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「また、あんたか」
声の主に向かって蓮斗の嫌そうな顔。
「俺の秘書から手を放してもらおう」
近づいてきた奏多さんが手をかけると、不思議なことに私から蓮斗の手が離れた。
「邪魔するな。俺は芽衣に話があるんだ」
「彼女はないと言ったはずだが?」
「お前は黙っていろ」
蓮斗の声がどんどん大きくなる。
ダメだ。
ここは会社の前だし、騒ぎを起こせば人目にもつく。
早く騒ぎを納めなくては。
「蓮斗やめて、お願い」
「じゃあ、ついてくるな?」
「・・・うん」
そう答えるしかなかった。
「芽衣ッ」
奏多さんが怒っている。
でも、今はそうするしかない。
蓮斗ともう一度話をしよう。
一度で無理なら何度でも話して、わかってもらおう。
「絶対に、行かせない」
「え?」
今度は奏多さんが私の肩に手をかけた。
「手を離せ」
「イヤだ」
「芽衣が行くって言うんだから、邪魔するな」
「イヤだ、行かせない」
「お前、ふざけるな。芽衣は俺の女なんだよ。お前は引っ込んでろっ」
感情のままに叫ぶ蓮斗に周囲の視線が集まる。
ちょうど退勤の時間だから人も多いし、中には奏多さんを知っている人もいるかもしれない。
そう思うと気が気じゃない。
「お願いだから、もうやめて」
私は必死に2人を止めていた。
***
会社帰りのビジネスマンたちはチラチラと見て通り過ぎるし、少し離れたところには足を止めてこちらを見ている人もいる。
「何だよ、悪いのは俺じゃないぞ」
泣き出しそうな私と、周囲からの冷ややかな視線を感じて蓮斗はますます興奮しだした。
「悪いのはこいつだ。俺の女に手を出したんだからな」
「蓮斗、嘘言わないで」
私たちはもうとっくに終わっていたじゃない。
「負け犬の遠吠えだな」
フンと意地悪く笑う奏多さん。
「どっちが負け犬だよ。お前はどんなに頑張っても二番手だ。一番は俺だからな。芽衣にすべて教えたのは俺だし、芽衣がどうやったら喜ぶかを知っているのも俺だ」
「蓮斗ッ」
生まれて初めてってくらいの大声で叫んでしまった。
この人は公衆の面前で何を言い出すんだろう。
バンッ。
「え?」
ドンッ。
いきなり鈍い音が聞こえて、蓮斗が路上に倒れた。
何が起きたか一瞬分からずあたりをキョロキョロすると、仁王立ちになった奏多さんが蓮斗を見下ろしている。
どうやら奏多さんが蓮斗を殴ったんだと理解するのに数秒かかった。
「行くぞ」
立ち尽くしていた私は、奏多さんに声を掛けられ腕を引かれてその場を離れた。
***
近くに止まっていた奏多さんの車に乗せられた。
運転しているのはいつもの運転手さん。
静かに車が走り出ししばらくたったころ、それまで車窓を見ていた奏多さんが口を開いた。
「一体何がよくて、あんな男と付き合ったんだよ」
呆れたように言われると、
「すみません」
私としては謝るしかない。
「今は勤務時間外だ。『すみません』はおかしい」
「え?」
私は奏多さんの顔を見上げた。
えっと、秘書である私とシンガポールで出会った芽衣が同一人物なのを奏多さんは知っている。
いつ気づいたかはわからないけれど、さっきの蓮斗との会話からも間違いない。
それを踏まえたうえで今は仕事じゃないんだからと言っているわけで、
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「うん」
どうやら正解だったらしい。
そこでまた会話が止まってしまった。
聞きたいことはたくさんあるのに、聞くのが怖くて言葉にできない。
そうこうしているうちに、車がアパートの近くへ到着した。
「ここでいいです」
近くのコンビニに降ろしてもらって、
「ありがとうございました」
頭を下げると、
「何かあったらすぐに連絡しろ」
心配そうに言われた。
「はい、おやすみなさい」
さすがに蓮斗もここまではこないと思うけれど、何かあったら連絡しますと約束をしてアパートへ向かった。
***
その夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。
人通りの多い道で大声で叫ぶ蓮斗に狂気を感じて怖かった。
私のことに気づいていながら気づかないふりをしていた奏多さんが、一体何を考えているのか想像もできなくて不安だった。
それに、実家の母さんからメールが来ていた。
住所を変わったことを知らせていなかったから、「荷物が送り返されてきたんだけど?」という内容。きっとすぐに仕事を変わったこともバレるだろう。
ああぁー、困ったな。
このままじゃ実家に帰ることになるのかもしれないなあ。
そんなことを考えていたら、外が明るくなっていた。
***
翌朝、いつも通り出社した私。
荷物を置いてパソコンを立ち上げようとした時、田代課長に呼び出された。
「昨日、何があったのかを説明してください」
秘書課の事務室の奥にある打ち合わせ用の応接セット。
私は課長と向き合って座った。
課長の表情からは緊張した雰囲気が伝わってくる。
「えっと、私が友人に絡まれているところを副社長に助けていただきました」
すごく簡潔に説明してみた。
「友人、ですか?」
「はい。少し付きまとわれていて」
言いにくいけれど、聞かれれば言わないわけにはいかない。
「警察には?」
「いえ、そこまでは」
「そうですか?」
困ったなあと時々天井を仰ぐ課長。
どうやら何かあったらしいことはわかるけれど・・・
「副社長が暴力をふるったのは事実ですか?」
「え、ええ。でも、それは相手がひどいことを口にしたからで」
「ひどいこと?」
さすがに内容は言いにくくて、私は下を向いた。
課長もそれ以上聞こうとはしなかった。
「大体の事情はわかりました。小倉さん、今日はこのまま帰ってください」
「え?」
「副社長からの指示です。おそらく小倉さんは眠っていないだろうから、今日は休ませるようにとね」
「そんなあ」
ただでさえ迷惑をかけたのに、せめて仕事はちゃんとしたい。
「今日は副社長も一日外出の予定ですし、私の方でも事実関係を確認したいので、指示に従ってください」
事務的な口調で言い切った課長。
「わかりました」
当事者の私としては文句も言えず、課長の言葉に従うしかない。
***
その日の夕方、藍さんがアパートへやってきた。
「突然ごめんね」
「いえ、狭いところですみません」
職を失って蓮斗から逃げるように越してきたから、古くて狭い1kのアパート。
誰が見てもみすぼらしいけれど、今の私には仕方がない。
「ずっと住んでるの?」
藍さんもおんぼろアパートに驚いている。
「いいえ、二ケ月前からです。それまではもう少しまともなところに住んでいたんですが」
「ストーカーの元カレが原因?」
「ええ、まあ」
やっぱり大体の事情は知っているらしい。
「今日はね、轟課長に様子を見て来いって言われたのよ」
「轟課長に?」
「うん。自分が異動を止めてやれなかったせいじゃないかって、課長なりに気にしているらしいわ」
「それは違いますよ」
間違っても課長のせいではないのに、返って申し訳ない。
それより、
「会社の方は、騒ぎになっているんですか?」
「うん、まあね」
ちょっと言いにくそうに、藍さんが言葉を濁した。
「副社長は」
どんな様子ですかと聞きたいのに、聞くのが怖い気もする。
「芽衣ちゃん、ネット見た?」
「え、いいえ」
「そうか。今ネット上では、うちの副社長が路上で暴力を振るったって書かれているのよ」
「え、でも、それは」
蓮斗が挑発したからで。
それに、そんな小さないざこざがネットで取り上げられるなんて、
「ああ見えて、財閥の御曹司だからね。面白おかしく取り上げる人も多いの」
「そんなあ」
「それに、被害者を名乗る人が随分大げさに話を膨らませているみたいだし」
確かに、蓮斗ならやりかねない。
「藍さん、私どうしたらいいんでしょうか?」
全部私のせいなのに。
***
「どう、落ち着いた?」
「はい」
動揺してしまった私のために、藍さんが温かいお茶を入れてくれた。
「芽衣ちゃんにしてみたら責任を感じるかもしれないけれど、今は副社長に任せるべきだと思うわよ」
「でも」
原因は私なのに。
せめて蓮斗を説得してこれ以上騒ぎを大きくしないように頼むことはできるんじゃないだろうか。
そのくらいはすべきだと思う。
「ねえ芽衣ちゃん」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、藍さんがニッコリ笑顔で私を見ている。
「副社長と知り合いだったの?」
「え?」
「あの場にいた同期の子がね、『芽衣』って副社長が呼んでいたって」
「ああぁ」
すごいなあ女子の情報網。
でも、こうなれば嘘は付けない。
「実は偶然面識があって」
「そうなんだ」
「でも、旅先でたまたま出会ったってだけで、知り合いってほどではないんです」
「ふーん」
藍さん、何か言いたそう。
「何か、噂になってますか?」
「今のところは大丈夫。副社長が路上でからまれた秘書を助けるために男を殴ったって話になっているわ」
「そう、ですか」
本当に、奏多さんに申し訳ない。
この時、私はもう一度蓮斗と話そうと心に決めてた。
***
昨日の夜から何十件とある蓮斗からの着信。
全て無視してきたけれど、奏多さんに迷惑がかかるとなればそうも言っていられない。
私は意を決して、蓮斗に電話をした。
当然のように蓮斗は会って話をしたいという。
いつもなら絶対に断るけれど、今の私は従うしかなかった。
「じゃあ、マンションで待ってる」
「わかった」
蓮斗のマンションで会うなんて危険だけれど、他に方法がない。
何とか蓮斗を説得して、奏多さんの記事を取り下げてもらうしかないんだから。
アパートを出て、電車に乗り、重い足取りのまま私は蓮斗のマンションを目指した。
***
「どうぞ」
通いなれた蓮斗のマンション。
家具の配置から物の置き場所まで、全て知っている。
学生時代は自分のアパートよりここにいることの方が多かった。
それだけ慣れ親しんだ場所なのに、今は玄関を上がることが怖い。
「どうした。芽衣?」
玄関でフリーズしてしまった私に蓮斗が声をかける。けれどやはり足が進まない。
「上がってもらわないと話にならない」
「うん」
わかっている。
私は蓮斗と話をしに来たんだから。
蓮斗との距離を保ちながら、私はゆっくりとリビングに向かった。
「コーヒー飲むか?」
「いいよ」
飲んびりお茶をする気分じゃない。
私の言ったことが聞こえていないのか、蓮斗は一人でキッチンへ向かって行った。
珍しいな。蓮斗がコーヒーを入れてくれたことなんてなかったのに。
「そうだ、貰い物のリンゴがあるんだ。むいてよ」
「うん」
そういえば、不器用な蓮斗はリンゴの皮がむけないものね。
私はテーブルの上に置かれたリンゴとナイフを手にした。
ブブブ。
携帯に着信。
あ、奏多さんだ。
携帯を手にしたものの、もちろん無視しようとした。
いっそのこと電源を落とそうとした時、
「なあ芽衣、今日は泊っていくだろ」
思いもしなかった蓮斗の声が聞こえて、反射的に通話ボタンを押してしまった。
「もしもし、芽衣?」
「・・・」
「今、どこだ?」
「えっと・・・」
困ったな、なんて言おう。
「ブラックでいいよな」
ちょうどその時蓮斗がキッチンから声をかけた。
マズイ。
「おい、お前、あいつと一緒なのか?」
「ぅん」
聞こえてしまったからには誤魔化せない。
***
「お前のアパートに入れたのか?」
「違う」
「じゃあ、あいつのマンションか?」
「そう」
「なんて馬鹿なことを・・・」
奏多さんが呆れている。
わかっている。バカな行動だと思う。
でも、どんなことをしても奏多さんを守りたかった。
私のせいで奏多さんを傷つけたくない。
「今すぐそこを出ろ」
「そんな」
無理だよ。
「お前のことはどんなことをしても俺が守ってやるから、戻ってこい」
「奏多」
私が名前を呼んだタイミングで、蓮斗が戻ってきた。
「芽衣、誰と話してるんだ?」
「えっと・・・」
「今すぐ電話を切れっ」
怒鳴る蓮斗。
「待って、落ち着いて蓮斗」
ガチャンッ。
私が止めるよりも早く、蓮斗が持っていたコーヒーカップを床に投げつけた。
「芽衣は俺の彼女だろ。何でほかの男がウロチョロするんだよ」
「違うでしょ、蓮斗。私たちもう別れたじゃない」
「嘘だ。俺は別れてない。芽衣は俺のものだ」
叫ぶように言う蓮斗の目が据わっている。
ダメだ。
今の蓮人は興奮していて何をするかわからない。
私はとっさにナイフを握りしめた。
「芽衣、何する気だ?」
「それ以上近づかないで」
果物ナイフを持ち、自分の首元に当てた。
蓮斗と話してもらちが明かないとわかった以上、早くここを出よう。
「お願い蓮斗、もう苦しめないで」
ナイフを当てたまま携帯を鞄に詰め込み、ゆっくりと後ずさりしてマンションを出る。
その間蓮斗は身動き一つせずに立ち尽くしていた。
***
私は初めて蓮斗に逆らったのかもしれない。
今までどんなに文句を言っても、最終的には蓮斗の言うことを聞いてきた。
でも、もうやめた。
マンションを飛び出し大通りまで走って、人通りの多くなったところでやっと息をついた。
もう、蓮斗も追って来ないだろう。
ブブブ。
「芽衣?」
「うん」
「無事か?」
「うん」
「どこにいる?」
「・・駅の、北口の・・・大通りの・・・店の前」
「わかった、すぐに行くからそこを動くな」
「うん」
奏多の声を聞いたとたん足が震え出して、立っていられなくなった。
近くのガードレールにもたれかかり、何とか体を支える。
怖かった。
あのまま蓮斗に襲われるんじゃないかと恐怖を感じた。
「芽衣っ」
え?
「芽衣、大丈夫か?」
「奏多」
随分早くて驚いた。
「無事でよかった。心配であいつのマンションに向かっていたところだったんだ」
「ごめんなさい」
「いいんだ。よく頑張った」
握りしめていたナイフを取り上げられ、ギュッと抱きしめられた。
「私のせいで奏多に迷惑をかけたのが申し訳なくて、蓮斗に書き込みをやめてって言いに行ったの」
「うん」
「話せばちゃんとわかってくれると思ったのに・・・奏多、ごめんなさい」
「うん、わかっているから」
ボロボロと涙が溢れて、止まらなかった。