テラーノベル
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大学から少し離れているが、近くにコンビニがあって利便性の良いアパートに引っ越した。
大家さんの話では隣には、親子が暮らしていて足音が煩いかもしれない、と言われた。
日中は大学にいるし、夜はバイトで部屋には寝に帰るだけ。子供の足音や生活音が気になる前にだいたい寝てしまうので特に問題はなかった。
強いて言えば、隣の部屋から漂ってくる良い香りが貧乏学生には酷だった。
─今日は、カレーか…。
─今日は、おでんか?
─今日は、シチュー。
─角煮でも作ってるのか?
匂いだけで飯が食えそうな勢いだった。
そんなある日、お隣さんが尋ねてきた。
若い、細身の可愛らしい女性で、菊原優子(きくはら ゆうこ)と名乗った。
童貞を極めている自分には刺激が強すぎるほど、素敵な笑顔を浮かべていた。
「子供の足音とか声とか、気になりませんか?」
「ぜ、全然!気になりましぇん!!」
ああ、噛んだ。馬鹿め。恥ずかしさで死にそうだったが、彼女はやんわりと微笑んでタッパーを差し出してきた。
「もし、苦手で無ければ…食べてください」
「へ?」
それは、甘辛く煮込まれた角煮だった。
美味かった。最高に美味かった。きっと、これ以上美味い角煮に出会うことはないだろう。
俺は一人狂ったように角煮を貪り食べた。
美味しかったと、なんの捻りもない感想を伝えると、菊原さんは嬉しそうに笑い、それ以降ちょこちょこタッパーに詰めていろんなものを持ってきてくれるようになった。
カレー、シチュー、すじ煮込み、レバーの甘露煮などなど。
どれも最高に美味しかった。
たまに、「お友達にもどうぞ」と言って多めに貰う日もあったけど、こんな美味しいもの、あいつらにやるわけがなく、一人で美味しく頂いた。
彼女の料理を食べている瞬間が、何よりも幸せだった。
「彼女は俺に気があるのかもしれない」
そんな話をすれば、友人は呆れたような顔をする。
気があるって思いたくもなるだろう。こう、毎日何か作って持ってきてくれるのだから。
それ意外にどんな理由があるというんだ。
─いつ告白しようか…。
ベッドに横になり、そんなことを考える。
直接気持ちを伝えるべきなのかもしれないが、彼女を前にするとうまく喋れない。告白のタイミングで噛むとか最悪だ。それは絶対に避けたい。
では、手紙をしたためるか。いや、俺は綺麗な字が書けない。汚い字で告白されても嬉しくないだろう。
(俺、告白……無理じゃん……)
絶望的な気持ちになる。
(あのAVみたいに、タッパー返しに家に行ってそのまま菊原さんを押し倒して……いやいや、子供がいるのにそれは無理だろうが)
寝返りをうって、机の上に置かれた空のタッパーを見つめる。
そもそも、毎日持ってきてくれるからタッパーを返すという手間(イベント)が発生しない。
(じゃあ、料理を持ってきたタイミングで部屋の中に連れ込むか……そんな高度なこと、俺にできるのか?)
悶々としながら、再度寝返りをうつ。
アパートがあるのは、閑静な住宅街。夜は恐ろしいほど静かだった。
大家さんが言っていたような、子供の声も足音も聞こえない。
俺は目を閉じて、彼女とのことを妄想しながら眠りに落ちた。
ある日、いつも通り菊原さんがタッパーを持ってやってきた。
少し悲しげな表情を浮かべて。
「急なことなんですけど…引っ越すことになったんです…」
「え…」
それは衝撃的な一言だった。
「え、あ、お、俺…」
「毎回毎回、私が作ったもの食べてくれてありがとうございました。あの子は食が細くて……でも、あなたのお陰であの人を処分することができました」
満面の笑みを浮かべる菊原さん。
「しょ、え?」
「あ、あの人とその子供、でしたね。とても助かりました」
深々と頭を下げると、菊原さんはあっさり玄関を閉めてしまった。
何か言おうとした。追いかけようとして、喉の奥に詰まった何かが本能的に己の体を引き止めた。
”あの人とその子供…”
”処分…”
”引っ越し…”
妙に引っかかる言葉。
手元のタッパーに視線を落とす。そこにはいつも通り美味しそうなチャーシューが入っていた。
一つ摘んで、食べる。やっぱり美味しい。
美味しいのに、なぜだろう。この、不快感は。
その瞬間、脳裏を過ったのはたまたま耳にした噂好きのおばさんたちの会話。
「あそこの旦那さん、奥さんと子供を置いて浮気相手のところに行ったらしいわよ」
「本当に子供なんているのかしら?見たこと無いけど」
チャーシューをもう一口食べて、醤油やみりんといったよく知った味とは違う何かを感じ取る。
うまく飲み込めない、喉の奥になぜか引っかかる。
「ん、ぐっ……はぁ…」
無理矢理お茶で流し込み、息を吐く。
そして、まだ残っているチャーシューを見つめる。
捨てる。という選択肢が脳裏を過ったが、すぐに菊原さんの笑顔が浮かんできた。
捨てられない。あの人が作ったものは、捨てられない。
明日になったら食べられるだろうと思い、タッパーをそっと冷蔵庫の中に収めた。
───数日後。
「うわぁぁぁああ!!」
男性の悲鳴が聞こえて目が覚めた。
悲鳴は隣の部屋からだ。慌てて起きて部屋から出ると同時に、隣の部屋から大家さんが飛び出してきた。
「なにが」
「け、警察を呼んでくれ!!あ、頭が、頭が!!」
「頭って?」
顔色の悪い大家さんに聞いても「い、いいから早く呼んでくれ!!」と言われるだけ。
理由もわからず、言われるまま警察を呼ぶ。
程なくして警察とドラマで見るような鑑識っぽい人たちも部屋の中に入っていく。
自分はただそれをぼんやりと眺めることしかできなかった。
その後のことはニュースや警察の事情聴取で知った。
隣の部屋で見つかったのは、そこで暮らしていた父親とその子供の頭部。
警察は、行方がわからなくなっている”母親”が何らかの事情を知っていると見て捜査している。
俺は冷蔵庫の中に放置していた、”あの”タッパーを見つめる。
首から下は未だ見つかっていない。
これを警察に出したら、何かわかるのだろうか。
あの優しく微笑んでくれた菊原さんの顔が、歪む。
警察が見せてきた”母親”の写真。
それは、俺の知っている菊原さんじゃなかった。
まったくの、別人だった。
じゃあ、あの菊原さんは?
あの人は何者で、俺は一体何を食べさせられたんだ。
美味しいと思って食べていたモノが、何か知るのが怖くて、自分の頭に浮かんだ思考を否定するように俺は中身を捨てて、逃げるようにしてアパートを引っ越した───。
#一次創作
#オリジナルキャラクター有り
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