わかっているけれど、誰かに言葉にされてしまったら、夢も見られなくなってしまう。
『倫太朗も惚れちゃうよ』
フフッと笑うと、倫太朗が目を丸くして、すぐに細めて微笑んだ。
『も、ってことは、椿ちゃんはぶちょーさんに惚れてるって認めるんだ?』
『……ちがっ――! 彪さんはモテるから、その、一般論の話であって――』
『――いいじゃない。好きになるのは自由だよ? 部下でも、借金があっても、人を好きになるのは自由』
違う。
私に、恋愛する自由なんてない。
大切な人たちの犠牲の上で生きている私に、誰かを愛したり、誰かに愛されたりする資格も自由も……ない。
自由があるとしたら、それはきっと夢を見るくらいだ。
三杯目のジョッキを空にした後から、私の記憶は途切れた。
楽しかったことは、わかる。
すごく楽しい気分で、早く帰りたかった。
帰ったら彪さんがいる。
それだけで、幸せな気持ちになれた。
『椿を寝かせて――――』
彪さんの声が聞こえる。
ふわふわゆらゆらして、気持ちいい。
頑張って瞼を上げると、彪さんの顔が見えた。
きゃーっ!
お姫様抱っこ!
叫びたいほど嬉しいのに、声が出ない。
夢だからだろう。
私は幸せな気持ちのまま、瞼を閉じた。
ふかふかの布団と、彪さんの香りに包まれて、私はおばあちゃんの言葉を思い出していた。
とにかく真面目に、人様に迷惑をかけず、身の丈に合った暮らしを有り難く思うように。
おばあちゃんは私に何度もそう言った。
実際に、おじいちゃんもおばあちゃんも滅多に贅沢はせず、家族で暮らせる家があるだけありがたいと、質素な生活を送っていた。
元々、両親との暮らしも裕福ではなかったし、隣や階下の住人の生活音を気にしながらの暮らしを思えば、一軒家で、自室を与えられただけ恵まれていたと思う。
私がおじいちゃんとおばあちゃんとの生活に慣れるのに、そう時間はかからなかった。
おばあちゃんの言いつけ通り、真面目に生きていたから、神様がいい夢を見させてくれたのかな……。
『椿』
彪さんが私を呼んでいる。
返事がしたくても、喉の粘膜がはり付いて、声が出ない。
『好きだよ、椿』
涙が出るほど嬉しい言葉に、私は無理矢理つばを飲み込んで、音の通り道を作った。
『私も好き……』
声を絞り出す。
『抱いていい?』
なんて都合のいい夢だろう。
好きだと言ってもらえただけでなく、抱いて貰えるだなんて。
夢ならば、正直な気持ちを言っても許されるだろうか。
『抱いてほしい』
必死に瞼を持ち上げると、彪さんが目を細めて微笑んでいた。
それから、ゆっくりと彼の唇が近づく。
食べられちゃいたい、と思った。
彪さんの大きな手が、細くて長い指が、ブラウスのボタンを外してゆく。
少しずつ胸元がすーすーして、スポーツブラが押し上げられる。
彪さんが私の肩を抱いて、身体を起こすと、ブラを掴み上げた。自然と両手が上がる。
死にたくなるほど恥ずかしいのに、成されるがままに脱がされ、期待に身体が火照る。
三つ編みが解けて、胸を隠すように髪が垂れ落ちた。
どうしていいかわからず、彼から視線を逸らす。すると、衣擦れの音が聞こえた。ベルトを外す金属音も。
薄暗いから凝視しなければその全貌は見えないけれど、互いに素肌を晒しているのはわかる。
ギシッとベッドが沈むと、人肌に包まれた。
『気持ちいい』
思わず本音が音になる。
頬に彼の息遣いを感じたと思ったら。柔らかな、少しカサついた弾力のある温かさを感じた。
額に、唇に、瞼に、唇に、頬に、唇に。
そして、侵入してきた舌に口内を蹂躙されると、同時に胸と腰をなぞられて背筋が伸びた。
あとは、ひたすら気持ち良かった。
指や舌で与えられる快感、眼差しや囁きで与えられる安らぎ、触れ合う体温で与えられる幸福感。
十年振りのセックスは、初めての時のそれとはまるで違った。
倫太朗とは、好奇心だけで繋がった。
そして、それだけでは虚しいとわかった。
後悔はしていない。
彼もそう言った。
ただ、次に肌を重ねるのは、心から愛せる男性と、と決めた。
『好きだ、椿』
忘れかけていてけれど、自分も女なのだと思い知らされた夜だった。
神様が与えてくれた誕生日プレゼントを胸に、目が覚めたら、現実に戻ったらまた仕事に励み、彪さんに感謝を忘れずにお仕えしようと思った。
朝ご飯は和食にしようか、洋食にしようか。
あ! お米を研いでいない!!
ハッとして、目を覚ました。
はず。
なのに、眼前には夢で抱かれたばかりの彪さんの微笑みがある。
片肘をついて頬杖し、私を見下ろしている。
夢だけでは飽き足らず、幻覚まで見るとは、私はなんて貪欲な人間なのか。
呆けている場合じゃない。
朝ご飯!
幻覚を打ち消そうと、ぎゅっときつく目を閉じ、開く。
が、どれほど求めているのか、幻覚は消えない。
それどころか、触れられた肩に温もりまで感じる。
彪さんの、くっきりと盛り上がっている鎖骨がぴくっと跳ね、触れたくなる。
なんて破廉恥な幻覚を――!
「おはよう」
幻覚……じゃない!?
「……っ!」
驚きのあまり、瞬きも忘れ、声も出ない。
フッと笑った彪さんの顔が近づき、半端に開いた唇に彼のそれが触れた。
――――っ!!
思わず鼻呼吸も口呼吸も停止する。
夢……のはずでは――!?
頭で考えるより、身体に聞く方が早くて正確だった。
下腹部の違和感は、確かに現実だ。
「椿?」
唇が離れ、彪さんが私の名前を呼ぶ。
『抱いてほしい』
生々しくて恥ずかしすぎる、自分の甘ったるい声が耳の奥で響く。
ゆ、夢だと……思ったのに――。
そう思うや否や、私は飛び起きた。
瞬時にタオルケットで身体を隠す。
「わ、わた……しはなんていうことを――っ!」
足の間がヒヤッとして、身震いする。
その感触に、昨夜の余韻を実感した。
彪さんも身体を起こす。
引き締まった上半身に、目が釘付けになる。
このお身体に抱き締められるなんて、なんて名誉……。
はっ! 私にとって名誉ということは、彪さんにとっては不名誉!!
「椿、俺は――」
「――せっ! 責任を! 責任を取らせてください!!」
私はベッドに額を押し付けて、土下座をした。
「セキニン?」
頭上から聞こえる呟きは、ひどくぎこちない。
そのはずだ。
親切にしただけの部下との過ちなど、彪さんにとっては信じがたい事実だろう。
「ぶっ、部長の輝かしい経歴に傷をつけてしまいましたこと、心からお詫びいたします」
「ケイレキ……って?」
「それは――」
「――あ、顔上げようか」
「え? あ、はい」
お詫びとはいえ、相手の目を見ずに話をするのは失礼だ。
そんなことも失念してしまうほど、私は動揺していた。
顔を上げ、恐る恐る彪さんの目を見る。
後光が見えた。
人生最大ともいえる大失態を犯した私に微笑むなど、彼は仏様の生まれ変わりか。
「で、責任て? 具体的には?」
「はっ、はいっ!」
「男女の仲で責任と言えば――」
「――かっ、身体で! 身体で償わせていただきます!!」
「カラダ……?」
「はいっ! 本来であれば慰謝料として金銭をお支払いせねばならないことは重々承知しておりますが、ご存じの通り、私には借金がございまして、そちらが完済しないことにはにっちもさっちも立ちゆきません。そうしますと、私が差し出せるものはこの身体だけです。幸い、健康と頑丈さには自信があります。是非とも――」
「――身体、くれるの?」
彪さんはなぜか、少し嬉しそう。
それを見て、私は思った。
お許しいただけるかもしれない!
「はいっ! 不肖柳田椿、誠心誠意お仕えいたします!!」
「オツカエ?」と言った彪さんは、少し首を傾げて眉根を寄せた。
「はい! 今、この瞬間から、私のことは奴隷だとでも思って、何なりとお申し付けください」
「何なりと……って?」
「はい! 家事全般はもちろんのこと、マッサージや性欲処理など――」
「――せっ! いよく処理って――」
「――はい! 手技、口技、足技などお好みの技を習得いたしまして、ご満足いただけるよう――」
「――ストップ!」
彪さんの手が私の口を覆う。
「きみは俺をどんな男だと思っているんだか……」と息を吐く。
それから、手を離し、代わりに唇で私の口を塞いだ。
腰を抱き寄せられ、逞しい身体に密着する。
身体を隠していたタオルケットは膝元で丸まっている。
「お望み通り、身体で償ってもらうよ」
至近距離で微笑まれ、私の思考は停止した。
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