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伸びて欲しいな…|´-`)チラッ
第一章 夕影に立つ
風が鳴いていた。
夏の終わりを告げるように、校舎の窓の隙間から吹き込んだ風は、誰もいない教室のカーテンをふわりと揺らしていた。夕焼けが西の空を朱に染め、教室の隅々にまで長い影を落としている。
夏目 海は、黙って席に座っていた。
放課後、誰もいなくなった教室。机の上に頬杖をついたまま、彼女はただ、沈黙とともに在った。スマートフォンも鞄の中にしまったまま。誰かと話すことも、話しかけられることも、もうすっかり忘れてしまったように。
二年前の夏、白尾 唯加が死んだ。
体育館裏の古い桜の木に、ロープを結んで。その首にくくりつけて。
以来、海の中の時間は、どこかで止まってしまった。
「……かえろ。」
小さく呟いて席を立つ。誰も待っていない家。誰とも交わさぬ帰り道。それでも、日は暮れてゆく。
校門を出て、坂道を下る。夕日が目に染みた。遠くでひぐらしが鳴いていた。夏の音は、何かを呼び起こすように、耳にまとわりつく。
そのときだった。
──カァ。
短く、濁った声が、どこか上空から落ちてきた。海が顔を上げると、一本の電柱の上に、一羽の黒いカラスがとまっていた。
カラスはじっと、海を見下ろしている。黒い眼が、まるで人間のように、意志を帯びていた。
そして、次の瞬間だった。
「……白尾 唯加は、本当に“自殺”だったのかな?」
その声が、頭の中に響いた。
海は、足を止めた。何かの空耳かと思った。だが、また声が続く。
「君はずっと、疑ってたんじゃないの? 唯加が、あんな形で死ぬなんて、おかしいって。」
海の喉が、ごくりと鳴った。
「なに……? 誰……?」
電柱の上のカラスが、一度だけ羽を広げ、ふたたびたたんだ。そして、口元──いや、嘴が、わずかに動いた。
「僕は、君に真実を教えにきたんだよ、夏目 海。」
まるで、夢の中のような光景だった。だが、足元のアスファルトは確かに硬く、日が沈みかける空の色は、やけに鮮やかだった。
この日から、夏目 海の“夏”は、再び動き始めた。
第二章 カラスの声
海は、電柱の上のカラスを見上げたまま、しばらく言葉を失っていた。何かの冗談か、あるいは幻覚なのか。けれど、冷え始めた風と、夕陽に照らされたカラスの影が、現実のものだと告げていた。
「どうして……あんたが、唯加のことを……」
海の声は、震えていた。怒りでも、恐怖でもない。名前を口にすることすら避けてきた“あの日”が、否応なく引きずり出されるようで。
「君は気づいてたよね。唯加の死には、何かが隠されてるって。」
カラスの声は、どこか冷静で、だが確かに感情の熱を孕んでいた。空から降るように響くその言葉に、海の胸が締めつけられる。
「……うるさい」
小さく呟くと、海は足を速めた。カラスに背を向け、坂道を駆け下りる。影が伸び、風が彼女の髪を乱す。
けれど──カァ。
一声鳴いたかと思うと、黒い影が風の中を追いかけてきた。カラスは軽やかに舞い降り、海の前に着地した。ごみ捨て場の近くの電線の上、街灯の鉄骨、信号の縁──どこに逃げても、カラスは彼女の視界のどこかに現れた。
「逃げても無駄だよ。僕は“知ってる”。唯加が死ぬ、もっと前のことから。」
「……知ってる? なにを……」
「君たちが、最後に話した日のこと。唯加が、何に怯えていたか。誰を、恐れていたか。」
その言葉に、海の心臓がどくりと鳴った。
──あの日、唯加の声が震えていた。「言ったら、私、もう……」そう言いかけて、口を閉ざした。あの不自然な沈黙を、海はずっと胸の奥で思い出さないふりをしていた。
「ねえ、海。君はもう、あの夏に背を向けるのをやめるべきだ。」
カラスの黒い瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「真実は、ずっとそこにあった。ただ君が、見ないふりをしていただけなんだ。」
──カラスは何者なのか。なぜ、唯加のことを知っているのか。そもそも、どうして喋るのか。
疑問は尽きなかったが、それでも海の中に、確かな“熱”が生まれ始めていた。
唯加は、本当に自分の意思で死を選んだのか。
もしそうでなかったなら──
「……あんたが、ほんとに何か知ってるなら」
海は一歩、黒い鳥に近づいた。
「全部、教えてよ。私が……全部、暴いてみせる。」
カラスは、ひとつ鳴いた。どこか、笑うように。
「いいだろう。じゃあ、取引しよう。」
「取引?」
「僕の話を、最後まで聞くこと。それが、君の“代償”だ。」
カラスの黒い翼が、夕空を裂くように広がった。まるで、何かの幕が上がるように。
──この夏は、決して穏やかに終わらない。
そう、海は直感していた。
第三章 夏の沈黙
「……取引って、どういう意味よ。」
家の玄関を開けた瞬間、海は振り返ってカラスに問いかけた。薄明かりの灯る門柱の上に、あの黒い鳥はまるで主のように鎮座していた。
「簡単なことさ。君が僕の語ることから目を逸らさない。途中で投げ出さない。それだけ。」
「言っとくけど、こっちは遊びでやってるんじゃないから。」
「僕もだよ。……唯加の死に関わった“人間”を、君に突きつけるために、ここまで来た。」
その言葉に、海の背中がすっと冷える。
“人間”──つまり、唯加の死の裏に、誰かがいたと。
「それ、どういう……」
「今夜はもう休むといい。明日、学校で“最初の鍵”が見つかるから。」
「は?」
「君が忘れたままにしてきた、唯加の“最後の友達”に、会いに行くことになるよ。」
カァ、とひとつ鳴いて、カラスは闇のなかへ飛び去っていった。まるで、海にその続きを告げずに。
部屋の灯りもつけず、制服のままベッドに倒れ込む。天井の薄闇をぼんやりと見つめながら、海はカラスの言葉を反芻していた。
唯加の“最後の友達”──そんな人、いたか?
思い返しても、唯加は自分とばかり一緒にいた。あの子は少し人付き合いが苦手で、でも海のそばではよく笑った。
……けれど、確かに。
ある時期から、唯加は何かを隠すようになった。放課後の誘いを断るようになり、笑顔が、どこか作り物めいていた。
“誰か”と会っていた──そんな気配を、どこかで感じていた。
──わたしが、見て見ぬふりをしてただけ。
まぶたの裏で、唯加の最後の笑顔が浮かび上がる。ほんの少しだけ、影を落とした、あの夏の日の表情。
海は静かに目を閉じた。
明日が来るのが、怖かった。
けれど、逃げることは、もうできなかった。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。制服に袖を通し、無言で朝食をかきこみ、母親と目も合わせずに家を出た。
蝉の声がまだ涼しげに響く登校路。カラスの姿はなかった。けれど、海の頭の中には、確かな声が残っていた。
“学校で、最初の鍵が見つかる”
その予言のような言葉に導かれるように、海は校門をくぐった。
そのときだった。
昇降口で、ひとりの女子生徒とすれ違った。
──あれ?
どこかで見た顔。でも、名前が出てこない。声もかけずにそのまま通り過ぎようとしたそのとき、向こうが立ち止まって、海の名前を呼んだ。
「……夏目さん、だよね?」
「……え?」
振り返ると、短く切り揃えた髪、整った顔立ち、けれどどこか影を帯びた瞳。見覚えがある。だが、すぐには思い出せない。
「白尾さんのこと、まだ……気にしてる?」
その名前を唐突に出されて、海の胸が一瞬、ぎゅっと縮んだ。
「あなた……唯加の、知り合い……?」
その少女は、少しだけ微笑んだ。その笑みには、どこか痛みのようなものがあった。
「私は、白尾さんの“最後の友達”だったよ。」
海の鼓動が跳ねた。まるで、カラスの言葉が、現実を引き寄せたように。
「放課後、少しだけ話せる? ……話さなきゃいけない気がして。」
そのとき、海の肩に、カラスの影が落ちた。
「ようやく、夏が始まったね。」
──第一の鍵が、音を立てて開かれる音がした。
第四章 最後の友達
放課後、海は約束の場所に向かって歩きながら、心の中で何度も考えを巡らせた。あの少女が言っていたこと。唯加の「最後の友達」──一体、どんな人物なのか。その名前も顔も、どうして思い出せないのか。
校庭を抜けて、校舎の裏手にある小さなベンチにたどり着いた。そこに、さっきの少女がすでに座っていた。やや緊張した様子で、手に持ったバッグを膝の上で弄りながら。
「……来てくれて、ありがとう。」
その少女が口を開いたとき、海は初めてその名前を聞いた。
「高瀬 彩花。あたし、白尾さんと同じクラスだった。」
「彩花さん……」
海は一瞬、考え込んだ。高瀬彩花。確かに、名前だけは覚えている。だが、顔は、なぜか今ひとつピンとこなかった。
「唯加とは、いつも一緒にいたの?」
「うん、そう。でも、最後のほうは、ちょっと疎遠になってしまって……」彩花の声には、どこか悔しさが滲んでいた。「あたし、何も気づいてあげられなかった。」
海は、彩花の言葉に少しずつ耳を傾ける。しばらく沈黙が流れた後、彩花がゆっくりと口を開いた。
「実は……白尾さん、あの日、最後のメールを送ってきたんだ。」
「メール?」
「うん。その内容はすごく普通だった。ただ、あたしが昨日言ったことを謝りたいって。でも、何かが変だった。文面に、それまでの彼女にはなかった、すごく無理をしてる感じがあった。」
その言葉に、海は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
「無理してる感じって?」
「……彼女、ずっと“明るい”子だったんだよ。元気で、みんなと笑ってて。でも、そのメールには、『今すぐ話せないけど、ちゃんと向き合わなきゃ』って書いてあった。それがすごく不自然だった。」
海は無意識に自分の腕を抱きしめた。唯加が、あんなに笑顔を見せていたのは、みんなの前だけだったのか。
「そのメールを送った後、彼女は学校に来なかった。翌日、あの場所で──」
その言葉に、海は息を呑んだ。
「──場所?」
「桜の木の下。あの場所で、白尾さんは首を吊っていた。」彩花の声が少し震えた。「あの時、私はまだ“何も”気づいてなかった。メールを送った彼女が、あんなことをするなんて、思ってもみなかったから。」
その言葉に、海の中で何かが崩れる音がした。彩花が言う通りだ。唯加が“死を選ぶ”なんて、どうして信じられただろうか。
「でも……それでも、彩花さん、最後に何かおかしなことに気づかなかった?」
「気づいてたよ。」彩花が目を伏せる。「彼女が、あのメールの前に、すごく落ち込んでいた。誰かに会いたがっていた。でも、誰に会おうとしていたのか、あたしにはわからなかった。」
その言葉が、海の胸を強く打った。誰か──誰に会いたがっていたのか。
「……その誰かが、わかれば、唯加の死の真相に近づけるんじゃないの?」
彩花はゆっくりと頷いた。「あたしも、それをずっと考えてた。でも、それを知っているのは、きっと、他の誰かだと思う。」
海の中で何かがはっきりと浮かび上がった。誰かが知っている。それが、唯加の死に繋がる“最後の鍵”なのだ。
「じゃあ、私、探してみるよ。」海は決意を込めて言った。「誰か、見つけてみせる。」
彩花は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。「お願い、少しだけ……気をつけて。」
海は、その言葉を心に刻み込みながら、再び歩き出した。空は少しだけ曇り、風が冷たく頬を撫でた。これから始まる道は、決して穏やかではないと感じた。
でも、海はもう、迷うことはなかった。
第五章 隠された真実
次の日、海は学校に行く前に、もう一度だけ唯加のメールを思い返していた。あの“普通の”内容の中に潜む違和感が、彼女の心の中で重くのしかかっていた。何度も読み返したが、そこには確かに「今すぐ話せないけど」という一文があった。それが何を意味していたのか。
そして彩花の言葉が、海の中で反響する。
「誰かに会いたがっていた。でも、誰に会おうとしていたのか、わからなかった。」
その「誰か」が、すべてを解き明かす鍵であるような気がしてならなかった。
放課後、海は再び校庭を歩きながら思案していた。彼女の足取りは、無意識のうちにある場所へと向かっていた。
桜の木の下──唯加が命を絶った場所。
海がその場所に到達したとき、思わず立ち止まる。桜の木の下には、あの日から何も変わらず、静かな風が吹いていた。まるで何もなかったかのように、時間が止まっているような感覚に包まれる。
──でも、違う。唯加がここで死んだ。何かが、ここに残っているはずだ。
海はそっと木の根元を覗き込んだ。その時、ふと目に入ったものがあった。小さな紙切れ──風で飛ばされたのか、木の根元にひっそりと落ちていた。
それは、ぼろぼろのメモのようなもので、文字がかすれていたが、確かに何かが書かれているようだった。
海はそのメモを拾い上げ、指先で慎重に擦りながら、その内容を読み取った。
「──どこに行けばいい?」
それだけ。簡潔で、どこか頼りない文字が並んでいた。しかし、その一文に、海は強く胸が締めつけられる思いを感じた。唯加が誰かに宛てて書いた言葉のように思えた。
──「どこに行けばいい?」──一体、何を意味していたのか。
その瞬間、海は気づく。今まで見逃していた何かが、ここに隠されていたことに。
唯加が求めていたのは、単なる「場所」ではない。彼女が会いたかったのは、誰かが持っている「答え」だったのではないか。
そのメモが示唆しているのは、唯加がまだ生きていた時、誰かに助けを求めていたということだ。そして、その誰かが「答え」を持っている。
次の日、海は再び彩花に会うため、放課後のベンチに向かっていた。今日こそ、あの「誰か」を探し出すために。
「ねえ、彩花さん。」
彩花が微笑んで海を見上げる。いつもと変わらない笑顔だが、どこかその瞳には深い陰りが見え隠れしていた。
「唯加が最後に言っていたこと、わかったかもしれない。」
彩花が目を丸くした。「何か、気づいたの?」
海は、あのメモのことを彩花に話し、唯加が求めていた「答え」を探し始めることを伝えた。
「でも、その“答え”が誰かにあるとしたら……彩花さんは、最後に唯加が何を考えていたのか、少しでもわかる?」
彩花は少し沈黙し、やがて深いため息をついた。「あたし、白尾さんのことをもう一度、見直さなきゃいけないのかもしれない。」
その言葉に、海の胸が高鳴った。
「……それって、どういうこと?」
「実は、白尾さんが亡くなる前、あたしも気づいたんだ。彼女、何かを隠していた。何かを、隠し続けていた。」
その瞬間、海は悟った。彩花が言いたかったのは、唯加が「何かを知っていた」ということ。何かを知っていたからこそ、追い詰められていたのだ。
「それを、教えてほしい。」
海の言葉には、これ以上後悔しないという決意が込められていた。
彩花は少し考えると、ゆっくりと口を開いた。
「…実は、唯加が死ぬ前に、誰かと会う約束をしていたの。あたし、聞いてしまったんだ。」
その言葉が、海にとって最後の鍵を握るものとなった。
第六章 約束の相手
「……その人の名前、覚えてる?」
海の問いに、彩花は小さく頷いた。
「うん。でも、信じられなかった。白尾さんがその人と関わっていたなんて、思いもしなかったから。」
言葉の間に、明らかな逡巡があった。まるで、それを言ってしまえば、もう後戻りができなくなるような──そんな重み。
「名前を教えて。」
海の声は静かだったが、切実だった。
彩花は少し唇を噛んだのち、ゆっくりと口を開いた。
「……早川 蓮。新聞部の男の子。二年生だった人。」
「早川、蓮……」
聞き覚えのない名前だった。だが、どこかで聞いたような気もした。もやのかかった記憶の底を、かすかな影がよぎる。
「唯加さんと、どうしてその人が?」
「わからない。でも……たぶん、唯加さんが何かを“知った”のは、彼と関わってからだと思う。」
彩花の言葉に、海の背筋がぞくりと冷えた。
──新聞部。情報を集め、記事にして世に出す人間。
唯加が“何かを知った”とすれば、それは偶然ではない。彼が唯加に「見せた」可能性さえある。
「ねえ、海さん……気をつけて。彼、ちょっと……普通じゃなかった。」
その言葉の裏にある不穏な気配に、海は無言で頷いた。
その夜、海は久しぶりに唯加の写真を手に取った。
中学の卒業式、並んで笑って写っている二人。もう、戻らない時間。けれど、その笑顔の奥にあるものを、ようやく今になって探し始めたのだ。
「蓮って人に、会わなきゃ。」
そのとき──
窓の外から、低く掠れた声がした。
「──もう、すぐそこまで来てる。」
あのカラスだった。
月明かりに照らされた窓辺に、黒い影が止まっている。
「何が来てるの?」
海が問い返すと、カラスは小さく首を傾げた。
「真実と、嘘。どちらを望む?」
「……真実。」
迷わずそう答えた海に、カラスは羽を一度だけばたつかせて言った。
「ならば、蓮に会え。だが──彼は、すべてを語るわけじゃない。彼は“作り手”だからな。」
「作り手……?」
「物語を“書く”者は、時に“壊す”こともできる。」
意味深な言葉を残し、カラスは闇へと舞い上がった。
海の中で、不安と好奇心が静かに交錯していた。
新聞部の早川 蓮。唯加が最後に会おうとしていた人物。
そして、「作り手」と呼ばれたその存在。
彼は、ただの取材者なのか。観察者なのか。それとも──
真実を、形作る“もう一人の語り手”なのか。
第七章 物語の作り手
早川 蓮は、図書室の一番奥──人気のない閲覧席にいた。
黒縁の眼鏡、無造作に垂れた前髪。黙々とノートにペンを走らせているその横顔には、どこか他人を拒むような静けさがあった。まるで、自分以外のすべてに興味がないような。
けれど、海は近づいて声をかけた。
「早川 蓮くん、だよね?」
彼は、少しだけ目を上げた。海の存在を確認すると、再び視線を落とした。
「……はい。何か用ですか。」
「白尾 唯加のこと、覚えてる?」
その名前を出した瞬間、彼の手が止まった。
わずかな間。そして、ゆっくりと眼鏡越しに海を見つめる。
「……覚えてないと言ったら?」
「嘘だと思う。」
海は静かに椅子を引き、彼の向かいに座った。
「彼女は、死ぬ前にあなたと会おうとしていた。そう聞いた。」
蓮はため息をついた。どこか芝居がかったような、深く、長い息だった。
「……あの子は、僕の“読者”だったんだ。」
「読者?」
蓮はノートのページを一枚めくった。そこには、手書きの短編小説のような文章が綴られていた。
「僕は、物語を書く。現実の中の“物語”をね。世の中の裏側。人の見たくないもの。隠された感情。そういうものを掘り起こして、書く。」
「唯加は、その“物語”の中に入ったの?」
「そう。自分から。」
蓮の声は感情を持たず、ただ事実だけを告げるようだった。
「彼女はある日、僕の原稿を盗み見た。そして、その中に──“あること”が書かれていた。それを信じてしまった。」
「どんなこと?」
蓮は口を閉ざした。海をじっと見たまま、言葉を選ぶように黙っていた。
「僕が書いた物語の中で、ある教師が、ある生徒に……悪意を向けていた。支配、暴力、沈黙。そして、それを他の誰も見ようとしなかった。彼女は、それが“事実”だと思い込んだ。」
「……それは、実際にあったことなの?」
蓮は首を横に振った。
「“あった”とも言えるし、“なかった”とも言える。」
「どういうこと?」
「僕が書いたのは、あくまで“可能性”だ。でも、唯加は……その中に、自分の現実を重ねたんだよ。」
海の中に、ひとつの像が浮かんだ。
唯加は、自分が傷つけられた過去を、蓮の物語に重ねてしまった。そして、その物語を“証拠”だと信じてしまったのだ。
──それが、彼女の死につながった?
「でも、それは……あなたのせいじゃない。」
「本当にそう思う?」
蓮の瞳が、初めて感情を宿した。冷たく、深い、哀しみの色だった。
「物語は、読む人の心の形で変わる。誰かの癒しになったり、誰かの毒にもなる。僕はそれを知ってた。だけど、止めなかった。」
「なぜ……?」
「彼女は、真実が欲しかったんじゃない。“理由”が欲しかったんだ。自分が壊れた理由を、どこか外に求めていた。」
──だから、彼女はその“物語”を信じた。
自分の壊れた心を、誰かのせいにできる「言葉」を。
「……君はどうなの? 夏目 海さん。」
不意に名を呼ばれ、海はびくりとした。
「君もまた、物語の中に生きようとしていない?」
「私は……唯加の真実を知りたいだけ。」
「でもそれは、彼女の“物語”を、自分のものにするってことだよ。」
蓮は、もう一度静かに問いかける。
「君は、彼女が死んだ“意味”を探してる。でも──死に“意味”なんてあるのかな?」
沈黙。
海の心に、初めて生まれた問いだった。
第八章 もう一つの言葉
夜の校舎に、海は一人で残っていた。
蓮と別れたあと、足が自然と音楽室へと向かっていたのだ。唯加が好きだった場所。よく一人でピアノを弾いていた。放課後の静けさが、その記憶を優しく呼び起こす。
──理由が欲しかったんだよ、彼女は。
蓮の言葉が、何度も反響する。
唯加の死に、“意味”なんてなかったとしたら。海は、それを受け入れられるのだろうか?
「……意味がなきゃ、あんなに泣かないよ。」
呟いたそのとき。
窓辺に、ひとつの黒い影が降りた。
「やっと気づいたか。」
あのカラスだった。以前より、少しだけ近くに感じる。まるで、何かを確かめに来たような眼差し。
「君は、どうして唯加の死に囚われている?」
問いかけは鋭かった。核心を、真っすぐ突いてくる。
「……友達だったから。」
「本当に、それだけか?」
海は口をつぐむ。
自分でもわかっている。それは、たしかに“きっかけ”にすぎない。海が唯加の死にしがみついているのは──
「……私も、どこかで壊れてたから。」
そう呟いた瞬間、心がふっと軽くなった。ようやく認められた、そんな感覚だった。
「唯加が死んでから、誰も私を見なかった。家でも、学校でも。唯加がいた時だけ、私は“誰か”でいられた。だから……」
──だから、唯加の死に意味があってほしかった。
ただの“事故”や“感情の破綻”なんかで終わってほしくなかった。
カラスは、少しだけ眼を細めて言った。
「それが、君の“問い”だったのだな。」
「問い……?」
「“死に意味はあるのか”。“喪失は埋まるのか”。君が探していたのは“答え”ではない。“問い続けること”そのものだった。」
海はその言葉に、ただ黙って頷いた。
「唯加が、最後に書き残していた“言葉”を知りたいか?」
海は思わず、息を呑んだ。
「……あるの?」
「あるとも。ただし、それは“見つける”のではなく、“選ぶ”ものだ。」
「選ぶ……?」
「君がこれから見る“記憶”の断片。その中に、唯加が残した最後の“言葉”がある。だが、それはひとつだけ。どれを“真実”とするかは、君次第だ。」
言い終えると同時に、カラスの羽がふわりと揺れた。
すると、海の視界がにじむようにぼやけ──
次の瞬間、周囲の景色が音もなく切り替わっていた。
そこは、唯加の部屋だった。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、ベッドの上に広がるノートを照らしている。
その中には、いくつもの“言葉”が並んでいた。
1.わたしは、壊れていく音が好きだった。
2.「大丈夫」と言われるたび、ひとつずつ死んでいった。
3.誰も悪くなかった。それが、いちばんつらかった。
4.海ちゃんだけは、笑ってほしい。ずっと、ほんとうに。
5.これがわたしの、最初で最後の“自由”だと思った。
どれが彼女の本心なのか。どれもが、唯加の声で、どれもが違う“顔”をしている。
背後で、カラスが低く鳴いた。
「選べ。たったひとつだけ。」
海の瞳に映る五つの言葉。
選んだ“ひとつ”が、唯加の死に意味を与え、また、意味を奪う。
その指先が、ゆっくりと一つの“言葉”へと伸びていった──
第九章 ただ一つの言葉
海が指先で選んだのは、四番目の言葉だった。
「海ちゃんだけは、笑ってほしい。ずっと、ほんとうに。」
その言葉を選んだ瞬間、空間がふっと静まり返った。視界にかかっていた霧が、潮が引くように薄れてゆく。
唯加の部屋も、夕陽も、ノートも──すべてが音もなく遠ざかっていった。
そして気づくと、海は再び音楽室にいた。
そこには、変わらず窓辺にカラスが佇んでいた。黒曜石のような瞳が、じっと海を見つめている。
「選んだな。」
「……あれが、唯加の本心だと信じたい。」
「信じた瞬間に、それは“真実”になる。君が与えた意味が、彼女の死を“終わらせる”鍵になるのだ。」
海は、その言葉の重みに、思わず息を呑んだ。
終わらせる。それは、過去をなかったことにするのではない。痛みを“受け止める”ということ。
「笑ってほしい、か……」
呟いたとき、ふと、唯加の声が耳の奥で揺れた気がした。
『海ちゃんは、笑ってるときがいちばん綺麗だよ』
いつか、夏の教室で、麦茶を飲みながら唯加が言った言葉。ずっと忘れていたはずの、ささいな一瞬。
海の胸に、小さな光が灯る。
「……ありがとう、唯加。」
そのとき、カラスが一歩、窓から中へと踏み込んだ。
「まだ終わりではない。」
「……え?」
「“言葉”は選ばれた。だが、“真実”はまだ埋もれている。唯加は、“誰か”にその言葉を伝えたかった。その“誰か”が、まだこの学校にいる。」
「……誰?」
カラスは、ふっと首を傾げて言った。
「その者は、君に“似ている”。孤独を恐れず、ただ真実だけを求める、物語の“語り手”だ。」
そのとき、海の胸に浮かんだのは──早川 蓮の顔だった。
「彼……なの?」
カラスは答えなかった。ただ、一歩ずつ海のほうへと歩き出す。そして、ふいにその身体が淡く光を帯びた。
まるで、黒い羽の奥から、何かがほどけるように。
「おまえ、まさか……」
カラスの瞳が、人間のもののように、どこか哀しみを湛えていた。
「私は“影”だ。彼女が最後に遺した“声”そのもの。君の前に姿を現したのは、君が“答えを求め続ける者”だったから。」
海は、ただその姿を見つめていた。
「影は、やがて消える。だが──真実は、残る。」
カラスの声が、少しずつ遠のいていく。
「早川 蓮に会え。そして、“唯加の最後の手紙”を探せ。そこに、本当の終わりがある。」
そう言って、カラスはふわりと飛び立ち、夜空へと溶けていった。
風が一瞬だけ、窓から吹き込んだ。
唯加の声が、もう一度、遠くから聞こえたような気がした。
『笑っていてね。ねえ、海ちゃん。笑って、わたしのことを忘れて』
海はゆっくりと目を閉じた。
涙ではなく、静かな決意がそこにあった。
「行こう。もう一度、蓮に会わなきゃ。」
そして、唯加の本当の「声」を聞くために。
第十章 遺された手紙
次の日、放課後の図書室は、人影もなく静まり返っていた。
海は、ゆっくりと重たい扉を押し、まっすぐにカウンターの奥を目指す。そこに、彼はいた。
本を閉じ、黙って顔を上げる蓮。
「……また、来たんだ。」
「うん。話したいことがあるの。」
海の目はまっすぐだった。もう、誰かの後ろに隠れるような眼差しじゃない。蓮はわずかに驚いたように眉を動かし、椅子を勧めた。
「唯加が、最後に“誰か”に言葉を遺したって──それが、君なんじゃないかって思った。」
蓮はその言葉に、目を伏せた。
「……俺が唯加から、手紙を受け取ったのは、あの子が亡くなった“二週間前”だった。」
「やっぱり……」
「だけど俺は、それを開かなかった。」
海は息をのむ。
「怖かった。俺は、あの子の“全て”を知っていると思っていた。でも、違った。あの子は、俺には見せない顔を──お前に見せてた。」
その言葉は、嫉妬というよりも、悔恨だった。
「その手紙……今、持ってる?」
蓮は無言で鞄の中を探り、一枚の古びた封筒を差し出した。封は未開封のまま、少し折れ曲がっている。
「……一緒に、読むか?」
海は小さく頷いた。
蓮が静かに封を切り、便箋を広げる。手書きの文字は柔らかく、まるで囁くような筆跡だった。
蓮へ
もし、これを読んでいるなら、私はもういないのだと思います。
それでも、あなたにだけは本当のことを伝えたい。
私は、自分の死に“意味”があると思っていた。でも、そんなのは傲慢だった。
人は意味の中では生きられない。ただ、誰かの「記憶」の中で、生き直すしかないんだと思った。
私は海ちゃんが好きでした。
あの子は、私が一番壊れていた時、何も言わず隣にいてくれた。
「理由がないこと」を、笑ってくれた。
だからお願い。
あの子には、真実より、笑顔をあげてほしい。
わたしは、これで終わります。
でも、あなたには、ここから始めてほしい。
――唯加
読み終えたとき、図書室の空気は沈黙していた。
海は、そっと目を閉じる。
「唯加は……ずっと、私たちのことを見てたんだね。」
「……皮肉だよな。俺たち、彼女のこと、何も見えてなかった。」
蓮の声には、初めて素直な痛みが滲んでいた。
だが、そこには確かに“救い”があった。唯加は誰にも憎しみを遺さなかった。ただ、小さな願いを、二人に託していた。
その時、海はふと呟いた。
「ねえ、蓮。私ね、カラスに会ったの。」
蓮は少しだけ目を見開いたが、笑った。
「そっか。そいつ、何か言ってた?」
「“真実は選ぶものだ”って。」
「……不思議なカラスだな。」
海は、笑った。
ほんとうに久しぶりに、心から。
そして、図書室の外。夕暮れの空に、一羽の黒い影が舞い上がっていた。
カラスは静かに旋回しながら、誰にも届かない言葉を口にする。
「──良かったな、唯加。」
第十一章 夏影に訊く
蝉の声が、午後の空をゆらしていた。
それはまるで、去年と同じ夏のようで、けれど、どこか違っていた。
太陽の色も、風の匂いも、心の底に降り積もる静けさも。
夏目 海は、一人であの踏切を歩いていた。
唯加がいなくなった、あの日の帰り道。
カラスに出会い、「唯加は本当に自殺だったと思う?」と問いかけられた、あの場所。
今日は、風がやさしかった。
学校では、少しだけ友達と笑うようになった。
図書室では、蓮と静かに話す時間が増えた。
何もかもが劇的に変わったわけじゃない。それでも、確かに“何か”は動き出していた。
信号が赤になる。海は立ち止まり、空を見上げる。
入道雲が、緩やかに流れていく。
「唯加。」
風の音に紛れるように、彼女の名前を呼んだ。
「本当はずっと、あなたに“答え”を求めてた。でも、違った。私は“問い”を抱えて生きていくしかなかったんだ。」
それで、いい。
“わからない”まま、歩き続けること。
“忘れない”まま、誰かを想い続けること。
それは、弱さではなく、生きていくということだった。
信号が青に変わる。
海は、歩き出す。
そのとき、彼女の肩にふわりと風が吹いた。
まるで誰かの声が、もう一度だけ、背中を押してくれたような気がした。
『ねえ、海ちゃん。笑っていてね』
空に、カラスの影はなかった。
でも、もうそれでいいと思った。
答えのない問いかけを、私はこの胸のなかに持っている。
あの夏の日から、ずっと。
──夏影に訊く。
答えは、いまも風の中にある。
そして、きっと。
その風を受けて、わたしはまた、歩いてゆく。
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唯加の死因──そして、それでも海へ
唯加の死は、表向きには「首吊り自殺」として処理されていた。
遺書はなく、現場にも争った形跡はなかった。だから周囲は“本人の意思”だと信じた。
だが、あれは唯加自身が選んだ「かたち」ではなかった。
真実はこうだ。
唯加は、精神的に深く追い詰められていた。
家庭では、抑圧と無関心の中で「優等生」であることを強いられ、学校では表面だけの交友関係に疲弊していた。
本当に心を開けたのは、海と、かつての蓮だけだった。
ある日、唯加は自宅で、母親との激しい口論のあと、強い衝動に駆られる。
“もう、終わらせたい”
けれど、その瞬間、唯加は本気で「死にたかった」わけではなかった。
家を飛び出し、あの神社の裏手の木に登り、ロープをかけた。
──「やめてほしい」という“最期のSOS”を、誰かに見つけてほしかった。
だが。
誰も気づかなかった。
唯加の足が滑ったのは、ほんの一瞬だった。
ロープは首を締め、彼女の意識は遠のいた。
そのまま、戻ってこなかった。
つまり──
**唯加の死因は「事故に限りなく近い、自殺未遂の失敗」**だった。
彼女は、本当の最後の瞬間、まだ迷っていた。
生きたいとも、死にたいとも、はっきり言えなかった。
だからこそ、遺された「手紙」には、“選択肢”があった。
彼女は「死んだ理由」を語らなかった。
代わりに、**「どう記憶されたいか」**を、蓮と海に託したのだ。
この真実は、海にも蓮にも、最後まで“完全には”届かない。
だが、それでいい。
彼女が望んだのは、「真実」ではなく、「意味」だったから。
だからこそ、カラスは問うた。
「唯加は、本当に自殺だったと思う?」
そして、海は“言葉”を選んだ。
その選択こそが、唯加の「最後の願い」を叶えることになった。
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カラスの正体──「風に残る声」
カラスは、名前を持たない。
海に名前を訊かれても、いつもはぐらかすように笑った。
だが、彼はただの鳥ではない。
あのカラスの正体は、**唯加の「未練」**だった。
もっと正確に言えば──
唯加が“本当は言いたかったけれど、言えなかった言葉”の集合体。
人が亡くなったとき、想いだけが世界に滓のように残ることがある。
それは霊ではなく、幻ではなく、「風にまぎれた声」のようなもの。
カラスは、唯加の未練、願い、そして**「問い」**だった。
なぜ私は、海ちゃんに「さよなら」を言えなかったのか。
なぜ、誰にも「助けて」と言えなかったのか。
私の死に、意味はあったのか。
──そうした問いが、カタチを得て、この世界をさまよっていた。
カラスは、自らを「問いかける者」と呼んだ。
それは“答えを与える者”ではない。
誰かに、問いを残し、選ばせる存在。
そして、なぜ海の前に現れたのか──
それは、海だけが、唯加の“声なき声”に気づける存在だったから。
心のどこかで、まだ唯加を信じていた。
彼女の死に、隠された何かがあると信じた。
だから、カラスは風のなかで海に「問いかけ」を託した。
「唯加は、本当に自殺だったと思う?」
それは、真実の扉ではない。
けれど、その扉の先に「彼女ともう一度向き合う勇気」がある。
そして、最終章の終わり。
カラスは、風にまぎれて消えていく。
唯加の未練が、言葉として誰かに“受け取られた”からだ。
つまり──
カラスは、「唯加そのもの」ではない。
けれど、「唯加の中で言えなかったこと」だった。