何か――いや、誰かを……」
その瞬間、透の肩がぴくりと動いた。背中がわずかに震えていた。
「――お願い、もう隠さないで。私、あなたを――救いたいの。あなたの味方でいたいの」
沈黙が満ちた。
透は静かに立ち上がり、美咲に向き合った。
「やめてよ」
「え……?」
「それ以上、優しくしないで」
その声は震えていた。まるで、泣きそうな子供のように。
「優しくされると、壊れるんだよ。僕みたいな人間は……誰かに許されるのが、一番怖いんだ」
その言葉の直後だった。
パリン、と何かが割れる音がした。
美咲の瞳に、驚きの色が浮かんだまま、意識が遠ざかっていく。
血の匂い。透の手の震え。崩れ落ちるように、彼女は倒れた。
時間が止まっていた。自分の呼吸さえも、遠くに聞こえる。
そして――ユウが現れた。
「優しさが、一番残酷だったね」
彼は微笑んだ。その瞳には、涙のような光が宿っていた。
「透。君はもう、戻れないよ」
透はただ、その場に膝をついて、嗚咽を漏らした。声にならない声で、何度も「ごめん」と呟きながら。
透は自宅を出てから、時間の感覚を完全に失っていた。足元にはまだ雨の名残が残り、アスファルトに映る街灯の光がぼやけて見える。歩くたびに靴が水を吸い、冷たさがじわじわと足先から体全体に広がっていく。駅の裏路地は、昼間とは違い、誰一人いない静寂に包まれていた。遠くで電車の音が響くが、それすらも現実味を感じさせなかった。
透の視界は徐々に歪み、現実と幻覚の境界が曖昧になる。ふと気づくと、ユウが隣に立っていた。彼の白い靴は、雨に濡れた地面にもかかわらず、汚れひとつなかった。ユウの声は、まるで頭の中に直接響いてくるようで、周囲の音が遠ざかっていく。
「どこに行けばいいの?」という問いに、ユウは静かに「どこでもいい。君が望むなら、ここが終点でもいいんだ」と返す。その言葉に、透は心の奥底にあった恐怖と安堵が入り混じった感情を覚える。ユウの灰色の瞳は、透の心の闇を見透かしているようだった。
透は、ベンチに腰を下ろし空を見上げる。青空と流れる雲は、どこか非現実的で、まるで絵画のように感じられる。「これが自由?」と自問しながらも、誰にも見られず、誰にも触れられない孤独が本当の自由なのか分からなくなる。ユウが肩に手を置いたとき、その温もりが現実か幻かを確かめる気力すら、透には残っていなかった。
透の精神は、壊れていくことで逆に「楽」になっていく。現実の苦しみから逃れ、ユウという幻覚にすがることで、透は自分自身を守ろうとしていた。しかし、その先に待つのはさらなる孤独と空虚だけだった。
第7章:鏡の中の僕ら
透は街を離れ、廃工場のような場所に潜むようにして過ごしている。そこは現実と幻覚のあいだにある“境界の場所”。ユウとの対話が中心になり、彼の存在の意味、自分が失ってきたもの、自分が「何者だったのか」を少しずつ思い出していく。
本章では、ユウの正体に対する深い示唆が与えられ、読者が「ユウとは何か」を理解し始める。
窓は割れていた。雨が降りこみ、床を濡らしていた。
透は鉄骨の影に座り込んで、ぼんやりと空を見上げていた。
「ここが、終点?」
ユウの声がした。あいかわらず、どこから現れたのかわからない。透はもう驚かなかった。
「君はさ、何が欲しかったんだと思う?」
「……わからない。ただ、痛みがなければ、それでよかった気がする」
ユウは頷いた。それは肯定でも否定でもなかった。
「ねえ、覚えてる? 昔さ、君、家で描いてた絵。青い鳥のやつ」
「……なんで、知ってるの?」
「だって僕は君だから」
透はその言葉に、初めて真正面から向き合った。
あの日、壊したのは兄だけじゃなかった。美咲だけじゃなかった。 もっとずっと前に、自分自身を――あの優しかった、泣き虫で、誰かのことを好きになれる“僕”を殺してしまっていたのだ。
「彼が透のもう一人の人格」であることが強く示唆される。
ユウが語る「生きることの意味」、そして「壊れてしまったあとにも選べる未来」の存在。
透は廃工場の錆びた鏡の前に立つ。 そこに映ったのは、自分の顔ではなく、微笑むユウの顔だった。 でもそれは、鏡の中だけのことだった。
ユウは言う。
「僕は、君が作った最後の逃げ場なんだよ。――でも、そこにずっといていいとは限らない」
透は、静かに鏡に手を触れる。
「……逃げ場があるってことは、まだ終わってないんだよね?」
第7章終わらない夢の中で
風の音がしなかった。 音という音が、どこかに置き去りにされたようだった。
線路の脇に佇むその場所は、世界から切り離されたように静かで、夜のように深かった。 透は膝を抱え、膝の上で指を組み、ただ黙っていた。空は曇り、明かりも、星もない。 時間すら、流れていない気がした。
「ねえ、透」
いつからそこにいたのか、ユウがすぐそばに座っていた。白い肌。灰色の瞳。あの、無垢な顔。
「君はずっと、ひとりで頑張ったんだ。壊れないように、泣かないように、誰にも気づかれないように。でももう……終わらせてもいいんじゃない?」
透は、答えなかった。ポケットの中にある、あの重たい感触を指先でなぞる。
あのナイフ。あの刃物。 初めて人を殺したときの、あの冷たい鉄。 何人も傷つけ、壊し、奪った、その刃。 そして今、それは、透の手の中にある。
「君は……僕だったの?」
ぽつりと透が問いかけると、ユウは微笑んだ。
「ううん。僕はね、君がずっと隠してた“本当の君”だよ。 泣き虫で、優しくて、誰よりも人が好きだった、あの頃の君。 忘れたふりをしても、消したふりをしても、ずっとここにいた。 君の心のいちばん奥で、ずっと泣いてたんだよ」
透の目から、するりと一筋の涙がこぼれた。 風が頬を撫でる。夜がすべてを抱きしめるように、そっと沈黙する。
透は、立ち上がった。震える手でナイフを握る。
「ありがとう、ユウ。もう……いいよ」
「うん。これで、いいんだよ」
刃先を胸元にあてる。 痛みは、思っていたよりもあたたかかった。 血が流れる音は、心臓の鼓動と重なって、どこかでピアノの旋律のように聞こえた。
透は、静かに目を閉じた。 世界が音を取り戻し、風が草を揺らし、ユウが最後にこう言った。
「おやすみ、透。……今度こそ、いい夢が見られるといいね」