六月の終わり。
廊下の掲示板に「全国模試」の案内が貼られたころには、
教室の空気にも、少しずつ“受験生っぽさ”が混ざり始めていた。
「次の模試、本気で当てに行くやつー?」
昼休み、村上がそう言うと、
何人かが手を挙げ、何人かは「あー……」と曖昧に唸った。
「安藤は?」
「本気で当てに行く“つもり”」
そう答えると、村上はニヤッと笑った。
「国語も?」
「それ聞く?」
「聞く。国語ガチ強化月間って聞いたから」
山本さんとの面談の内容は、
どうやら西尾先生から多少漏れているらしい。
「……現代文の問題、ドヤ顔で線引くようにはなってきた」
「おお、進歩じゃん」
「合ってるかどうかは別としてな」
二人で笑いながらも、
模試の日付が近づくにつれて、
胸の奥のざわつきは少しずつ大きくなっていった。
◇
模試当日。
体育館の床にずらっと並べられた机と椅子。
消しゴムの匂いと、鉛筆を握る音だけが響く。
国語の冊子を配られた瞬間、
軽く深呼吸をした。
――線を引く。設問を見る。
根拠を決めてから選ぶ。
“なんとなく”でマークしない。
山本さんに何度も言われたことを、
頭の中で繰り返す。
時間配分、本文の読み方、設問の順番。
全部を完璧に守れたわけじゃないけど、
少なくとも前みたいに“途中で諦める”ことはなかった。
最後のページまでマークを埋めて、
終了の合図を聞いた瞬間、肩の力がどっと抜けた。
「……疲れた」
思わずつぶやくと、前の席の村上が振り返る。
「おつかれ。
顔がさっきまでの三倍くらい真面目だったぞ」
「二倍にしといてくれ」
そう返しながら、
自分でも少しだけ“やり切った感”があるのを感じていた。
◇
数週間後。
模試の結果が返ってきた日、
俺は進路指導室に呼ばれていた。
丸テーブルの上には、
今回の模試の成績表と、前回のものが並んでいる。
「さて、問題の国語」
西尾先生が、わざとらしく溜めてから紙をめくった。
「おお」
小さく声が漏れる。
「偏差値、前回より○ポイントアップ。
“壊滅”から“人類”くらいには進化したな」
「表現ひどくないですか」
「褒めてるんだよ、これでも」
先生は笑いながらも、真面目な目つきで数字を指さした。
「まだ志望ラインには届いてない。
でも、“数学と世界史で支えながら、国語を落としすぎないようにする”っていう
予定には、ちゃんと近づいてる」
「……そうですかね」
自分ではまだ、“できるようになった”実感は薄い。
「大事なのは、
“やれば上がる”って感覚を、ちゃんと自分の中で味わえたかどうかだ」
先生の言葉に、
塾での特訓の日々が頭に浮かんだ。
知らないうちに文章を最後まで読んでいて、
気づいたら時間がなくなっていた前とは違う。
読む前に設問を見る。
段落ごとに線を引く。
キーワードを追いかける。
それだけで、
“全く分からない”問題は減っていた。
「……ゼロから一くらいにはなった気は、します」
そう言うと、先生はうなずいた。
「それでいい。
ゼロから一にするのが一番しんどいんだ。
その壁を一回でも越えた感覚があれば、
あとは“一から二”“二から三”のほうがまだマシだ」
◇
その週末、また塾のブース。
山本さんは、成績表を見ながら小さく拍手をした。
「よく頑張ったね。
数字だけ見ればまだ足りないけど、
“国語をちゃんと勉強したら、その分だけ上がる”って体験ができたのは大きい」
「……正直、しんどかったですけど」
「そりゃそうだよ」
山本さんは笑ってから、ペンを取り出した。
「じゃあ、“仮のゴール”の確認をしようか。
東西市立 人間社会学部。
今の成績で、夏までにどこまで持っていけそうか」
紙の上に、前回の表と今回の表が並ぶ。
「英語はキープできてる。
世界史は少し伸びた。
国語は“大赤字”から“普通に赤字”くらいにはなった」
「表現がブラックなんですよ」
「でも、分かりやすいでしょ?」
たしかに、分かりやすかった。
「このペースでいけば、
夏の模試で“現実的にギリ届きそう”ラインまで持っていける可能性はある。
もちろん、そのためにはこのままサボらないことが前提だけど」
「サボったら?」
「そのときは、“目標を下げる”って選択肢が、
“逃げ”じゃなくて“現実的な判断”になるかもしれない」
山本さんは、少し真面目な声になる。
「でも今の段階では、
まだ“怖いから下げる”っていうタイミングじゃない。
“届くかどうかギリギリのライン”に挑戦してみる価値はあると思うよ」
「……はい」
自分の中でも、
“ここを目指す”という仮のゴールが、
前より少しだけ“本物寄り”に寄ってきている気がした。
◇
家に帰って、机の引き出しからメモ帳を取り出す。
最初のページには、相変わらずこう書いてある。
『やりたくないこと』
『“決まってなくていい時間”を、ちゃんと使う』
『決まらない理由を、言葉にしておく』
『家の事情も、自分の事情も、ちゃんと並べてから決める』
『はじめて“仮のゴール”として大学名を書いた』
『その“仮のゴール”が、今の自分より高いことを数字で突きつけられた』
『でも、“怖いから”だけで下げるのは、やめてみることにした』
その下に、新しく一行足す。
『少しだけ点が上がって、“やれば上がる”を実感できた』
ペン先が止まる。
――この先どうなるかは、まだ分からない。
東西市立に受かるかどうかも、国公立以外の道を選ぶかどうかも、まだ何も決まってない。
でも、
“やりたいことがないから何もできない”状態からは、
少しだけ離れられた気がする。
自分なりに考えて、
家の事情も、自分の事情も、一緒にテーブルに並べて、
人の話も聞いて、
それでもまだ迷っている。
その迷い方は、
最初のころとはだいぶ違っていた。
メモ帳の一番下の余白に、
もう一行だけ書き足す。
『まだ途中。けど、“途中”であることを、自分で認められるようになってきた』
書き終えて、ゆっくりとノートを閉じる。
窓の外は、少しずつ夏の色に変わり始めていた。
――ここから先のことは、まだ物語になっていない。
これから書く。
俺が、自分で決めながら。
そう思って、
机の上に置いた次の問題集を、静かに開いた。
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