正体不明の衝撃が堀口ミノルの背中を襲った。
ぐあううっ!
重い痛みとは違う、鋭い痛みだった。
全神経が、痛みの中心である背中へと注がれる。
堀口は反射的に錠前から手を離して、鉄柱に身を隠した。
うぐっ……。
背中が心臓にでもなったように、激しく脈打っている。
体の後ろ側に現れた痛みによって意識が飛びそうになり、堀口はとっさに唇を噛んだ。
鉄柱に座った堀口の目に、血のついたナイフが見えた。背中の衝撃は、疑いなくそのナイフによるものだ。
「おまえは、誰だ……」
ひとりの男が立っている。
この廃工場の支配者であり、ふたつの目を監禁する犯人であるのは明らかだったが、言葉が自然と口からこぼれた。
目の前の男は長く太陽光を浴びたようで、どす黒く日焼けしていた。ズボンとシャツはひどく古びていて、ナイフをもつ手には無数のシワが刻まれている。
男には表情というものがなかった。
彼の瞳孔の動きからは感情を探るなど不可能だ。
ナイフからこぼれた血が床にぽつりと落ちた。
「イノシシばかり相手にしたせいで、動脈を刺し損ねたか」
男は仮面をかぶったように、表情のないままつぶやいた。
意のままに他人を部屋に閉じ込める非情なる人間。
自らの欲望を死守するために、躊躇なく堀口の背中を刺したのだ。
うぐっ、ううっ……。
血が呼吸に合わせて噴き出していた。
――わざと致命傷を負わないように刺したな……。
動脈を切れば難なく殺せたはずが、男はそうしなかった。
ただ静かに近づいてきては、抵抗できない程度に傷つけた。
なぜ殺さなかった?
正体を知るため?
この状況を楽しもうと?
痛みと混乱で頭がうまく回らなかった。
ただ本能だけはしっかりと機能していた。
――この男から逃げないと。
堀口は機を見て立ち上がり、工場の入口方向へと全力で走った。
荒れ果てた作業室を抜け、光が漏れる入口の扉に向かい必死に走っていく。
体力が底をつき両足の自由が効かなかった。
それでも堀口は生きるために走った。
すでに一度失った命だからこそ、尊く大切なものに感じられた。
家族が救ってくれた命。
誰かを救うべき命。
復讐すべき命。
まだやるべきことが残っている。
なかば使命感のような感情が圧となり堀口を動かしていた。
男が一言も発することなく、堀口の後を追っている。
ただ後方から鳴る足音は、遠くから聞こえた。
逃げ切れる!
入り口はもうすぐ目の前だった。
扉を抜けて山中に身を隠せば、そう簡単には見つけられないだろう。またいざとなれば死ぬ覚悟で坂を転がればどうにでもなる。
あとは村に降りて警察に通報すれば、少なくとも殺されることはないだろう。
だが……私の言うことを、警察が信じてくれるのか。
すでにビスタの建設が中止になったことが、町中に知れ渡っているかもしれない。その元凶である私を、警察が信じてくれるだろうか。
捕まるのはあの男ではなく、私じゃないのか?
たった一日で植え付けられた悲観的な思考が頭の中を支配していた。
堀口はようやく入口に達し、ドアノブを握った。
背中の痛みに耐えながら、ノブを回し外へと出る。
振り返ると1メートルの距離にまで男が迫っていて、急いで扉を閉めた。
助かった。
男の姿がすりガラスに映っている。
しかし男はノブに手をかけることもなく、ガラスの向こうから堀口を直視しているだけだった。
即決しなければならなかった。
扉を一枚挟んだ状況で押し問答をしたところで、弱った体では状況は悪化するだけ。
ダメージを負った体と、ナイフをもった男。
どちらに軍配が上がるかは考えるまでもない。
堀口は瞬時に身を翻し、工場を離れようと一歩を踏み出した。
そのときだった。
グルルルルル――。
3匹の大型犬が堀口の前に立っていた。
まったく友好的ではない荒々しい喉声を鳴らし、鋭い牙を見せている。
その隙をついてうしろの扉が開き、男が出てきた。
猟犬よりも危険なのは、うしろの男。
ためらっている時間などなかった。
堀口は小さく息を吐き、3匹の猟犬に向かって突進した。
猟犬たちは恐れることなく、左右に分かれ堀口の進むべき通路を空けた。
キャン! キャン!
甲高い鳴き声と同時に、左右の猟犬が堀口に襲いかかった。
2匹がズボンを噛み、残る1匹がスーツの裾に食らいついた。
猟犬たちは狩猟という任務を遂行するために訓練されていた。
彼らの目的は戦うことではない。
堀口をその場に拘束すること。
三位一体の陣形にまんまとはまり、堀口の動きは封じられた。
かろうじて後方に目を向けると、男はわずか1メートル前に立っていた。
男が鼻と眉間にしわを刻んでいる。
その表情は猛獣が敵を威嚇するまさにそれであった。
堀口は直感した。
それが男の笑顔だということを。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!