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『確かに、基山さんは若くて整ったお顔立ちですから、秘書や受付などがお似合いなのかもしれません。が、コミュニケーション能力に難があるようです。まずは、欠落した能力を――』
『――うるさい!』
その後は、何やら意味をなさない言葉を叫んでいた基山さんだが、溝口部長と中村部長、専務の姿を見た途端に泣き出してしまった。
基山さんは生理前だったのだろうか。いや、あそこまで情緒不安定な様子は、入院した頃の祖母の症状と似ている。
深刻な病気でなければ良いが。
とにかく、そうして、基山さんが会社を去った。
尊敬する是枝部長を煩わせる問題が解決し、私は安堵した。
これで、なんの心配もなく部長のお手伝いに励めると思ったのも束の間。アパートの取り壊しが決まった。
借金返済を終えないうちは住み続けるつもりでいたアパート。敷金や礼金を払う余裕はないので、ウィークリーマンションにでも入ろうと思っていた。
それがまさか、なぜ、是枝部長と同居などという事態となったのか。
人生は不思議だ。
その上、敬愛する部長をお名前で呼ぶ名誉を頂けて、舞い上がっていたのだろう。
倫太朗以外の人とは、缶ビール一本までと決めていたのに、うっかり三本も飲んでしまった。
夢と現実の狭間を行ったり来たりしているような、ゆらゆらふわふわした心地良さ。
どっちに行っても彪さんがいる。
幸せだ。
私は思わず手を伸ばし、彼に触れた。
温かい。
『キス、するよ?』
なんて幸せな夢。
着ている下着の心配をしてしまうリアルさも相まって、興奮のあまり身体が熱くなる。
『好きだよ』
死んでもいいと思った。
解放された胸を優しく揉まれ、はしたなく尖る先端を舐められ、下腹部が疼く。
一度でいいから、抱かれたい。
確かにそう思った。
けれど、十年振りにナニかが侵入し、身体は悲鳴を上げた。
なんという失態。
不甲斐なさに泣きそうになっていると、思いもよらない言葉を貰った。
『誕生日おめでとう!』
私の人生は、この瞬間の為にあったのではないか。
『好きだよ、本当に』
夢ならば覚めないで。
演歌の歌詞のような呪文を唱えながら、夢ならば許されるだろうと、私は彪さんにしがみつき、必死でキスに応えた。
夢だと、思ったから。
まさか、夢じゃなかったなんて。
目が覚めた私は、半裸で眠る彪さんを見つめたまま、数分間は放心していた。
なんということをしてしまったのか。
人間、極限まで追い詰められると、むしろ冷静になるらしい。
私はそっとベッドを出ると、シャワーを浴び、簡単な朝食を用意し、朝日を見ながら駅に向かった。
駅前のコンビニのイートインスペースで一時間かけてコーヒー一杯を飲み、一番乗りで駅に入った。
倫太朗との待ち合わせ場所である駅前のカフェで更に二時間、コーヒーとサンドイッチを食べて過ごした。
頭の中は昨夜の彪さんとの絡み合いで渦巻いていて、やって来た倫太朗に熱があるのかと心配されてしまった。
二人でお墓参りをして、近況報告をしながら軽めの昼食を取り、倫太朗が買ってくれるという誕生日プレゼントを選びに歩く。
今年はスーツを買ってもらうと決めていた。
経営戦略企画部で働きだしてから、週に三日ならばとリクルートスーツを着ていたが、週五日勤務となると一着では足りない。
倫太朗は私が経営戦略企画部で働きだしたことをとても喜んでくれて、生まれて初めてセミオーダーメイドでスーツを購入した。
ジャケットとスカートとパンツのセットで、色は黒。じっくり見なければ分からない程度のストライプデザイン。
それから、スーツに合ったワイシャツとブラウスも買ってもらった。
二週間後の仕上がりが楽しみだ。
私たちは居酒屋の個室に入り、生ビールで乾杯した。
『で? 急に引っ越した上に迎えに行っちゃダメとか、なんで?』
倫太朗には数日前に引っ越ししたことと、今日は待ち合わせにしようと電話で話した。
詳しく話したがらない私に、倫太朗は少し不満気だったが、電話では引き下がってくれた。
昼食の時に何も聞かれなかったから、忘れてくれていると思ったが、そうではなかったようだ。
私は正直に彪さんと同居するに至った経緯を話した。
気まずさはあったが、倫太朗に隠し事をするつもりは、最初からなかったから。
『ぶちょーさん、椿ちゃんのことが好きなんじゃない?』と、倫太朗は満面の笑みで言った。
この時点で、昨夜の情事は話していなかった。
『で、椿ちゃんもぶちょーさんが好き』
『罰当たりなこと言わないで』
『罰当たりって……』
私は焼き鳥を頬張り、二杯目のビールを注文する。
年に一度の今日は、百二十分の飲み放題に延長料金を払って百五十分にした。
金額の分以上飲まなければ。
『優しさや責任感だけで、部下と同居はしないよ?』
『ルームシェア……だから』
『じゃあ、指一本触れられてない?』
店員さんがジョッキを二つ持って来て、私と倫太朗は手元のジョッキを飲み干してから店員さんに渡した。受け取った、冷えたジョッキをそのまま口に運ぶ。
『椿ちゃん。ぶちょーさんてどんな人?』
『どんな……』
彪さんの姿を思い浮かべる。
『拝みたくなるほどいい男で、真面目で努力家で優しくて、尊敬できる人』
『で、好きなんだ?』
『尊敬してるの!』
そんな風に彪さんの話をして、ジョッキ五杯目の頃には、私はすっかり酔ってしまっていた。
『部長が毎日残業して一生懸命作った資料なのに、チョコレートで汚して捨てるなんて許せないじゃない!』
『うん、最低だね』
『私なら、その資料を枕の下に置いて寝るよ』
『え? 読まないの?』
『部長が夢に出てきてくれるかもしれない!』
『そーゆーことか』と、倫太朗が笑う。
『めちゃくちゃ好きじゃん』
『軽く言わないで!』
私の彪さんへの敬愛の情は、そんな一言に凝縮できるほど軽いものではないのだ。
『ぎゅーっとかされないの?』
『そっ、そんな! あれは、よ、酔って――』
『――えっ!? されたの?』
私は条件反射的に顔の前で両手をブンブンと振った。
『されてない! 最後まではされてないから!!』
『最後までって、発射されてないってこと!?』
『はっ――?! 違う! その――』
『――ああ。挿入してないってことか』
生々しい表現に、思わず昨夜を思い出す。
彪さんの声、体温、感触。
『へぇ。イケメンで仕事もデキるぶちょーさんは、ベッドのテクもすごいんだ?』
倫太朗がニヤけ顔で聞く。
私はビールを飲んでその問いを無視した。
すごい、と認めてしまったら、更に根掘り葉掘り聞いてくるに決まっている。
『会ってみたいなぁ。椿ちゃんにそんな表情させるぶちょーさんに』
会わせたくない。
彪さんに会ったらきっと、言われる。
つり合っていない、って。