テラーノベル
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数日後の退社後──…
いつも通り、尊さんと肩を並べて駅へと向かう帰路のことだった。
「ん…冷た……?」
頬を叩く冷たい感触に顔を上げると、鈍色の空から大粒の雨が断続的に落ちてくる。
それは瞬く間に激しさを増し、視界を白く染めるほどの豪雨へと変わった。
「うわっ!? 嘘でしょ、このタイミングで……っ」
「恋、こっちだ」
尊さんに腕を引かれ、とっさ
に近くのビルの軒下へ駆け込む。
しかし、ほんの数十秒の間に、スーツはぐっしょりと水を吸って重くなっていた。
濡れた前髪から滴る水滴がまつげを濡らし、視界を遮るのがひどく鬱陶しい。
「はぁ……ひどい目に遭いましたね……」
自嘲気味に息を吐くと、隣に立つ尊さんの鋭くも温かい眼差しが、俺の全身を射抜くように捉えた。
「……このままじゃ風邪を引きかねないな」
尊さんは迷いのない手つきでスマートフォンを取り出すと、素早く画面を操作し始めた。
「とりあえず、近くのホテルに入ろう」
「えっ、ホテル?でも……」
驚く俺を余所に、尊さんは「ここなら空きがあるな」と独り言ちて、雨の中を躊躇なく歩き出した。
案内されたのは、駅の近くにある清潔感の漂うビジネスホテルだった。
チェックインを済ませ、部屋のドアを開ける。
静まり返った室内に入ると、尊さんはすぐに備え付けのタオルを手に取り、俺の頭にバサリとかぶせた。
「た、尊さん! 自分でするから大丈夫ですよ、尊さんこそ濡れてるじゃないですか」
慌てて手を伸ばすが、尊さんはその大きな手でタオルの上からガシガシと、けれど慈しむように俺の頭を撫でた。
「お前は変なところで大雑把だからな。耳の後ろや首筋までちゃんと拭かないと、すぐに熱を出す。……ほら、じっとしてろ」
少し呆れたような、けれど深い慈愛に満ちた声。その心地良さに、俺は思わず猫のように目を細めてしまった。
自分を労ってくれる誰かがいるという事実が、雨で冷え切った心にじんわりと染み渡っていく。
「……よし。恋、シャワー先に使ってこい」
「あ、ありがとうございます……っ。すぐに出るので、尊さんも冷えないようにしてくださいね?」
お返しとばかりに、俺は手近なタオルで尊さんの濡れた髪を軽く拭い、その広い肩にかけた。
尊さんはすぐに「大丈夫だ」と短く答えた。
◆◇◆◇
バスルームに入り、熱いシャワーを浴びる。
肌を打つお湯の刺激が、強張っていた筋肉をゆっくりと解きほぐしていった。
(尊さんの優しさには、本当に感謝しかないな…でも、いつも甘えてばかりで申し訳ないような……)
湯気の中でそんな自問自答を繰り返し、火照った体で部屋に戻ると、尊さんはソファに腰を下ろしてスマホを眺めていた。
「……じゃ、ロッカーに寝巻きあるから乾かし終わったらそれに着替えておけよ」
「あ、はい!ありがとうございます」
返事をして尊さんの側を通り抜けようとした瞬間、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
尊さんは既にスーツを脱ぎ捨てており、その逞しい上半身が露わになっていた。
鍛え上げられた胸筋、浮き出た腹筋のライン。
濡れた肌が照明を反射して鈍く光り、かきあげられた髪から滴る雫が、鎖骨を伝って滑り落ちていく。
(……かっこいい。なんて色気だ……)
「水も滴る良い男」という言葉は、まさに彼のためにあるのではないか。
その圧倒的な肉体美と、大人の男の余裕が混ざり合い、部屋の空気が一気に濃密なものへと変わった気がした。
俺は動揺を隠すようにクローゼットへ向かい、慣れない手つきで寝巻きに着替える。
しばらくして、背後でシャワーの音が止まった。
扉が開き、現れた尊さんは腰にタオルを巻いただけの姿だった。
「? どうした、そんなに凝視して」
「……っ! い、いえ! 何でもないです!」
慌てて目を逸らす俺を見て、尊さんは低く喉を鳴らして笑った。
「そうか、先に寝ていていいからな」
そう言い残して洗面所へ向かう彼の背中を見送りながら、俺は逃げるようにベッドへと潜り込んだ。
枕から漂う清潔なリネンの香りと、微かに混じる尊さんの香水の残り香。
普段とは違うシチュエーションに、心臓の鼓動がいつまでも収まらない。
スマホの時計は既に23時を回っていた。
まぶたは重い。
けれど、この特別な時間の余韻を少しでも長く味わっていたくて、俺は意識を繋ぎ止めていた。
(……尊さんを、待っていたい……)
どれくらい時間が経っただろうか。
静かな部屋に、扉が開く微かな音が響いた。
「なんだ、まだ起きていたのか?」
近づいてくる尊さんの気配を感じ、俺は布団から顔を覗かせた。
「……あ、いや。その……尊さんと一緒に寝たくて、起きてました」
正直な想いを口にすると
尊さんは「……ったく」と呆れたように呟いたが、その表情はどこまでも優しかった。
彼は吸い込まれるように俺の隣へと滑り込み、横たわる。
(あぁ……あったかい。安心する匂い……)
「……恋、寒くないか?」
「大丈夫です。尊さんとくっついていると、すごく暖かいので」
「ふっ、俺は湯たんぽ代わりか」
「えへへ……そうかもしれません」
耳元で囁かれる低音の振動が、心地よい痺れとなって全身に伝わる。
尊さんの逞しい腕が俺の頭の下に差し込まれ、引き寄せられる。
その広い胸の中に収まると、これまでの緊張が嘘のように解け、俺は深い眠りの淵へと沈んでいった。
◆◇◆◇
──けれど、安らぎは長くは続かなかった。
意識の底で、重苦しい扉が開く。
そこは、湿り気を帯びた薄暗い部屋だった。
目の前には、記憶の底に封じ込めていたはずの男──藤井亮太が立っている。
『はは……っ、確かにね、同窓会に行くのは許可しましたよ? でも……60分で帰ってきてねって言いましたよね。連絡先も交換しない、お酒も禁止。……恋くん、これ、ぜーんぶ破りましたよね?』
亮太さんの声は、どこまでも丁寧で優しげだ。
けれど、その瞳の奥には底知れない冷たさと、爆発寸前の狂気が渦巻いている。
ガシャン、と耳障りな音が響いた。
床を見れば、俺が大切にしていたティーカップが無残な破片となって散乱している。
『……っ、ごめんなさい、亮太さん…』
『そんな顔されたら、俺が悪いみたいじゃないですか』
反論を許さない圧迫感。
肩を強く押され、床に叩きつけられる。
背中に走る鈍い痛み。
亮太さんは逃げ場を塞ぐように俺を見下ろし、嘲笑を浮かべた。
『ま、仕方ないですよね。躾が足りなかったということでしょうし。……ねえ、恋くん? 僕は君を愛してるんだ。だから、これも立派な愛の形なんだよ?』
『や、やめて……っ!! 嫌だ、放して!!』
暗闇の中で、弾かれたように跳ね起きた。
全身を嫌な汗が伝い、心臓が早鐘を打っている。
「……はぁ、はぁっ、……ゆ、夢……?」
震える手で額を拭う。視界がぼやける。
隣を見れば、尊さんが穏やかな寝息を立てて眠っていた。
長いまつげが頬に影を落とし、彫刻のような横顔は、普段の厳格さを忘れたかのように幼く見える。
(……最悪だ。なんで、あんな夢を……)
大学時代、亮太さんと半同棲していた頃の記憶。
「愛」という言葉を盾に、心を、行動を、人生そのものを縛り付けられていた日々。
あの冷たい視線、食器が割れる音、床の冷たさ。
それらが今も、呪縛のように俺の中に根強く残っている。
窓の外は依然として暗く、時計の針は午前3時を回ったところだった。
再び目を閉じても、瞼の裏には亮太さんの冷笑が焼き付いて離れない。
胸を締め付ける自己嫌悪と恐怖に、俺は自分の膝をぎゅっと抱きしめた。
(尊さんは、違う。あの人とは、全然違うのに……)
けれど、震えが止まらない。
無性に、この温もりが本物であることを確かめたくなった。
俺はそっと手を伸ばし、隣に眠る尊さんの頬に指先で触れた。
伝わってくる、確かな熱。
生きている人間の、力強く、そして穏やかな鼓動。
「……尊さん……っ」
小さな、消え入りそうな声でその名を呼ぶ。
俺は吸い寄せられるように、再び尊さんの腕の中へと潜り込んだ。
彼の寝巻きをぎゅっと握りしめ、その胸に顔を埋める。
亮太さんの呪縛を、尊さんの温もりが上書きしていく。
「ここは安心できる場所なんだ」と自分に言い聞かせながら
俺は彼の腕の中で、今度こそ静かな眠りへと誘われていった。
コメント
1件
投稿ありがとうございます! 尊さんと一緒に寝たい恋くん可愛いですね( ◜ཫ◝)