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窓の外から差し込む午後の陽光が、オフィスに浮遊する埃を白く照らしている。
キーボードを叩く乾いた音と、誰かの電話応対の声。
そんな代わり映えのしない日常の中に、彼は鮮やかな違和感として現れた。
「舞さん、舞さん!この資料、これで合ってますか?」
デスクの横からひょいっと顔を出したのは
一週間前に配属されてきたばかりの新入社員、黒瀬蓮くんだ。
身を乗り出した彼の体温が、ふわりと私のパーソナルスペースに侵入してくる。
微かに香るのは、柔軟剤の清潔な匂い。
「あ、見せて……うん、完璧。黒瀬くん、相変わらず飲み込みが早いね」
私が赤ペンで丸をつけた資料を返すと、彼はパッと花が咲いたように顔を輝かせた。
大型犬が千切れんばかりに尻尾を振っているのが見えるような、一点の曇りもない笑顔。
「本当ですか? やった、舞さんに褒められた!」
そのあまりの嬉そうな様子に、強張っていた私の頬が思わず緩む。
営業事務として働いて四年。
今年、初めて「教育係」という大役を任されたときは胃が痛む思いだったけれど
後輩がこんなに素直で可愛い子で、本当に救われた。
「はいはい、そんなに喜ばないの。さ、次はこれをお願いね」
「了解です! 先輩の期待に応えられるように、僕、死ぬ気で頑張っちゃいます!」
黒瀬くんは「えへへ」と喉を鳴らして笑い、自分のデスクに戻っていく。
細身のスーツをスマートに着こなしているが、少し癖のある明るい髪がどこか幼さを残していた。
社内の女性陣からは
「オフィスに舞い降りた天使」なんて呼ばれて、早くもマスコット的な存在になっている。
私にとっても、彼はすっかり
「手のかからない優秀で可愛い弟分」だった。
……このときまでは
「舞ー、ちょっといい?」
不意に名前を呼ばれ、思考が遮られる。
顔を上げると、同期の小笠原がデスクの端に手を突いて立っていた。
彼は仕事ができるエリートで、入社当時から何かと私を気にかけてくれる、頼れる存在だ。
「あ、小笠原。どうしたの?」
「今日の夜、空いてる? 近くに新しいイタリアンができたんだけどさ、もしよかったら、残業終わりにでも……」
小笠原が少しだけ照れくさそうに視線を泳がせる。
その誘いの言葉が最後まで紡がれるより早く
背後から音もなく近づいてきた気配が、私たちの間の空気を切り裂いた。
「舞さん、すみませーん」
いつの間にか戻ってきた黒瀬くんが、私の椅子の背もたれに手をかけ
小笠原を押し出すようにして入り込んでくる。
その手には、自販機で買ったばかりの結露したカフェオレ。
「これ、根詰めてた舞さんに差し入れです。……あ、小笠原さん、お疲れ様です」
黒瀬くんは、いつものキラキラした笑顔を小笠原に向けた。
……はずだった。
(……え?)
一瞬、本当にコンマ数秒のこと。
私に背中を向けた黒瀬くんの肩越しに
小笠原を見据える彼の目が、凍りつくほど冷たく鋭く光った気がした。
獲物を狙う獣のような、あるいは排除すべき敵を睨むような、底冷えのする眼差し。
私は思わず瞬きをした。
けれど、次に私を覗き込んできた彼の瞳は、やっぱりいつもの甘えたような、潤んだ茶色。
「舞さん、夜は僕にたっぷり仕事教えてくれるって言いましたよね?ダメですよ、僕より先に小笠原さんと遊びに行っちゃ。僕、泣いちゃいますよ?」
黒瀬くんは私のスーツの袖口を指先できゅっと掴むと、首を少し傾けて上目遣いで覗き込んできた。
確信犯だと分かっていても、そんな顔で頼まれたら抗えるはずがない。
「わ、わかったよ。小笠原、悪いけど今日は黒瀬くんの指導があるから、また今度でいい?」
「……そうか。分かった。じゃあ、またな」
小笠原は一瞬、何かを言いかけようとして黒瀬くに視線をやり
困惑したように苦笑いを浮かべて去っていった。
「やった! 舞さん独占だ」
黒瀬くんは私の隣で、再び無邪気に笑った。
「でも、優秀な黒瀬くんが私に何を教わりたいの?」
「……ははっ、実は僕、舞さんに教えてもらいたいこと、山ほどあるんです」
耳元に寄せられた声は、いつもよりずっと低く、熱を持っていた。
鼓膜を揺らすその響きに、心臓が跳ねる。
微笑ましい弟分だと思っていた彼の仮面が、音を立てて剥がれ落ちようとしていた。
#コメディ