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意識を取り戻したのはキッチンだった。
椅子に体を縛りつけられ、まったく身動きが取れなかった。
獣の匂いが鼻をつき、全身は血と汗で濡れていた。
うぐぐっ……。
自らのうめき声が、遠くから聞こえた気がした。
まるで自分とは関係のないモニタ越しの声のようだった。
しかし体に蓄積した痛みが現実味を帯びてくると、うめき声はしっかり体内に響いた。
刺された背中をはじめ、ひとつとして正常な器官がなかった。
折れた肋骨に、いうことをきかない足。打撲は数知れない。
そのうえ、目と耳までも機能を失いつつあった。
体を縛りつけるロープを見て堀口はつぶやいた。
「まだ殺すつもりはないようだな……」
キッチンの出入口は2ヶ所。
工場内部へと通じる扉と、そのまま外につながる扉。
どちらの扉も鍵がついている。しかしおそらく外側から錠がかけられているのだろう。
ふたつの目が閉じ込められている部屋と同じように――。
中央のテーブルにまな板が置かれている。その上にあったはずのナイフは消えていた。
なぜあのときナイフを手にしなかったのか。
後悔しても遅かった。
生存権を完全に掌握されてしまった。
体はもう使いものにならず、ローブでくくりつけられ動くこともできない。相手は猟犬を連れ、さらにはナイフまでもっている。
逃げられるはずはない。
自分にきるのは、少しでも傷を癒すこと。
今逃亡できる可能性は皆無であるが、体を回復させれば1パーセントくらいにはなるかもしれない。
堀口はそれ以上考えることをやめ、とにかく目を閉じた。
*
コッコッコッコッ……。
悪夢の中に、奇妙な音が聞こえた。
夢とはまた別の定位から鳴る音で、堀口は目を覚ました。
男がテーブルで調理をしている。
男の背中と腕の間にイノシシの足がちらりと見えた。
骨と肉を分離し、切りとった肉をバケツの水で洗っている。
窓を開け換気してはいるが、これまでとは比較にならないほどの生臭さが部屋中に溢れていた。
風の強い日だった。
男が開けた扉の外では、猟犬が待機して座っている。
その奥に見える木々を背にするように、猟犬はじっと堀口だけを見ていた。敵を監視する鋭い視線だった。
どうすればここから脱出できるのか。
そうした考え自体を放棄せざるをえないほど、現実はあまりに制限されていた。
椅子に縛られた状態でナイフをもつ男と猟犬とを蹴散らすなど、正常な体であっても不可能ではないか。
男が開いた扉から一度外に出た。
数分後、薪をもって戻ってきた。
火鉢に火をおこし網を乗せ、イノシシの肉に塩をふってから置いた。
続いてにんにくを丸ごと網に乗せた。
ジリジリと肉が焼け、煙があがり、風に乗って外へと流れ出ていく。
木ではなく炭の匂いがした。
たしか工場のうしろにドラム缶があったはず。
その樽を使って自分で炭を作ったのだろう。
野生動物を捕獲するための檻と、育てられた野菜、そして炭。
男が手練れであるのは間違いない。
いつから、どれほどの期間、ふたつの目を監禁して暮らしているのだろうか。
堀口は固定カメラとなって、目の前の状況を記憶していった。
「イノシシを食ったことがあるか?」
突拍子もなく男が尋ねた。
堀口は驚き、すぐには反応できなかった。
すると男は何も気にすることなく料理を続けた。
工場の裏畑で採れた野菜を水で洗って皿に乗せ、トングで肉をひっくり返す。
「過去に一度……」
堀口は答えた。
「どこで?」
「家族旅行……」
妻と娘と訪れた生涯最後の旅。
ポケットのなかの写真を見たくなったが、ロープに縛られた手首が堀口の欲求を退けた。
ジジジジジ――。
網の上にのる猪肉は4、5人前ほどになるだろうか。いった何人の人間がこの廃工場のなかにいるのか想像がつかなかった。
男はトングで焼けた肉をつかみ、扉の外に放り投げた。
猟犬がしっぽを振って肉へと近づき、よだれを垂らした。
ひどく腹を空かせているようで、キュンキュンと喉を鳴らしながら肉が冷めるのを待っている。
男は残った肉を皿にのせ、そのまま扉を閉めずに外へと出ていった。
堀口はここが機会だととらえ、椅子を背負ったまま腰を持ちあげた。
ガルルル……。
肉を前にして理性を失っていた猟犬が、姿勢を低くして戦闘態勢に入った。
堀口が再び椅子に座ると、犬はまたキュンキュンと鼻を鳴らして肉を見つめた。
しばらくすると男がキッチンに戻り、残りの肉を焼きはじめた。
肉を裏返し、玉ねぎとニンニクをのせ、コップに入った水を一口飲んだ。
喉が渇きは限界を超えていた。
堀口は肉を見つめる猟犬と同じような目で、コップの水を眺めた。
キッチンには料理音だけが鳴っている。
堀口は男が何を言うかずっと待った。
しかし男はひと言も発することなく、キッチンから出て行ってしまった。
工場側の扉に錠がかかる音が聞こえた。
これで内部からの脱出は完全にできなくなった。
開いたままの外側扉には、猟犬が控えている。
堀口は壁を見つめた。
壁の向こうには、別の被害者がいるはず。
椅子を持ち上げて壁へと近づき耳を当ててみた。中の音は何も聞こえなかった。
縦に並んだ、ふたつの目を思い出した。
どうしてこの山奥の廃工場に、ふたりは閉じ込められているのだろうか。
いくら猟犬がいるにしても、男はたったひとりだ。
2対1の状況でこんな場所までどうやって連れてこられたのだろうか。
やはり誘拐犯は2人? それとも3人?
あるいは麻酔銃などで眠らせられ連れてこられたのか。
静寂が訪れたキッチンで、堀口は次第に周りの情報を渇望するようになっていく。
外の扉から再び男が戻ってきた。
男は場所を移動した堀口を見ても、まったく反応を示さなかった。
まな板の上に残る肉を火鉢にのせ、それを焼き終えたあと唐突に床に投げ捨てた。
それから犬用の水入れを床に置いて、そこに水を入れてから出て行った。
すぐに理解した。
これが自分に与えられた食事。
腹を満たすためには床を這いつくばるしかなかった。しかしそうすると簡単には起き上がれず、脱出する機会も失われるだろう。
用意周到、あるいは単に自分にまったく興味がないのか。男の意図は読めない。
だが肉と水の前で、堀口の思考は停止した。
腰を一度起こし床に倒れ込み、器に入った水を飲んだ。
あまりの喉の渇きに、水は瞬時になくなった。
這いつくばる姿勢に肋骨がきしみ、痛みがぶり返した。それでも手を使わずに焼いた猪肉にむさぼりついた。
犬にも劣る扱いだった。
しかし堀口はこれについて考えないようにした。
すでに一度捨てた魂だ。
生命を維持するためには何にだって耐えるつもりだった。
生臭い猪肉を食べながらも、堀口の目は決して死んではいなかった。